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人は軽くなる part.2

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以前書いた記事、【人は軽くなる】↓ https://zuihitsu-taikyokuken.blogspot.com/2022/08/keirei.html これに続き、久々に、また軽さを感じる感覚について書きたい。 小学生の頃 の想い出ばなしをし てみる。ある日、 私は家の近くの 階段を 下っていた。そのとき、 三 段 とばして一気に ポーンと 降りた。一瞬フワッと体が 浮いた。 ちょうど風が吹いて、小学生の軽い体 が あおられたのかもしれない。でも 、 あのとき確かに自分は 飛んだ。 「鳥のように空を飛んだ」感覚になった。人生のなかで「 空を 飛 んだ! 」 感覚になった のは、後にも先にも 、 あの時だけだ。 大人になり、 太極拳 の同じ 型を 何年もかけて、何度も何度もやっていたら、体が空に浮いたような、あのときの感覚が 少し 蘇った。 稽古を 何年も継続していると「 空中散歩 」している感覚が出てくる。 ふ わふわと浮いた感覚になる まで に、 のみ込みの悪い 私の場合、10 年近くかかった と思う 。 もちろん「体が軽く、浮いた感覚になる」といっても、上へ上へとわざと浮き上がる訳ではない。自分で上にジャンプしてはいけない。ただ、無駄な力を抜いて「自然に任せる意識」を持つと良い。 「重力に素直に従う」感覚を持てば、体は軽く感じられる。 床と友達になること。 自分がまとっているものは床にたらす。 でも、ただいたずらに沈むのではなく、頭部や頸部は上方へ緩やかに向かう。そうすると背骨まわりは潰れないで、ゆとりがある。 太極拳の動きでは、軸足の足裏を、床にシールの様に貼りつける感覚で、両足の重心移動を交互に行う。無理に上に伸び上がったりせず、踏実を実現する。そして緩やかに重心移動をする。 全身のりきみを無くし、雲が流れるように動く。その動きを何年も続けていくと、最初はぎこちなかった人でも、だんだん「なんと気持ちよいのだろう」と自分を軽く感じられるようになる。 床に沈むような感じが体全体で上手く表現できたら、そのことで鳥になった感覚になる。幽体離脱とまでは行かないけれど、無心になって練習していると、自分の何十キロかある体重は、あまり感じられなくなり、自分が空間の中に浮かんでいるようで足の運びは軽やかになる。 参考に「五勁等級(李雅軒)」について触れてみる。「五

人は軽くなる

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浮き上がらないのに自分が軽くなる感覚 響きの良い言葉がある。「軽霊」、軽いこと。太極拳の動作の際、軽さを実現する。 ただし単純に軽いだけでは駄目で、姿勢の要求、スムーズな動き、ゆったりした呼吸などが伴った上での軽快さ。いきんだり力強く反動をつけたりせず、安定した柔らかな自然な動きで自在に動ける軽やかさ。柔軟性があり体中の気血の巡りが良く、自分の内と外の両方が適度に緩みを帯び、硬直しない状態で動く。 誤解してはならないのは、軽くなるといっても、わざと上にジャンプしたり浮き上がる訳ではない。初心者の方にはまだこの感覚がつかめず、慣れない間は、動作中、足裏に体重がしっかり乗らず、何とかしてバランスを取ろうと、動きながら上へ上へと浮き上がろうとする人が出てきてしまう。伸び上がろうと頑張ってしまえば、はたから見てもその人に余裕が無いのが伝わる。 上に伸び上がろう、浮き上がろうして肩や首に硬直した力が入ると、足裏の安定感は途端に無くなる。だから不自然に伸び上がる癖をつけないよう、時間をかけて動きを修正しなければならない。「無駄な力を入れない安定感」が実現するまでには年数がかかる。型を稽古する回数を増やし、何回も何回も、動きと姿勢を調整しながらやってみる。 長い年数を経て行きつく先は軽さ 長い間、真面目にセオリーに忠実な稽古を続けていくと、やがて心も体も軽くなり、自由自在に、悩むことなく、戸惑うことなく、本能的に動けるようになる。上達すればするほど心身は軽くなり、行き着く先の理想の姿は、脳内が空っぽに近い状態で、我を消してスルスルと動ける状態。 反復練習した結果、動きは体に染み込んでいるので、深く考えなくても体は感覚的に動く。そうなったとき「自分は軽い」と思える。さらに功が進めば、もう軽いということさえ意識下にないほど、思考を巡らすことなく体を自在にコントロールできる。私自身まだ十分それができていないので、いつか老いてからでも、その感覚を得られるレベルに行きたいと思う。 慣れない人、まだ自信がない人は、1つか2つの型を何百回も稽古してみる。長い套路を最初から通して、毎回すべてを全力で頑張ることばかりが良い稽古ではない。「数多くの型を広くやりたい」とか、「早くカッコよく技を体で表現したい」とか、それも良いけれど、でも最初から欲張って焦ったりすると、気が分散し、どの動きも中途半端にな

加算されていくのは時間と技術と知識

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太極拳の動きは、馬鹿力を使わず省力化、効率化した動きで無駄がない。そんなことを幾度となく、このブログで書いてきた。 世のレベルが高い先生方は、とてつもなく長い間、習練を積んでこられたわけで、当然のように動きが繊細で、不要な大袈裟な動きは無く、わざと格好つける様なことも無く、それでいて自然に格好良さがにじみ出ており独特の風格があるもの。それは間違いなく、長年の努力の積み重ねの賜物だと想像する。 私などはまだまだ、その域にはほど遠く、「あと何十年かかるのだろう…」と遠い目になる。 稽古を始めたばかりの初心者の方なら尚のこと、最初はまったく上手くいかない。 他人の動作を見るだけなら簡単そうに見えるのだけど、自分で実際に動いてみると、柔らかく良い姿勢で動くことは最初なかなかできない。大抵の人が無駄に力を込めたり、なぜか不要な動作まで入れてしまう。 特に手の動きについては、不必要に大きく広げ過ぎたり、肘に力を入れ過ぎてピンと張ってしまう初心者の方が多い。勿論、私も初心者の頃は力んでしまっていた。この段階は誰もが通る道なので、悩んだりせず、気長に構え、夢中になって稽古しながら楽しめばいい。 どんな人だって真面目に練習を重ねていけば、硬直化した状態からいつか抜け出せる。老若男女関係なく、誰もが時間をかけて取り組めば、歩法、手の広げ方、胴体の保ち方など、柔らかくて効率的な動かし方が習得できる。適度なチカラ加減へと変化し、迷いなく動けるようになっていく。 必要な「練習の段階」を経ること 余計な筋力を使わず、むやみに格好つけた動きをしない分、太極拳の動きは極シンプル。動画サイトなどで熟達した名人レベルの中国の方の動きを探して観てみると、拍子抜けするほど動作が“普通っぽく”感じられ、凄いものを見せてもらっているという感覚は意外と無い。 名人レベルの人の動きには無駄がなく、効率よく、大袈裟な動作が無い為、かえって拍子抜けするくらいアッサリとした印象を受ける。実はそのアッサリした動きの中に技巧が隠されており、凡人や初心者にはできない動きだったりする。 本当にレベルが高い人の動きは力みが無く、無為自然の境地を地で行くような柔らかな印象である。太極拳を数年稽古している人がこういった動画を観れば、名人レベルの人の動きはやっぱり凄いなと解るのだけど、太極拳をやった事がない人や初心者の方が観ても、きっ

「おきあがりこぼし」のように上虚下実であること

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直近のブログ記事で、「水飲み鳥」「ニュートンのゆりかご」について書いた。太極拳や中国由来の運動をまったく知らない人が聞いたら、水飲み鳥などの動きと太極拳動作を比べること自体、「一体どういうこと?」と怪訝に思われるかもしれない。でも、ちょっとかじった人なら、「ああ、何となく分かる~、そんな感覚あるかも~」と思っていただけるかもしれない。 私は「太極拳っておきあがりこぼしだな~」と馬鹿なことを勝手に考えていたのだけど、先日、ある資料をみていたら、なんと太極拳の姿勢が不倒翁のようだと書いてあった。こんなこと考えるのは自分だけでは無かった! ちなみに周恩来元首相は、文化大革命のとき失脚しなかったことで不倒翁の異名を持つとか。 …ということで、今回は置物シリーズ(?)第3弾。「おきあがりこぼし」で締めたい。 高齢者の転倒は、頭から突っ込むケースがある 太極拳の動きに慣れていない初心者の方や、運動習慣がない人、筋力が弱っている高齢者の方などが前傾姿勢(または後傾姿勢)になったら、バランスを崩して転びやすい。また、相手と組み合う場合、ひどく前傾したり、仰け反ったらバランスを崩し、そこをポンと押されたらすぐさま倒されてしまう。 だから自分の体全体を柔らかいバネのようにしならせて、ちょっとバランスを崩しても、すぐに元に戻ることができる「おきあがりこぼし」のようにいられればいい。 高齢になり運動習慣がない人は、筋力の衰えに加えて反射神経が鈍ってしまうので、思いもよらない大怪我に繋がることがある。 運動習慣がないまま年を取ると、筋力がどんどん衰えてしまって、思わぬ場所で顔や頭からバーンと突っ込んで転倒するケースがある。 最近、知人から聞いた話では、お知り合いの高齢の方が、駐車場の縁石に足先をひっかけ、頭から地面に突っ込んで怪我をしたという。 そういえば、私の親族にも以前、同じような事があった。運動習慣のない 80 代の親族は、平らな道を普通に歩いていて地面につっかかり、顔から地面に突っ込んで顔を怪我した。 運動習慣がない人の場合、 60 ~ 70 代の頃は普通に歩けていたとしても、 80 歳前後になった途端、足腰が急激に弱り、歩くのがすごく遅くなってしまう。 まずは関節を緩めること 高齢者の方々にとって、健康法として太極拳を行うことは利点になる。 バランスをちょっと崩しても、おきあ

「ニュートンのゆりかご」のようにチカラが伝わっていく

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前回記事で「水飲み鳥」のことを取り上げた。置物みたいなモノにも、太極拳の動きとの共通点が見出せるわけで、自分なりに興味深いと思うところを書いた。 今回は、置物シリーズ(?)第2弾。「ニュートンのゆりかご」について触れたい。 ニュートンのゆりかごは、物理的に力の伝わり方の法則を検証するための装置である一方、インテリアとしても利用されており、水飲み鳥と同様、けっこう昔からあるモノ。 「ニュートンのゆりかご」では、最初に端からポン!と加えられたチカラが、それぞれの球の中を直線的に通過していき、最後に反対側の端の球が弾かれる構造になっている。 もし左側の1個の球をポン!とその隣の球に当てれば、その1個分のチカラが次々と右方向へ、隣の球 → その隣の球 → そのまた隣の球へと、次々と連鎖して伝わり、最終的に右端の1個が弾かれる。 弾かれた右端の1個が元の位置にポン!と戻って隣の球に 当たれば、今度は左方向へ同様の流れが起こる。 もし最初に2個分の球を当てれば、2個分のチカラが次々と伝わっていき、反対側の端の2つの球が弾かれる。与えられた分のチカラが、結果的に反対側の端っこへ伝わる仕組み。 参照リンク: Wikipedia~ニュートンのゆりかごについて~ 定めた方向へ直線的にチカラを放つイメージ このような「ニュートンのゆりかご」のチカラの伝わり方は、太極拳の勁力の伝わり方に似ている。 大量のチカラを一気に爆発的に四方八方に分散して放出するのではなく、「一筋のチカラが、体の中をジワジワと伝って外に現れ出る」という現象を、太極拳動作によって導く。 1人で動くときも、そして相手と組む場合でも、滅茶苦茶に馬鹿力を拡散して放出しない。むやみに暴れまくって前進せず、内勁を使う。つまり、体内でうごめいている気のエネルギーが体の深部を伝わりながら集約され、そのチカラを自分が放つとき、定めた方向へ直線的に放つ。 チカラが体内の神経を伝って(経絡を伝って)、じわじわと移りながら外へと向かうとき、自分の腕力だけで相手を力強く押したりせず、相手の体内に自分のチカラを移すようなイメージで動く。 決して、特定の筋肉にガチガチにチカラを入れて押しまくったりしない。もし方向を定めず、滅茶苦茶に暴れてあちこちへ分散してチカラを放ったら、散らばった威力しか出せず、結果、攻撃力は弱まる。 1人で動いている

懐かしの「水飲み鳥」

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太極拳の稽古を続けてきて久しいので、今では何かと別の分野のことまで、常に太極拳の動きと重ね合わせたりして、我ながらちょっとした中毒だな(笑)…と思う。何を見ても、バランス感覚のあり方などを太極拳の動きと比べてしまう。 このブログの過去記事でも、 太極拳の重心移動がテニスの素振りに似ている とか、 サグラダファミリアの安定感が円襠 だとか、強引に、勝手に、面白く自分の想像をかき立てながら書いてきた。 自分の太極拳、それと並行して学んできた気功や棒術などの動きをなぞるうちに、世の中のいろんなことは全て太古の思想や太極の道に通じているのだと感じてしまう。自分にとって、動くものは全て太極拳動作を想起させ、哲学や思想的なものは太極拳理論を連想させる。 私の感覚や趣向を抜きにしても、結局、どんな世界にも共通するテーゼがあり、人間が作り出したものには万事、共通項があるのではないかと思える今日この頃である。 ここに書くことは、恥ずかしながら子供騙しみたいな玩具や置物の話。子供の頃、昭和時代に見たことがある玩具や置物にも、太極拳の動きを思わせるものがある。 幼い頃に見た物を、最近になって思い起こしたとき、現在の自分の趣味である太極拳の動きに何と近い感覚なのかと、非常に新鮮に感じる。 いろいろな置物のユニークな動きが、太極拳の独特の姿勢やチカラ加減と重なる。まずは今回、「水飲み鳥」を取り上げたい。 上体は水飲み鳥のように立身中正 水飲み鳥。これ、最近は全く見かけなくなった。今の若者はきっと知らないだろう。 私の幼少期、記憶を辿れば、おそらく家族と外出した際に喫茶店のような場所で見た気がする。凄く昔の記憶なので曖昧だけど、喫茶店のような店の窓辺に置いてある水飲み鳥が、繰り返し、繰り返し、水を飲んでいたと思う。単純だけど興味深いその動きを、子供の頃、飽きもせずジーッと見た。 太極拳など中国武術において沈み込む、身を屈めるような動作をする場合(参照: 過去記事 )、後足に重心を置いた状態で、股関節を緩め、軽く沈み、まるで物を拾うようなイメージの姿勢になることがある。 この動作、水飲み鳥が水を飲むときの傾き、沈み方に似ている。コツは、股の会陰から頭のてっぺんまで、柔らかいのに軸はまっすぐ、つまり上体は中心に芯が通った感覚。股関節の緩みで上体が傾くとき、決して首や背中を不自然に丸めない。 動きに

「相手に従う」=「負け」ではない

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強いチカラに無駄に反発しない もし、ものすごく図体が大きい強い人が、上から自分を押さえ付けてきたらどうするのか。 自分が「潰されまい!」と思って、必死に上方向へ相手を押し上げようとしても、相手の力が強ければビクともしない。そして自分はアッサリ崩されるだろう。 焦って必死になって抵抗しても、自分が体力を消耗してしまうだけで徒労に終わる。無駄な抵抗を続けたり、相手をみやみに煽ったりすると、相手の攻撃性は増すばかりなので、かえって逆効果になる。 だったらどうすればいいのか。 縦方向で上から押さえつけられたら、まずは相手に従い、緩み沈む。 縦方向から来た力を、横方向へ誘導。 太極拳には、【相手に従う】という大切な哲学がある。 捨己従人・・・己を捨てて相手に従う 自分が必死に抵抗しても、相手が剛力だったら簡単に押しつぶされそうになる。 上から押さえつけられたら、抵抗して相手を上へ跳ね上げるのではなく、相手が押してくる力に「従う」。 真上から押さえつけられたら緩め沈む。脚の関節を緩めながら、相手の力がこちらに向かってくるベクトルに沿って、自分の身を低くしていく。低くするとき、頭と体を傾けてナナメになったら自分が倒れてしまうので、できるだけ体を立て、真下の地面へと吸い込まれるように沈む。 自分の身が沈むと、上から押していた相手の力は、自分の沈み込みに伴って弱くなっていく。弱くなったタイミングで、間を持たせずに自分の目線から胸まわりを床と水平に捻り、軸を回転させ相手を別の方へ誘導、つまり相手のベクトルの向きを変化させる。 柔軟な体のまま重心を真下に向ければ、自分は安定していられる。相手との接点は強く握り返さず、張り付かせるようにして相手を緩やかに誘導したい。 逆に、横方向から押されたら、少しばかり横に受けて吸収しながら、フェイントして上方向か下方向へ、相手の力をさりげなく誘導したい。 もし自分が、手っ取り早く相手をあしらおうとして、焦って跳ね除け、ジタバタ抵抗すると、かえって失敗する。それよりも、まるで相手に寄り添うように同じ方向へ進んだ方が、相手の怪力のゆくえが定まらなくなる。そして、相手の一瞬の怯みを逃さないようにしたい。 そうすれば、最初に強めに押されても、上手く流れを自分有利に転換できるかもしれない。 人間関係も押しまくるだけでは上手くいかない このような太極拳における相手

馬鹿力を出さない

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抗重力筋はフル稼働させる 前のブログ記事で、「太極拳にはとにかく緩みが大切」と書いた。ただし、ただ緩めばいいというものではなく、力をまったく使わない訳ではない。 骨の周辺、つまり体の深部はシャンとさせて正しい位置に置き、外側の皮膚に近い部分の筋肉はひたすら力を緩めておく。自分の体を自在にコントロールできるように、馬鹿力を出さず、緩みを利用しながら効率的な力を用いる。 体は緩めるけれど、筋肉や脂肪という物理的な物体は、深い呼吸を伴いながら適度な弾力性を保つ。 動くとき、傾斜して倒れやすくなっては困るので、体の中心軸はしっかり立て、抗重力筋はフル稼働させる。そうはいっても抗重力筋をガチガチに固めて使うのではなく、適度な緩みをもって動く。 抗重力筋というのは、字面だけみれば“重力に抗う”と書く。でも太極拳では、緩みを帯びた立ち方をして抗重力筋を利用しつつも、抗う以上に重力に従う。床に沈む感覚で立つ。抗うものと従うものが良いバランスを保てれば、立つことに馬鹿力は要らない。 この感覚は、何年か稽古を重ねないと感覚的に分かりにくく、私自身も稽古開始から最初の 10 年ほどは、なかなかピンと来なかった。 太極拳など中国武術の世界でよく使われる言葉に、勁力という言葉がある(単に勁と言ったりもする)。太極拳で言うところの勁の発し方は、「体の奥底から湧き出てくるエネルギーを力に変化させ、その力をしなやかに放つ」というイメージ。 体のすべての部分をしなる弓のように柔らかく使うと、おのずと筋肉の柔らかさの中を伝ってきた力の源が、矢を放つがごとく、そのしなりによって放たれるという考え方。だから馬鹿力をもって、 腕や手を強くグイグイ押し出したりしない。 「軽いのに重くなる」を実現 体の奥底から湧き出る力は、徐々にジワジワと外側へ現れていき、手先には 最後に力が到達する。だから手先や足先でグイグイ押すのではなく、体のいろんな部分は力が伝わりやすいように柔軟に保つ。 体の奥底から発するエネルギーが、自分の体内の筋肉、骨、水分、経絡を伝い、体の表面にジワリと効率よく力として現れる。 太極拳では、丹田あたりを意識下に置いて、下半身を安定させて動く。前進するときも、手と足だけが先走ってバタバタ進むのではない。柔らかな体の中心部にあるエネルギーは徐々に移動し、最終的に手先に届いて放たれる。 仮に手で相手を

緩んでこそ、体の奥底からチカラが湧いてくる

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関節の可動域が狭くなっている人は自然な緩みが実現できない 太極拳の動きには、とにかく緩みがとても大切なので、「緩む。力まない!」と、つい何度もしつこくこのブログに書いてきた。とにかく何度もクドクド書きたくなるほど、太極拳に緩みは必須。 特に関節まわりの筋肉の緩みが足りないと、動きが酷くぎこちなくなる。 初心者の方の場合、頭では分かっていても緩みを実現できない。実は思った以上に、「自然に力を抜く」という行為は難しい。 初心者の方が自然な緩みを実現できない理由は、大きく分けると2つある。 1つは稽古の要領や場の雰囲気にまだ馴染めていないので、精神面で緊張してしまうこと。 どんな分野でも、慣れないことにチャレンジする場合、自分で気づかない程度でも緊張する。軽い緊張は誰でも起こり得るもので、緩めようと気をつけても、最初は特に肩に力が入りやすい。 2つめに考えられる理由としては、長年の運動不足で筋肉が凝り固まっており、少し運動した程度では、凝り固まったものが緩まないということ。 これは年齢は関係ない。若いから体が柔らかいとは言えない。若くても運動習慣がない人の場合、体が硬い。逆に 70 歳以上でも、簡単なストレッチや体操を続けてきた人は、体が柔らかい。 体が硬い人の中には、長年の生活習慣の蓄積によってそうなってしまった人が多いので、柔らかさを取り戻すのも焦らない方が良い。少し長い目でみて、長期間かけて体を柔軟にしていき、自然に緩む状態に体を徐々に慣らしていくしかない。 太極拳で「緩む」ということについて、武術的にはどういう意味合いがあるのか。例えば、 もし自分の筋肉、関節が固まったままだと、敵に押された時、柔軟にサッと次の体勢に移ることが難しくなる。硬直すればするほど、かえって身動きが取れなくなって倒れやすくなる。 だから常に余力を残して関節を緩め、相手がどう出ても、すぐさま柔軟に対応し、自分はどうにでも変化できる余裕を持っておく。あるときは相手の力を受けて吸収し、またあるときはかわしながら誘導。そんな変化が可能な状態をキープする。 とにかく次の動きへ、次の動きへと難なく対応するためには、力を込めて固まっている場合ではない。 受けた力を吸収→分散し、体勢を立て直す 例えば、縦長の形状の、非常に硬い物体があるとする。こういった硬い物は、倒れにくい細工でもしない限り、外側からボン

目が見る先へ、自分のすべてが導かれていく

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動きに少し慣れたら眼法もしっかり意識 太極拳を習い始めたばかりの人が一連の動き(套路)を行う場合、まずは「見取り稽古」から始めることになる。ただひたすら先生や先輩の動きを真似してみる。とにかく体に動きを染みこませ、スムーズに動けるようになるまでは、長い時間をかけて、動ける人を真似ながら型や套路を繰り返すしかない。 ということは、つまり稽古を始めたばかりで慣れていない初心者の方々は、「眼法(イェンファー)」までは上手く実現できない。太極拳でいう眼法というのは、簡単にいえば目の動きを意識すること。いや、正確には、目の動きが身体を導く意識を持つこと。目の向く先に、自分の心身が導かれる。太極拳を練習するとき、眼法も非常に重要な要素となる。 眼法を意識して稽古するとき、単純に「手元を見ればいいんだよ」とか、そういうことではない。やはり心、つまり意識、意念、精神的なものの保ち方に気をつけて、「いかに目の動きと、心の持ち様と、体の動きが協調しているのか」を自然に意識できるよう、練習を積まなければならない。 こんなことを語っている私も、過去、初心者の頃には、自分の先生から「雲手の動作の時、上の手を見なさい」などと言われれば、単純に「上の手を見ながら動けば良いんだな」というアッサリした感覚だった。いま思えば、意識、意念などには全く考えが及んでおらず、動くこと自体を機械的に「処理」していた。 太極拳の稽古を重ねていくと、動くことを「適当にあしらうように処理する」のは駄目なんだとだんだん分かってくる。そこには「意識と呼吸と動作。この3つを自然に協調させる」ということが必要で、これが実現できて初めて、余裕のある精神状態と柔軟な動きが保たれる。 まず意識が動くことで体内の気血が巡りはじめ、自分が持っているエネルギーを徐々に放とうとする感覚が得られる。その流れで視線が行く先を定め、すぐに次の流れに連なって、胴体から放たれた微細な感覚が最終的に肢体に伝わっていく。 目をどうする、手をどうする、という単独の動きをロボットのように行うのではなく、自分を形づくる全てのものが調和しながら動いていく。1人で套路を行うときは、自分の中でこういった流れを意識して動いてみる。推手のように相手と組み合うときは、相手を自分の目と意識が向かう方へ誘導していく。流れを作って、最終的に自分のペースに相手を巻き込む(これが

会陰から百会までをまっすぐ立てて動きたい

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何度も繰り返し稽古を重ね、徐々に上達する どんな稽古事でも、何度も何度もトライして上手くいかなかったり、失敗を重ねながら、徐々に上手くなっていく。太極拳も、何年もかけてその特有の姿勢や動作を身につけていくもの。 習得に長い期間がかかるのは当たり前なので、あまり神経質にならず、教室にいるときは夢中になってひたすら稽古すればいい。そうこうしているうちに、柔軟な動きやバランス感覚が身についていき、いつしか心にも余裕が生まれ、心身が穏やかになっていく。 大抵の人は、太極拳を稽古し始めてから、独特の姿勢の維持の仕方に慣れるまで1~2年、いや長ければもっとかかる人も沢山いらっしゃる。私自身も、柔らかくバランスを取りながら動けるようになるまで、稽古開始から数年間を要した。もちろん今でも完璧とは言えない。 稽古を始めて間もない人の場合、姿勢の要領を1回聞いたとしても、人によっては翌週にはもう忘れていて、次の稽古では再びバランスが崩れた状態で立ってしまう。あるいは人によっては、翌週どころか、たった今伝えて修正したことが、もう次の瞬間には元の状態に戻ってしまう人もいらっしゃる。 でも、それで良いのである。どんなに器用な人でも、姿勢の維持の仕方における癖はなかなか取れない。その上、過去にやったことがない独特の姿勢や動きなど、一瞬で身につくはずがない。だから慣れるのに長い時間かかることは、恥ずかしいことでも何でもない。みんなそうしながら練習を重ねていき、上達していくのである。 自分では気がつきにくい姿勢のゆがみ 姿勢というのは、自分では気をつけているつもりでも、軽く体勢が斜めになっていたり、少しばかり顎が前に出ていたりすることがある。特に御年配の方は、筋力が弱っていたり、硬くなっていたり、過去の病歴や骨粗鬆症などの影響で姿勢が歪んでしまっている人もいらっしゃる。病歴がない人でも、人それぞれ姿勢の保ち方の癖がある。頭の縦軸が傾いて顎を突き出す癖がある人とか、どうしても猫背気味になってしまう人、等々。 太極拳の動作に慣れていない人の場合、自分では「力んでいない、力抜いてる、まっすぐ立てている。」と思っていても、案外、ちょっとした姿勢の癖が出たり、肩に力が入っていたりする。高齢の方になると、長年の姿勢の癖や、運動不足による筋肉の硬直化は、なかなかすぐには取れないケースが多い。 自分では「体の中心
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