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”推し”は李亦畲(心に残る先人のエピソード)

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私みたいな、何においても大成してない人間であっても、李亦畲の武術研究への姿勢には大いに共感する。また、大いに感銘を受ける。李亦畲は、昔々の武術家であり、探求心が強くて有能な武術研究者でもあった人。 彼は、武禹襄の弟子だ。武禹襄は、太極拳愛好者ならよく耳にする名前で、太極拳理論の大家とも言える人。その武禹襄の弟子(甥でもある)が李亦畲だ。現代の太極拳の分野では、あまりにも武禹襄がメジャーなので、武禹襄の名声の陰に隠れて李亦畲の名は霞んでしまいがち。太極拳愛好者でも、この人物を知らない人がいるかもしれない。太極拳に縁のない人なら、なおのこと聞いた事も無い名だろう。 現在の太極拳理論の分野で有名な武禹襄の影には必ず李亦畲がおり、彼がいなければ武禹襄の功績が明るみになる事はなかったと言える。今現在の太極拳の分野では、王宗岳と武禹襄は理論の権威とも言える目立つ存在で、論述においては二大巨頭みたいなもの。しかし、やはり武禹襄の存在だけでは成し得なかった事を李亦畲はやっていたと思う。彼がいなければ、彼の残した記録がなければ、有名な王宗岳太極拳論も、武禹襄太極拳論も、私達の目に触れる事はなかったかもしれない。 だから、この李亦畲という人こそが、私達のような太極拳愛好者が学ぶ理論のベースを築いてくれたと言っても過言ではない、私はそう思う。彼は、師匠の武禹襄と並んで、太極拳理論を語る上では欠かせない重要人物だ。 武禹襄も李亦畲も、功績を残そうとして技の研究を行っていたわけではない。純粋に好きな武術の技を突き詰めながら過ごし、また王宗岳の理論に影響を受け、理論と実践をひたすら追求してきた人達だ。 ネットなんかで、王宗岳が自分で太極拳論を公開し、王宗岳が太極拳を普及させた、という記述を見た事があるけど、そうではない。太極拳普及の裏には、過去、様々な人がいて、その中の一人が楊露禅であったり、彼の息子達であったり、それから武禹襄、李亦畲、李亦畲から学んだ郝為真など武式門派から出た人々の存在も大きい。 過去の武禹襄や李亦畲の理論を記録したものは、もともと弟子や親族に託されたものであり、武禹襄と李亦畲が世間に向けて公開した事などない。二人とも、後世の太極拳の分野に名を残そうとか、偉くなろうとか、大きな功績を残そうとなどと考えていたわけではない。 ただ一緒に、武術の技の研究に邁進していた。純粋に好き...

言葉を発する場合

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学び続ける理由 野球選手では無いのでプロもアマも無いけれど、意識の上では、太極拳を教える側は、”プロ意識”を持っておいた方が良いと思っている。プロ意識が持てなくても、せめてセミプロ意識くらいは、指導者ならば持っておきたい。 高いレベルにはない私なんかでも、稽古の場では、太極拳の指導者として、専門知識を持つ者として、皆様の前に立っている。だから、その分野について、常に勉強を続ける。 もし自分が曖昧な知識しか持たず、人に対し、学ぶべき内容をしっかり伝える事ができないなら、教える立場を継続する事なんてできない。勉強を継続せず、現状維持のまま、他人に貴重な時間を費やしてもらう事はできない。 稽古に来てくださる皆様も、年数が経てば上達していく。もし指導者が怠慢だったら、説明する言葉に説得力は無くなっていくので、レベルが上がった参加者の人達は満足できなくなる。指導者は、延々と学び、自分のレベルを上げていかなければならない。学びには終わりがなく、決して立ち止まる事はできない。 これまで私は、太極拳の分野に関わらず、 様々なジャンルに属する有能な方々の話を聞く機会に恵まれた 。仕事でも、何においても、膨大な量の学びを継続し、あらゆる経験を積んできた人生の先輩方から出る言葉は、やはり説得力がある。経験豊かな上に、幅広く得てきた知識を、いろんな言い回しで、ときには難題を解決してきた苦労話などを交えながら、バランス良く語る事ができる人。そういう人は、人間性においても魅力に溢れ、精神も落ち着いている。 誰かが他人に対して、何か特定の分野について語るとき、一度に話す「言葉の量」が多いか?、少ないか?、は、その人の持つ説得力には何の関係もない。現に世の中には、中身の無い事を、ただひたすらペラペラと喋り続ける人だっている。 学びが無ければ説得力のある発言はできず、薄い内容を延々と垂れ流す事になる。そういう人は、話を聞いている相手に対し、無駄な時間を過ごさせてしまい、かつ混乱させてしまい、気づかぬうちに相手に苦痛を与えてしまうが、自分ではそこに気づきにくい。 それから、たとえ何かの分野で優秀な人でも、他人の批判ばかり繰り返す人の言葉は、一瞬なら耳を傾けたとしても、だんだん聞くに堪えなくなってくる。他人の批判ばかり繰り返す人は、大体、険しくて意地悪な表情をしている。他人の批判ばかりの内容だと、聞かさ...

カルチャーセンター等で活動してきた事について

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私は過去に、カルチャーセンター等で講師を勤めた事がある。主に、太極拳動作を指導する講座で…。このようなケースでは、カルチャーセンターや、関わる施設と契約を交わし、実際の指導後に大抵、謝金という名目の報酬を得る事になる。余計なお世話と言われそうだけど、これから講師を務める予定の方に申し上げておきたいのは、こういう分野の講師は、悲しいかな、大した収入にはならない。人に伝えながら、自分の成長の為に、常に自己投資もしていかなければならない。 「ただ、好きだからやる」、それ以上でも、それ以下でも無い。お金儲けには決してならない。だから「お金を得たい」という気持ちが強い人は、こういう分野の講師はやめておいた方が良い。他に、バイトやパートで稼ぐ方がずっと良い。 私は、太極拳の動きや、その他の養生法を人にお伝えしているので、ささやかではあるけど多少なりとも社会の役に立つ側面はあるかなぁ?…という事と、それから、人に伝えながら自分も好きな分野に没頭できるから、そのあたりに一挙両得感があり、また、胸を張って行動できる面はある。ただ、私は著名な武術家でも何でもないので、当然ながら、決して高額は頂かない。施設と契約する場合、参加者の金銭的負担が大きくならないよう、施設側と料金設定は吟味してきた。 金銭面に関して、私以外の関係者、知り合いの稽古場の傾向も含め、分かる範囲でザッと語ってみると、仲間の教室等によって、やり方は違うので、一概に言えないところはある。 健康養生法を教える教室、あるいは武術の技を指南をする教室など、指導内容が様々だし、施設の利用料も各所で違う。施設の利用料については、参加者みんなで出し合ったりする。月謝制のところについては、料金設定がそれぞれの稽古内容などによって違う。貸しビルなどを借りて自前の道場を持っているグループなら、賃貸料のせいで、ある程度のまとまった金額を参加者からいただかないと、やっていけないだろう。 私は過去に、契約している施設から、指導後に報酬を得る事について感じた事がある。昔、カルチャーセンターで私が指導を始めた初期の頃、指導者として未だ自信が無かった私は、「こんな私が報酬を頂戴していいのだろうか?」という弱気な意識が大きかった。 しかし指導者として独り立ちする前に、既に10年以上も積み重ねてきた知識はそこそこあったわけで、その積み重ねたものを素直に出...

それ正解!…と思うとき

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「太極拳の動きって、やればやるほど難しくなります~!」、教室に来てくださる方から時折、そんな言葉を聞いたとき、私はちょっと嬉しい。そうなんです、そうなんですよね~!、と応える。心の中ですごく共感し、それ正解!…と思ってしまう。 難しくなっていくと感じるのは、その人の成長の証でもある。稽古を始めたばかりの、「ワケの分からない状態で、やみくもに動いている段階」から脱したという事だから。 誰だって、慣れないうちは、ああでもない、こうでもない、と悩みながら、先生や先輩の動きをまねて動いてみる。それを続けていけば、徐々に上達するのだけど、本人の感覚としては、上達するどころか、「できない!」と思える部分は増えていって、だんだん難しくなる。 難しくなる理由は、具体的に「自分のどんなところが上手くいってないのか?」が、やればやるほど鮮明になるから。 逆に言えば、いくらやっても「徐々に難しくなっていかない人」は、残念ながら、なかなか伸びないもの。 過去には、こんな方もいらっしゃった。初期の経験段階だったのにも関わらず、「この動き。何度かやっただけで、もう完璧にできました!」と言った人がおられた。私は驚いてしまい、心の中で、そんなはずが無い…と思った。しかし、あからさまに相手を否定すれば、その人のやる気を削いだり、自尊心を傷つける事になるので、ダイレクトに「違う、そんなものではないよ」とは、相手に告げなかった。あくまでも、その人の、その時の感覚でおっしゃった事でもあるのだから。 私自身が実体験で言える事といえば、誰もが10年以上かかって、動きや精神状態を繊細に整えていく分野なのに、半年や1年で”完璧”にできるわけがないという事。 「動作の順番を追う事はできる」、それは完璧という事ではない。姿勢にしても、体のすべての筋肉の力の入れ加減にしても、心の持ち様にしても、どれをとっても難しく、たとえ稽古を10年近くやってきた人でも、微妙なさじ加減は上手くいかない。 こういうのも、 書道に似ている と思っている。例えば、筆で漢字の「二」を書くとき。上手く書くには、何十枚も、何百枚も、同じ線を繰り返して書く。 漢字の「二」の1つの線を書くとき、最初と最後の筆の運び、腕の傾き具合などには、技術が必要だ。 単純で簡単な、画数の少ない文字ほど、如実に実力が現れるもの。 下の線を書くとき、最後に半紙から筆が...

リアルと幻の狭間

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自分の体を目ではなく感覚でみる 自分の目で普段、見ているものはクリアではなく、外界の100%リアルな景色ではない。よく言われるのは、特に緑内障などの視覚の病を持っている人の場合、片方の目の見えづらい部分を、もう片方の目の見え方でカバーする事がある。もう片方の目というより、脳が、より視界がクリアに見えるよう、景色を補正してくれるという。 病ではなくても視力の問題などの面から、多かれ少なかれ、こういう現象はあるようだ。現実に自分が目で見ているものと、実際のリアルは別物。自分の体の内側だけが見えないのではなく、自分の体の表面も、そして自分を取り囲んでいる物や景色も、実際には100%正しく見えていないのかもしれない。 ところで、”だまし絵”などは、ヒトの錯覚を上手く利用してあるなと感心する。現実そのものでは無い状態に見えてしまう。絵に限らず、現実には有り得ない構造の物が、まるで実態ある物のように見えてしまう事がある。また、見ている対象物と自分との距離や角度、周囲の物体との位置関係によっても、補正する機能が働いて、見え方に微妙な誤差や変化が起こる事もある。 それから、これは別次元の話になるけれど、病によって幻覚が見える人もいて、誰もいないのに誰かが見えたり、そこに無いはずのものが見えたり、という事があるらしい。これも目の問題ではなく、脳の伝達物質が関係して起こる現象だそうだ。 ところで、過去に 本ブログの別記事 で、こんな事を書いた。 → 【人が、目視だけで何かを正確に覚えるのには限界がある。初心者の方が多い稽古場では、よくこんな事が起こる。その場にいる全員が、同じものを参考に見て、同時に同じ動作をしても、Aさんの腕は少々上がり過ぎ、Bさんの腕は横に張りだし気味になってしまう…等々。目で見たことを、寸分たがわず再現できる人など、滅多にいないのだ。だから指導者がそばにいて、体に触れ、説明を加えながら手直しすることが必要になる。】 …これは、太極拳の稽古あるあるだ。 全員が、手本になる同じ人の動作を見て、いわゆる見取り稽古をしても、再現する動きは人によって微妙に違う。つまり、多くのヒトは、他人の動作を参考に真似ても、瞬時に100%正確には捉えられず、自分の動きを制御できない事がある。 リアルとは違う”誤差”が出る理由は様々だろう。前述した脳の補正機能のせいかもしれない。あるいは、...

スタート時点では、誰もが伸びしろのある新人

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人を小馬鹿にするような人は、狭量な人 これまでの人生において、友人関係、親族との関係、職場での人間関係、趣味仲間との関係など、様々な人達と交流してきた。当然ながら、いろいろな個性の方がいらっしゃった。思いやりのある温かい人も、たくさんおられたし、逆に、人をさげすんだり、小馬鹿にする人もいた。 何かに長けている人、1つの分野で成功した人がいたとしても、その人が、他者への優しさと配慮に欠けていたら、やはり尊敬できない。驕り高ぶる人には、冷たい印象を受ける。 人に優しくできて、徳があって、実力も兼ね備えている人は尊敬できる。立派で、徳があって、心に余裕がある人は、他人が必死に頑張っている姿を認める度量があり、他人を責めることに時間を費やしたりしない。 何かに長けている人でも、自分が他人より優位に立っていると強く思い込んで人を小馬鹿にしたり、他人を見下す人は、本当のところ、寂しい人なのではないかと思う。本人が気づいているかどうかは別として、他人を非難する事でしか自分を上げる事ができない、周囲の賞賛を浴びたくてたまらない寂しい人。 自分に自信を持つのは良いとして、「自分はこんなに凄い事をやってるのに(他の人は)レベルが低い」とか、「あいつは全く分かってない」などと、頑張っている他人を素直に応援できない人は、心が狭いように感じる。 幸い、私の太極拳仲間は良い人が多く、皆様と接していると、楽しくて温かな気持ちになる事が多い。ただ過去には、ちょっと意地悪な人に遭遇した事がある( 過去記事 )。その人は、他人と自分を常に比較し、優劣をつけたがる傾向にあった。自分より経験年数が少ない後輩に対し、やたらと非難し、長い目で成長を見守る事ができないようだった。自分の物差しでしか物事を見る事ができていないようだった。 もし自分より稽古年数が短くて、上手く動けない人がいたとしても、自分とは別の人間であり、そこに費やした時間も違うのだから、非難しても仕方がない。人によっては、会社員などをしながら、忙しい合間をぬって稽古を続けている人もいる。介護をしてる人だっている。そういう人と、過去にたっぷり時間をかけて稽古した自分とを比較しても意味はない。 人には人の都合があり、その人の段階がある。その人が、その時できる範囲で取り組んでいる、それで良い。 例えば、高度な技を持つ達人に長期間、指導を受ければ、誰も...

益寿延年不老春

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「益寿延年不老春」という言葉がある。太極拳の理論を学んでいると出会うフレーズだ。 このフレーズが出てくる歌訣。それは、太極拳の源流なる武術の動きや、 姿勢を維持する際の注意点などについて、様々な要領をうたってあるもの。 この歌訣の内容は、冒頭からずっと、延々と、動作上の注意点について散々、あれが大事、これが大事、と、いろんな文言を用いて説いてある。 それが後半になって、唐突に「益寿延年不老春」のフレーズが出てくる。終盤に、ほんとうに唐突に出てくる。この言葉は何を主張しているか。 動作や姿勢の大切な要領を守って習練を重ねれば、「健康長寿に繋がる」と示唆している。真面目に鍛錬を継続すれば、不老春、つまりは長寿に繋がるのだ…、老いない春を謳歌できるのだ…、という事をここでうたっている。 太極拳に関して言うと、長い鍛錬の道を進めば、繊細な感覚が身に付く。体の深部感覚にも良い刺激を与え、心と体の両方に深く働きかける養生法となる。現代のように物事が複雑化したストレス社会においては、特に健康法として重視されやすい。 2020年にユネスコの世界無形文化遺産に太極拳が選ばれた背景には、奥深い哲学的理論を内包した伝統拳として、また華やかな競技種目としても世界で栄えていること、そしてさらに体質強化に繋がる健康養生法としても効能が見込める、といった事情がある。それぞれ、多方面での興隆と効能などが認められたことが大きいだろう。 初心者の段階でも得られやすい効果としては、バランス感覚が磨かれる事や、インナーマッスルの強化がある。さらに稽古を積み、軽やかで緩慢な動きが可能になれば、リンパ流と血流は促され、柔軟に動く筋肉からは健全なホルモン物質が多く放出され、体内の神経伝達もスムーズになっていく。 リラックス効果も高まり、脳への血流もますます増える。太極拳の動きが脳へ働きかける効果、脳機能を活性化する効果は、太極拳歴が長いベテランになるほど高まるという。

硬直した心身を癒す場所

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誰にでも訪れる、人生で大変な時期 少し前に、嬉しく思える出来事があった。稽古に来て下さっている、ある方のエピソード。 この方は、普段ご自宅で、御高齢の家族の介護をしているそう。やはり、その御家族から、なかなか目が離せない為、家庭内で気が休まらず、精神的なストレスが続いているそうだ。その方は、訪問介護の日に、僅かな自分の自由時間ができ、その時間を活かして、可能な日があれば、太極拳の稽古へ来て下さる。 その方曰く、 【稽古に参加して体を動かしている時間帯だけは、日々の大変な現実から気持ちをそらす事ができる。縛られない自分だけの時間を確保して、みんなと運動する事ができる。稽古に参加しているときが、慌ただしい生活の事を忘れられる唯一の時間帯に思える。】 …このようにおっしゃった。 そして、その方は、私に向かって恐縮しながら、こうもおっしゃった。 【稽古に通っているのに、動作の順番がなかなか覚えられない。上達が遅くて申し訳ないです…】 私は、その方に対して、以下のような内容の事をお伝えした。 【家庭の事や仕事などでストレスを抱えている方に、気持ちをリセットする時間を作っていただく為に、私は活動している面があります。介護は本当に大変で、毎日いっぱいいっぱいだと思うので、稽古の日まで気を張って、焦って動作を覚えなくて良いです。参加できた日は、緊張を取り払って、ただ、みんなと一緒に気持ちよく運動して帰る、それで良いと思います。大変な中、通って下さって嬉しく思います。】 綺麗事でも何でも無く、心からそう思えたから、こちらも素直に気持ちをお伝えした。 会話というのは本当に味わい深いもので、相手がこちらへ素敵な言葉を投げかけて下されば、こちらも嬉しくなり、素直に感謝の気持ちを伝えたくなる。 誰にでも大変な時期というのは、人生の中で数回は訪れるもの。私自身も、過去に親族が闘病したり、昨年は親族の死去があり、結構大変だった。そんな折、合間をぬって稽古に行けば、仲間と運動する時間を確保できて精神的に救われた。 家族の病気の事だけを、悶々と考える日々は辛すぎる。だから、ひとときの、皆様との楽しい運動の時間は貴重だ。 みんな、いろいろある。嬉しい事も、苦難も。それが生きるという事だと思う。 苦難に陥ったとき、人によっては、自分の周りの人を恨んでしまい、「自分の苦難はアイツのせいだ。アイツのせいで、...

過剰な期待と幻想

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「人生を変えるほどの何かが必ず見つかる! 凄いものを得られるはず!」という期待 これまで私が関わってきた稽古の場へ来られた方々は、ほとんどが中高年以上で、なかには持病のある後期高齢者の方もいらっしゃった。そのような方の第1目標は、何よりも、まずは毎週、稽古の場へ足を運ぶ事。そういった方は大抵、運転免許を持っていらっしゃらないので、悪天候の時などは、出かけるのが億劫になったり、80代以上の方になると雨の中、足元が危ない為、外出自体を躊躇してしまう事もある。だから、まずは安全面に配慮しながら、稽古の場所へ向かうことが第1目標になる。 80歳を超えて太極拳にチャレンジする方々は、上達はゆっくりペースでも良いので、まず仲間と共に過ごす時間を持つ事ができれば、それだけでも素晴らしい人に会う機会になる。高齢で病弱な方であっても、可能な限り外出し、人に会う機会を作る。気の合う仲間と会い、一緒に過ごす喜びを感じる。運動や、その他趣味は、人に会う良い機会となる。 太極拳を始める中高年以上の多くは、当然ながら「心身の衰えを防ぎたい。健康な体を維持する為に運動したい。」と、健康を意識して参加されるケースがほとんど。 ただ、別の目的、きっかけがあって参加する方もいらっしゃる。例えば、たまたま太極拳の動きをテレビや雑誌で見て、憧れていたという方。そういう方が実際に稽古を参加して、動きに心地良さを感じたり、教室の雰囲気が好ましいと思えば、そのまま通い続け、みんなの仲間になってくださる。それから、他の趣味、例えばコーラスなど発声を重視する趣味がある方が「姿勢を良くし、良い声が出せるように」と、太極拳教室に参加されたケースもあった。 そのほかでは、これは稀なケースではあるけど、こんな方もいらっしゃった。あるとき、崇高な理念を持った人が体験にいらした。太極拳の動きを体験する事で、「自分を高める確かなものを得る」という目的を持っていた人だった。 その人は、自分探しの旅の途中…といった感じで、「太極拳を体験すれば、自分の何かが変わる。確かな何かが得られるはず。人生訓を得たい。」という大きな期待をもって体験にいらした。なぜ、その人の中で、太極拳が「自分探し」「自分磨き」に直結したのか、細かい事情までは知らない。とにかく太極拳の動きを1~2度体験すれば、「新たな自分の発見に繋がる。」、「違う自分を見つけられ...

動画サイトで太極拳の動きを学ぶ事(Part.2)

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溢れる動画の中から良質なものを見極められるか 私はヒヨッコだけど、学び始めてから年月だけは経っているので、太極拳理論や、気功などの分野についての関連動画の良し悪しが、多少は理解できる。過去に目にした動画の中には、「動きや解説が素晴らしい!」と、動画投稿者の高い熟練度合いを感じたものもあった。その一方で、「あのような事を断言してしまって大丈夫?」と内容に不安を感じたものもあった。 動画サイトへの投稿は、経験値の程度に関わらず、誰でも思い立ったとき、すぐにできる。 立場や習得レベルが異なる方々の、いろいろな動画があれば、視聴者側が比較して参照できるという利点もある。観る側の立場からすると 、好きな時に観て、学びたい事をいつでも学べる良い媒体だと思う。 その反面、動画というのは、どんな人でも簡単に、時には広告収入目当てで大量の動画を量産できるという点で、無法地帯と化している面も否めない。 溢れる数多くの動画の中には、誇張、ハッタリの内容が紛れ込んでいる可能性もある。 視聴者が、本質を見極められるなら問題はない。しかし、視聴者がその分野の事をよく知らないまま検索する事もある。検索であがってきた太極拳関連の動画を観たとき、不完全な動き、あやうい解説であっても、太極拳のことを有能に語っている動画だと信じてしまう人がいるかもしれない。 また、太極拳は学ぶ目的が人それぞれで( 参考:過去記事 )、流派、ジャンルなどが枝分かれしている。 個々の動画は、どういった層をターゲットにしているのか。初心者向けに簡単な動きを紹介する動画もあれば、武術の使い手として技の功法を解説するような動画もある。観る側が、 自分の求める方向性が定まらないまま検索し、目的にそぐわないものを観てしまう事もあるかもしれない。 事情があって教室に通えない人が「動画で学びたい」と思えば、できれば同じ種の複数のものを見比べて、「より動きが丁寧で、解説が明確で分かりやすい」と判断できた方を参考にするしかない。太極拳経験者の知人がいれば、お勧めの動画を聞いてみるのも良いと思う。 背伸びしない誠実さは安心感を生む 動画投稿者が、指導者の域に達している人であっても、学びの深さ、習得レベルは、人によって様々だ。 ✦歴史や成立過程を含め、そもそも太極拳とはどんなものか。 ✦動きには、どんな特徴があるのか。 ✦自分がやっている習練は...

動画サイトで太極拳の動きを学ぶ事(Part.1)

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肌感覚と空間力を養えるのが「リアル」の良さ 以前、ある施設で、私が受け持つ太極拳講座の参加者の方から、こんな言葉をいただいた。「先生はyoutubeなどに動画をあげないんですか? それをみて家で復習しようかと思って~」と言ってくださった。自宅で復習なんて前向きで嬉しい言葉をいただき、「動画をアップする意味って、やはりあるんだなぁ…」と思った。 ただ、動画サイトへの投稿に関しては、私自身いろいろと思うところあって実行していない。ネット社会の中で暮らしているのだから、この先、状況によって臨機応変に対応する必要がある、とは思う。 限定公開であげても良いわけだし…。または、動画サイトにあげなくても、稽古中に私の動作を携帯で撮っていただく、という方法もある。しかし、その施設の講座は撮影禁止なので実現していない。 私はSNSのアカウントにも、このブログにも、自分の稽古中の動画をあげた事がない。そもそも世間様にお見せするほどの容姿でもないので(苦笑)、積極的に自分の姿を公開する気もしない。 そんな私でも、あるサイトには画像があがっている。講師契約している施設のウェブサイトの、太極拳講座の案内ページだ。そこには私の姿とコメントがアップされている。この発信自体、施設側が行ったもので、私自身は発信者ではない。 実は、コロナ禍になった2020年に、ある教室の皆様に向けて、私の動画を限定公開で送った事がある。2020年は、国や自治体から不要不急の外出禁止令が出ていたため、稽古の休止期間があった。そこで短い動画を撮り、youtubeにあげて、「今は外出できないので、これを見て一緒に運動して下さいね」という意図でURLを皆様へ送信した。それ以来、自分の動画は一切あげていない。 私が指導する側にまわるとき、心がけている事がある。それは、同じ空間で、みんなで一緒にその場の空気を肌で感じ、心の静寂までも全員で共有する事。日々の生活におけるストレス、脳疲労を緩和し、心の落ち着きを取り戻す時間を仲間と一緒に過ごす。 「ゆっくり動く時、その場の静けさ、雰囲気を、どうやって肌感覚で感じるか」は大切な要素で、動画の視聴だけでは得難い感覚だ。視線の流れる様子、肢体の指先まで意識下に置いた独特の動き、雰囲気、息づかいなどは、PCやスマホの画面上では分かりづらい。 動画だけでは、太極拳の繊細な動きを学ぶことは難しい...
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