「老い」と「死」について思うこと

正直言うと、老いが怖い、死ぬのも凄く怖い


昔、中学生の頃、初めて「死」を意識した。それより前の小学生時代に祖父母を亡くした時は、もちろん悲しかったけれど、死というものは、自分には直接関係ないことの様に思え、あくまでも他人事のような感じだった。


それが中学生になると、少し知恵がついて来たのか、思春期のせいなのか、人生や自分自身のことを憂う時期だったのか、ある日、夜寝る前に、急に死について深く考え、怖くなってしまった。

「死んだらどうなるのだろう。すべては無になるのだ。自分の肉体がこの世から無くなるなんて耐えられない。目を落とせば必ず視界に入る自分のこの腕も足も、死んでしまえば消えて無くなるのである。起きている間は常に何かを考えているこの脳も、いつか働かなくなって何も考えられなくなる時がやって来る。そんなのは嫌だ。だから少しでもあがいて長生きしたい。死ぬのは怖い。」

当時、親族の葬儀に出たときなど、お坊さんが読むお経で「白骨の身となり」・・とのフレーズを聞き、詳しい意味は分からないながらも、「ああ、そうだ。いつか人間は白骨になるのだな」と、漠然と、自分の力ではどうにもならないことが将来待っているのだと不安になったものだった。

それから長い時を経て現在、中高年に足を踏み入れてしまった今も、この気持ちは変わらない。よく知人の中には、「別にいつ死んでもいい」とか、「色々やりたい事はやったから今死んでも悔いはない」とか、「死ぬのは怖くない」、「深刻な病気になっても延命治療はしない」という人がいるけれど、私にはそんな勇気はない。中高年になっても、まだ死について、そこまで達観する事ができない。

人はどんな状況になっても、現世に未練が残るものだと思っている。どんなに年を取っていったとしても、意識がある状態ならば、私だったら延命治療を拒否することはできないだろうと思う。あくまでも現時点での判断だけれど、実際に将来そのときがやって来たとしても、相変わらず私はあがいてしまうのだと思う。

「姿勢」と「歩き方」には気をつけたい


私は、ずっと若かりし頃(
20代くらいの頃)には、旅行やレジャー、ファッションなどいろいろなものに興味があり、時計やバッグのブランド物を買って身につけたりしていた時期もあった。当時は、バッグ、時計、洋服以外にも欲しいものが沢山あって、いわゆる物欲が旺盛だったと思う。服でも雑貨でも何でも好きな物を買って、好きな物を食べに行って、そして自分への投資という名目で、好奇心と向上心のおもむくままに海外旅行を楽しみ、いろいろなものを見てまわった。

しかし時を経て、最近はもう流行り物のファッションには興味がない。大人として、ある程度の清潔感が保たれればそれでいい。身なりは最低限に整える程度、装飾品にはお金はかけない。他のいろいろなモノにお金をかける事も少なくなってきた。今は、故スティーブジョブズ氏のようなミニマリスト的生活にかえって憧れる。

中高年の域に達した今、過去の自分が培った経験、蓄えた知識を、あまり無駄遣いしない程度に少しずつ消費しながら生活する。

もちろん大人になった今でも日々学ぶことはある。しかし、決して若い頃のような過剰な無理は禁物。ただ快活に生きるモチベーションが現状から落ちることの無いように、自堕落な人間にならぬように、ある程度キープしていく事だけは意識している。

好きなことには時間をかけたいし学びも深めたいが、苦手な分野に対しストレスがたまるほど頑張ることはなるべく避け、自分らしく過ごせる時間を大切にしたい。物欲が減った今、心を充実させたい。精神、そして身なりも、最低限のもので質素に過ごしたいと思う今日この頃。できれば禅的な無の境地に至りたい。シンプルに生きたい。

一方で、服飾品によって着飾ることをしなくなった反面、外見的に常に気を付けていることはある。それは「なるべく姿勢をよくする」という事と、「猫背にならずに颯爽と歩く」という事。これらの2つのことは、常に心がけるようにしている。

今の私にとって、流行りのファッションで着飾ることよりも、姿勢や立ち振る舞いを整えることの方がずっと大切である。
・・こんなふうに書くと、なにやらカッコいい事を言っているようになってしまうけれど、はっきり言って私はあまり見てくれが良い方ではないので、「せめて姿勢くらいはきちんとしたい」というのもある。それに太極拳を長くしていると、稽古以外の日常生活でも、自分の姿勢が気になるように自然となってくる。

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代~20代の頃は、誰もが若くて肌つやもよく、筋肉もほどよく締まっている。精神面の成長においては発展途上の時期だから、多少無知な部分があっても許される。でも中高年に差し掛かれば、否が応でも、人間としてどう過ごして来たのかという生き様が、顔の表情や体つきに表れる。もうごまかしは利かない年齢である。

だから、自分が発する雰囲気というのは、年を重ねていくからこそ、大切にしたい。年を重ねていく中で、見るからに猫背になったり、姿勢から老けた印象にはなりたくないし、荒んだ表情で日常を過ごしたくもない。表情や姿勢が衰えて、それに伴い気力が萎えたり、自己免疫力が低下するのも避けたい。

私は、潔くない人間である。とにかく老いが怖い、死ぬのが怖い。だから、いつも微妙にあがいている。もがいている。あらがっている。とはいえ、決して過剰な若作りはしない。年齢に応じて老けていく事に対しては、「時間は戻せない」のだと、ちゃんと納得している。見た目が徐々に老化することも素直に受け入れている。美容整形のヒアルロン酸注射などに興味はない。

体に限って言えば、若かりし頃は筋肉量もそこそこあるから、多少運動不足が続いてもシャンとしていられる。でも年齢を重ねていくと、普段、どの程度、運動して体をきちんと使って生活しているか、見た目に如実に表れる。そして、そのことが精神面にも大いに影響を与える。運動することで得られる爽快感を知らずに過ごし、筋力が弱って足があまり上がらない状態で歩くようになれば、やはり気分も下がり気味になってしまう。

どのくらい健康寿命を延ばせるだろうか


とにかく今の時点でハッキリ言えることは、将来、長く寝たきりになりたくない。長く患いたくない。これは誰もが考えることだと思う。せっかく生まれて来たのだから、できるだけ健康で長生きしたい。健康寿命を延ばしたい。


だったら健康づくりでもやろうか・・「あ、そうだ、私には太極拳がある!」

生まれ持った体質もあるので、人生“なるようにしかならない”面もあるけれど、運動によって少しでも心身が健やかになるのなら、太極拳をずっと続けたい。激しい運動ではないので、どんなに年を取ってもずっと続けられる。年を取ってもやめなくていいのが太極拳である。

以前、中国武術のある分野の権威の方がおっしゃっていたのを聞いたことがある。
「太極拳を継続していけば結構長生きするものなんですよね~」とのお言葉。
おお!これは良い!
私は続けるぞ!太極拳の稽古を!(単純な自分にあきれるばかりですが)

不老長寿とはいかないまでも、とにかく自分の足で生涯、颯爽と歩いていたい。健康な身体を求めてゆったりと動く太極拳は、そんな中高年層の味方になると思う。勿論、太極拳さえやっていればOKという訳ではなく、生活上の他の面でも不摂生を避けながら、運動も並行して行う。

幸い私は今、運動を生活に取り入れる事で割と身体がスッキリしていて、生きることが楽しく感じられる日が多くなってきた。勿論、生きていれば嫌な事もたまにはある。そんな時でも、ゆっくりと呼吸しながら太極拳の稽古をすることでリラックスできて心地良く、ストレスが遠のいて行く。

これから何十年か稽古を続けていったとして、さてどのくらい健やかな状態で生き続けられるだろうか。私自身の体を使っての、長生きに向けての壮大な実験が始まっている。


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