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3月, 2021の投稿を表示しています

象の足裏は重要な感覚器

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両方の手足をセンサーとして利用する 太極拳では、手が重要な感覚器、センサーの役割を担っている。一連の動き、套路を行う際は、ゆっくり動きながら、掌に空気抵抗を感じるように動くと感覚が研ぎ澄まされる。風が吹いていない無風の場所でも、掌に風を常に感じられるような感覚を養う。 推手のように相手と組んで鍛錬をしていく場合には、自分の手は、相手の出方や呼吸、微妙な敵の動きを読み取るための重要なセンサーとして機能する。相手との接触点である手が、相手の呼吸や動き方を微細に捉えることで、これを瞬時に自分の脳に伝え、得た情報を自分の動きに反映させる。 もちろん視覚的に相手の情報をみて取ることも重要だけれど、視覚情報とともに、手の感覚も鋭敏に保ちながら、双方が連携、協調して動くように稽古する。 私自身は非常に未熟であり、浅はかな読みしかできないので、手のセンサー機能を十分に活かせる技術は、残念ながら持っていない。そんな足踏み状態を抜け出すには、日々の稽古を継続し、五感を研ぎ澄ます鍛錬をするしかない。 ところで、 NHK の番組「地球ドラマチック」の3月中旬の放送分をみた。 その番組内容によると、象の足裏は、感覚器としての機能が非常に高いそうだ。象の足裏は、周囲の状況、危険を察知するセンサーの役割をしており、たとえば敵のハンターが近づいてくる音を、地面から足裏で感じ取り、仲間と一緒に逃げるらしい。 太極拳でも、手と同様に、足裏も上手くセンサーとして象のように使えれば、尚のこと素晴らしい動きに繋がる。相手と組んで対錬を行う場合なら、自分の足裏が相手の動き、重み、地面へのかすかな振動を読み取って、これを自分の動きに活かすことができれば理想だと思う。1人で型を練習して動くときには、自分の体のみならず、周りの空気感までも把握できる心の余裕が欲しい。 触って何かを確認する意味を考える 人間は、便利な道具、便利な機械・機器を大量に生み出してきた。高性能な精密機器、コンピュータなどを利用すれば、別に人間の手足の感覚が鋭敏でなくとも、今は大抵のことを電子機器が判断してくれる。 ウェアラブル端末、つまり電子機器を常時身につけ、自分の体調、呼吸までも電子機器が管理してくれる時代になっている。 野生の動物は、体のいろいろな感覚を最大限に利用していく。それに対し、人間は「なんでもスマホなんかが教えてくれますヨ」と

下手の横好きが二胡を弾く

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何となく流れでトライしてみた二胡 太極拳に出会った流れで、中国の文化や思想に興味を持ち、その流れで数年前に二胡を弾いてみた。弾いてみたといっても、恥ずかしながら初心者レベルで、弾くというより「雑音を出す!」といったところ。 過去に、私の身内が数年間、中国人の先生(日本在住)に二胡を習っていた。私は身内から基本的な弾き方を少し教えてもらい、あとは適当に1人で少しずつ練習してみた。 私の生活の中では、二胡を触ることはメインではないので熱心に練習しない。だから当然上達もせず、とにかく低レベルな状態。それでもやっと超簡単な曲を、数曲だけは弾けるようになった。 熱心な人はきっとたくさん練習して、1ヵ月に3曲くらい仕上げる人もいらっしゃると思う。私は、ごくたまに弾くだけなので、半年~1年かけ、簡単な短い曲をやっと1曲を弾くレベル。それでも、百里の道も一歩からと言うので、ほんの一歩踏み出しただけでも、「何かにトライしたことが良いことなんだ」と、自分を慰めている。 最初は「ギコ、ギコ」という雑音から 私は昔、子供時代にピアノを 10 年ほど習っていた。でも、ピアノの楽譜が読めても、二胡には関係ない。二胡の楽譜は、まるで暗号みたいに数字が羅列してあって、ピアノのおたまじゃくしの楽譜が読めるからといって、それは二胡の楽譜を読むのには何の役にも立たなかった。 ↗ これは二胡を習っていた私の身内が以前、中国人の先生に頂いた楽譜 初めて弾いた頃は、とにかく雑音しか出なかった。「ギコ、ギコ」という雑音だけ。少しずつ地道に練習し、弓を柔らかく引くと、スーッと弦を流れるような感覚がだんだんつかめるようになり雑音は多少は減った。 私は太極拳でも何でも、とにかく少しのことを習得するのに時間がかかる不器用な人間なので、二胡も雑音が減るまで1ヵ月強かかったと思う。よく尺八の練習をする人が「首振り三年ころ八年」というけれど、二胡の雑音が出なくなるのも結構日数がかかる。正直に言えば、私は今でも雑音をいっぱい出している。 まるで人の声のような独特の音色 上記画像のウチの二胡。これは中国に行って買ってきたのではなく、個人輸入したわけでもなく、身内がお世話になっていた二胡の先生から中古品として譲り受けたもの。ちなみに中国から“制約なく”気軽に二胡を購入(輸入)することはできない。なぜなら二胡の表面にはニシキヘビの皮

松林図屏風のように、無駄なものをそぎ落とす

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無駄をそぎ落としたものに惹かれる 私は、美術館や博物館に1人で行くのが好きである。もともと「ぼっち」が割と好きだし、じっくり鑑賞したい絵画などは、1人で見に行くのが一番落ち着く。自分のペースで見ることができる。 見たい展示があれば、近場の博物館や美術館を巡ったり、過去に海外に行った際は、現地の美術館を訪れ、いろいろな絵画、彫刻などの展示物を鑑賞してきた。素人ながらも、素晴らしいと思った作品がたくさんあった。 これまで美術作品をみて「体が動かなくなる」というか、作品を目の前にして「その場を離れたくない」、「ずっとこれをみて過ごしたい」、「2度見、3度見どころか何度も繰り返しみたい」、そう思ったのは、長谷川等伯の松林図屏風だけだった。この作品をみて、初めて鳥肌が立つような感覚に襲われた。絵画をみてそんな感動を覚えたのは、松林図屏風だけだった。 正直、私自身はおそろしく絵を描くのが下手で、おまけに手先が不器用でモノを作るのも苦手、さらに評論口調で語れるほど美術の知識もない。だから素人として中途半端なコメントしかできないけれど、とにかく等伯の松林図屏風は最高峰の国宝であり、見た者の心を捉えて離さない。 (松林図屏風の画像へリンク) → https://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_187.jpg 何がそんなにいいのか。よく対比される狩野派が描いた絢爛豪華な作風とは対極にある。一説には、等伯がふるさと七尾の風景を描いたと言われている。後世の我々がこの絵画をみるとき、等伯の故郷への想いを(勝手に)感じ取りながら鑑賞し、心打たれてしまう。そして、余白の使い方に驚き、とにかく「無駄をそぎ落とした」部分に惹かれていく。 余白が多いことや謎めいた部分があることから、実はこの絵画は下絵なのではないかという見方もあるらしい。でも下絵であったとしても、後世に残された我々を感動させてくれるのだから、もはやどちらでも良い気がする。 松林図屏風は墨画でカラフルさは一切なく、全体の構図が寂しげな風合いに感じられるのに、ザッと荒々しさを感じる線もある。とにかく 不思議で、心惹かれる。 太極拳も、大仰な動き、無駄な動きはそぎ落とし、型が合理的に作られている。私は健康法として太極拳を楽しんでいるけれど、元は武術であり相手との攻防戦が型になっているのだから、戦いを想定
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