投稿

ラベル(雑感)が付いた投稿を表示しています

決して親切な人アピールをしない人

イメージ
猛暑で暑い、暑い、と言っていた夏が終わったと思ったら、秋になり、暑かったり肌寒かったりを繰り返し、そうこうしているうちに11月になって、また肌寒くなり…。そして、まもなく年末が近づく。 今年は、コロナ禍も4年目となり、すでに5類に移行して久しい。今年1年、太極拳関係のイベントも、通常通り実施された。ただし 日常が戻りつつあると言っても、 感染者がいないわけではない。私が関わっている文化施設の太極拳では、講師はいまだにマスクを外すことが許可されていない。別のカルチャーセンターでは、ずっと室内のすみっこでサーキュレーターがまわっている。こんな、コロナ禍以前には無かった換気の光景も、いまは当たり前に感じる。 自分では気づきにくいけれど、2020年以降のコロナ禍のような長期的なストレスにさらされる状態は、精神疲労の蓄積になるので厄介だ。並みの生活はできるけど、あらゆる面で少しずつ周囲に気を使い、気を張り、何かを我慢し続ける。些細な気疲れも、長期間、延々と続くのはしんどい。数年に渡り、自由な感じがしない。安心感が得られない。ほかにもテレビのニュースでは連日、海外の戦闘の話題ばかりで心が痛む。 「自分は大丈夫だ」と思っている人でも、小さなストレスが積み重なって、知らず知らずのうちに、いつのまにか深刻なストレス過多の状態に陥る事もある。低温ヤケドみたいだ。なにせ低温では、ジワジワとヤケドしていても気づかない。気づかないでいるうち、皮膚の奥深くまでヤケド状態となり、気がついたときには深層部まで痛んで、治りが遅いという。長期的なストレスというのは、そんな低温ヤケドみたいな怖さがあると思う。 カエルはいきなり熱湯に入れたら飛び出すけど、水やぬるま湯から徐々に温度を上げても飛び出さない、そんな話もあった(現実では信憑性に欠ける話らしいけど!)。とにかく気づかないうちに、かなりのストレスを抱えてしまう事はある。数年間に渡るコロナ禍の影響は、そんな感じだろうか。 ストレスにもいろいろあって、一時的な強いストレスでは、ひどく疲労困憊するけど、ストレスの原因が分かりやすい。原因がハッキリしているなら、それが解決すれば何とか切り抜けられる。仕事上の大きなミス、人間関係のトラブル、一時的な体調不良、大切な人との別れによる悲しみなど。短期的な強いストレスには、そんなものがある。 人との関わりは、いつも

野村家の狂言を観て思ったこと

イメージ
今年の夏、1年ぶりに狂言の舞台を観た。野村万作さん、萬斎さん、裕基さんの親子三代と、そして他の演者さんたちも…素晴らしかった。今回も萬斎さんは、演目が始まる前に、客席に向かって解説をしてくださった。パンフレットにも簡単な演目の解説は載っているけど、萬斎さん自ら、まず説明をして下さる。その時間だけでも、毎回30分くらいかかっている。よどみなく話を続ける萬斎さんの解説は、素人にはとても分かりやすく、有難い。 今回観た演目では、剛柔に関連するテーマが出てきた。仏教の異なる宗派の2人の僧侶を描いた演目で、2人の僧侶を演じたのは萬斎さんと裕基さん。なにが剛柔かと言うと、2人の僧侶のタイプ。陰陽虚実というか、はっきりと剛柔に分けて描かれていた。 裕基さんの若くてエネルギッシュな動き、そして力強い発声には剛を感じ、その威勢に驚かされた。狂言の簡素な舞台上で、2人の演者さんがしきりに動き、目まぐるしく立ち位置が変わっていく様子。そのときの裕基さんの、軽やかに剛を表現する演じ方が素晴らしかった。私は萬斎さんが好きなのだけど、萬斎さん以外の他の演者さんにも魅かれ、感心してしまう。 当たり前だけど、舞台に上がっている皆さん、客席には一切落ち度を見せない。厳しい訓練を積んで来られたのだろう。狂言の演目は大抵、笑いを誘ったり、人間への皮肉など風刺する内容なので、客側は「日常の厳しい稽古」を想像させられると、素直に楽しんだり、笑えなくなる。 だから、観客から自然に笑いがこぼれるよう、隙を見せないよう、事前に十分な稽古を積むしかないだろう。どんな分野でも下準備は大切で、練習段階で付けた自信が足りなければ、本番で心が乱れ、ミスに繋がる。 練習量が不足したり、心身が整っていなければ、それは観る側に伝わってしまう。「生の舞台で絶対にミスをしない」、それがプロの世界で、人様からお金をとるという事だろう。甘くない世界、厳しい世界だろうけど、その「厳しさ」を観客に感じさせず、肩の力を抜き楽しめるひとときを提供する、それが素晴らしい狂言の舞台に繋がる。 歌手なんかも同様だろう。ステージで緊張しやすい人は、プロの中にもいっぱいいるだろう。でも本番で客席に緊張が伝わってしまえば、客側は歌の世界に酔いしれる事ができない。だから本番までにレッスンを繰り返し、ステージがスムーズに運ぶよう万全を期すのがプロだろう。 お客

”寛容さ”について思う

イメージ
今、社会の中の人間全体に寛容さが求められている。性差を無くすとか、環境にとにかく配慮すべきとか。 性差に関しては、大賛成。だけど、無理に規定を作るのは違和感。女性管理職をいつまでに、何割以上にすべき!!とか。 SDGsなど、大切なことだと思う。でもSDGsに関しては、何でもかんでも、「そうせよ。」というゴリ押し感がある。この数年間、社会の中で強制されてる感覚が強く、とても息が詰まる。 どんな団体やグループでも、それを強調しがちだけど、あまりにも頻繁に目にすると、もうお腹いっぱいになる。そこに少しでも自分が協力できないならば、「自分は悪いのか?」とまで思えるレベル。自然に「そうしたい。協力したい。」と思えれば、より良い。 人格や性差についても、分け隔てなく平等にすべきだと思うけど、それを声高に誰かに強制されるのではなく、「誰もが他者を認める心の余裕」を持てたら、それが一番だと思う。 自分と違うカテゴリーの人を異質とするのではなく。生き方、こだわり、選択するもの、すべて、何が正解かは、決まっていない。飼い慣らされた自分の心が、勝手に決めつけているだけかもしれない。 「異質」というのは、どういう事だろう。今まで自然に特定の何かを異質だと感じる社会通念の中に、たまたまいただけ。そんなものかも。そうではない環境に生まれていたら、自分達の常識の方が異質だったかもしれない。 他者、他国の考え方を許容するかどうか。できない人は、攻撃的になったり、批判的になったりしやすい。「ああ、そういう考え方もあるのだな。そういう人もいるのだな。」、それで良い。その方が共存しやすい。 地球に生命が生まれて、人間だけが知恵をつけすぎて、社会秩序に万人を押し込めようとしてきた。社会とか国というのは、何万年も前は、特別には無かったもの。この2000年とか、数百年で、国家というものが色濃く人類を支配するようになり、勝手に人類が社会のルールや常識を、自分達の都合で作り上げてきただけで、本当は実態なんてない。無極。太極のまま。 もちろん、他人に迷惑をかけたり、犯罪は駄目だ。社会の中で生きる一定のルールは要る。でも個人の趣向や生活様式に関しては、社会のルールに当てはまらない点もある。苦労して、万人向けに当てはめなくてもいいのではないか。 ただ、生きやすい程度の常識があればいい。啓蒙本を読んで、書いてあることを1

祖父のこと ~終戦の日に寄せて~

イメージ
今年も終戦記念日が近づいた。私は、終戦後ずいぶん経ってから生まれた世代なので、もちろん“戦争を知らない世代”である。日本が平和になって生まれ、平和ボケしたまま過ごしてきた。生まれた頃から日本は豊かで、物質的に満たされて育ち、食べたいものを食べ、買いたい物を買い、行きたいところに旅行してきた。 ただ、新聞やテレビ番組などで、戦争体験を語る元兵士の証言などを、食い入るように見て、毎年心が痛む。私の母方の祖父は、海軍の将校だった。私の母が3才のとき、マニラで戦死した。 だから、戦争を知らない世代の私であっても、“おじいちゃん”が戦死したことで、身近な話題に感じるのだ。祖父は33才で戦死したと母から聞いている。“おじいちゃん”が、もし、実際よりも数年早く亡くなっていたら、私の母はこの世に生まれていなかった。そうなると当然、私自身の存在も、今この世に無かった。 私の伯父、母、叔母が生まれたあと、祖父は、祖国に妻と3人の子供を残して戦死したのだ。以降、祖父が繋いでくれた命は、私のきょうだい、私、イトコ、そしてその子供達にまで、今は繋がっている。 かなり前に私の伯父は亡くなった。今はイトコの自宅に仏壇がある。戦死した祖父のお骨は戻ってきていない。マニラのどこかの土壌に今も眠っているだろう。勲章と軍刀だけがイトコの家に残された。 私の母には、父親の記憶がまったく無い。3歳の頃に父親を亡くしたのだから、覚えていないのは当たり前だろう。当時の日本や、他の参戦国にも、そういう人は山ほどいただろう。 そういえば、母が唯一、父親に関わることで脳裏に浮かぶシーンがあるらしい。祖父がマニラで戦死する前、一時期、台湾にいたことがあり、家族で台湾に会いに行ったらしい。その時が、私の母にとって父親との最後の再会だったのだ。残念ながら母の記憶には、父親の姿は全く残っておらず、覚えていた事といえば、船に乗り込んだ、かすかな記憶だけだった。 私の祖母(戦死した祖父の妻)も、随分前に亡くなった。祖父が戦死した当時、祖母は、1才、 3才、5才の子供らを抱え、悲しみに暮れたことだろう。救いだったのは、恩給があり金銭面の苦労は無かったようだ。 それでも夫が戦死した悲しみと、3人の幼子を1人で育てていく心細さで、不安でいっぱいの毎日を過ごしただろう。気が張ったまま、心の休まらぬ日々を過ごしただろう。 戦争は往々に

冒険家の心意気

イメージ
ちょうど去年のこと。テレビのニュースをみて驚いたことがあった。それは、冒険家の堀江謙一さんが、 80 代なのにヨットでの冒険を決行し、太平洋横断を見事に成し遂げたニュースだった。それをみたとき、自分が高校生だった頃の記憶が蘇った。 そもそも私は、過去の細かい出来事を大抵、忘れている。友人や家族と話しているとき、人によっては何十年も前の学生時代の試験問題について、「こんな問題が出た」と具体的に覚えている人がいる。私には、そういう記憶は無い。授業や試験のことは、昔すぎて記憶にない。部活動で印象に残ったことや、特別なイベントの事ならば、さすがに少しは記憶している。 この堀江謙一さんという冒険家の方は、昔々、私が高校生だった頃、通っていた高校に講演に来て下さったことがあったのだ。去年のニュースをみたとき、“あの堀江謙一さん”が、いまだに現役であることに驚いた。登山家の三浦雄一郎さんもすごいと思うけど、堀江さんもすごい。 高齢者の中にも、お元気な方はいっぱいいらっしゃる。お元気とはいえ若者とは違うので、体のメンテナンスを怠らず、いろんな面で気を付けていらっしゃるのだろう。 つい最近、ネットで堀江さんのインタビュー記事を見たら、そこには、ギブアップしたくないとか、チャレンジという言葉が並んでいた。スーパーおじいちゃんとでも言おうか。いや、堀江さんは私の親世代だけど、“おじいちゃん”という表現は似合わない。 去年、映像で見た 84 歳の堀江さんは、昔々私の高校時代に見た姿よりも、むしろ今の方が断然、精悍でカッコよく、まるで若返っているかのように姿勢が良かった。高齢であっても、何かに夢中になって取り組んでいる前向きな人は、大抵、姿勢が良い。 私が高校生の頃、講演で聞いた堀江さんの体験談について、細かいことは正直、覚えていない。でも、いまだにはっきりと私の頭の中に記憶している堀江さんの言葉がある。それは「思い過ごし」という言葉だ。 堀江さんは、ヨットで世界を航行し、自然の脅威の中で生命の危機に直面しても、臨機応変に対応して凌ぎ、「(もうダメだと感じたが、それは)思い過ごしだった」とおっしゃっていた。私が覚えているのは、堀江さんが講演中、「思い過ごし」という言葉を複数回使っておられた事だ。 もしかしたら御本人からは、ただ何となく出た言葉だったのかもしれない。でも高校生だった私には、とて

焦りを感じるとき

イメージ
WBC をみて 先般のWBC 。日本の野球界にとって歴史に残る大会だった。私が野球観戦に夢中になったのは昔々のことで、工藤公康さんが現役時代によく応援していた。当時はよく球場にも足を運んだ。でも近頃はずっと太極拳がらみの日々を送っていたので、野球や他のスポーツ観戦に目を向けることが無かった。 私の親族はいつも熱心に大谷選手の試合をテレビ観戦して応援しているけれど、私自身はずっと野球などに関心なく日々を過ごしていた。しかしそんな私でさえ、さすがに今回のWBC では、“にわかファン”となり気分が上がった。 決勝の日、私は(もうすぐ期限が切れる)パスポートの更新に行き、パスポートセンター内のテレビ画面で優勝が決まる瞬間を観た。優勝が決まり、心の中で「良かった~」と思いながら申請処理の順番を待っていたら、あとからパスポートセンターに入ってきた高齢女性に話しかけられた。「優勝しましたか?」と。 その高齢女性に優勝したことを告げると、女性は「ああ、良かった。気になっていたんです!」と言った。そして今度は、そのまたあとから入ってきた若い女性とも会話しながら、「優勝したそうです!よかった、よかった。」と一緒に喜び合っていた。たまたまパスポートセンターで居合わせた見知らぬ他人同士が侍ジャパンの優勝を喜び合うとは、単純にスポーツっていいなと思った。 ああいった世界的なスポーツイベントになると、当たり前だけど上位のチームはどの選手も一流で、高い技術を持っているのは当然なので、最後はメンタルの整え方が大きく勝敗に影響するだろう。 2023 年、WBCでの大谷選手の目ヂカラ、遠吠えするような歓喜の表情。気迫は周囲に伝染する。もしあの試合で誰か1人でも諦めモードになってしまったら、派生して気落ちする選手も出ただろう。 メンタル面、心の揺れはその人の表情に強く表れる。野球から話がそれるけど、スポーツ競技で歴史に残るシーンといえば、浅田真央さんの事を思い出す。世界で最も素晴らしいスケーターの1人であり、競技選手時代は冬季オリンピックの金メダルを惜しくも逃した。あのときの顔の表情、目の様子はとても印象に残っている。瞳は怒りや緊張でいっぱいの様子にみえた。スケートの演技は歴史に残るものだった。ただ精神面での強さと落ち着き、心のコンディションを整えることに関して、ライバル選手の方が上手かったのかもしれな

続・規模は小さくてもいいから、自分の居場所が2〜3カ所あると良い

イメージ
趣味がある喜び 前回の記事 で「人の居場所」について、思うところをアレコレと書いた。今日はその続編。私の周りにいらっしゃる太極拳愛好者の方々のケースについても少し触れてみたい。 私は普段、主に中高年以上、高齢の方々に、太極拳の動きを健康法として利用するべく指導させていただきながら、日々感じていることがある。それは、ある程度の年齢に達したとき、「趣味がどんなに大切なものか」を痛感するということ。 もちろん「無趣味」という主義を貫く人がいてもいい。無趣味でいること自体は、その人の自由であり何ら問題ない。要は、趣味の有無に関わらず、その人が「心身ともに心地よく生きられるか」が重要だと思う。 太極拳教室に来てくださる高齢の方々の価値感はいろいろで、上達を大して求めない、上手くなることにさほど興味がない人もいらっしゃる。でもとにかく、その人が「その日の稽古で気持ちよく体を動かし、楽しめた」ならそれでいい。 それがその人の取り組み方であり、その人が「自分の生活の中で太極拳をどう位置付けるか。どう利用するか。」は、その人の感覚の赴くままでいい。 仕事の面で隠居した高齢者の方や、子育て、介護等、一通りの人生経験を積んできた方々にとって、老後の生活のひとこまに、仲間と一緒の太極拳教室がある。それで良い。 私自身は、太極拳を続けてみて、人生で得られたものが多い。知識、技術、出会い、好きなことに夢中になって打ち込む貴さ。これからも、もっともっと知識を得たいし、実力が足りない分、技術を向上させたいと思う。 しかしこれは、あくまでも私の太極拳への思い、取り組み方であり、決して他人に強制はできない。私にできる事があるとすれば、習いに来て下さる皆様へ、太極拳の心地良さ、動き方についてシッカリとお伝えすること。 人にはいろんな事情、生活スタイル、考え方がある 私の太極拳仲間の方で、もうすぐ 80 歳になられる人がいらっしゃる。その方は、障碍者の方々へ朗読をするボランティアを長年続けてこられた。そのボランティアについて語るとき、その人はイキイキしている。長年の朗読の成果なのか、話し声は朗々としている。最近は、もっと若い世代の人に朗読をしてもらっているとの事で、ご本人は、主に書物の選定、内容のチェックなどをしていらっしゃるそうだ。 別の 70 代半ばの方は、配偶者が少し鬱っぽくなっていらっしゃるという

規模は小さくてもいいから、自分の居場所が2〜3カ所あると良い

イメージ
気をそらすことは、逃げではない 人間は、いろんな方面で上手く心身のバランスを取りながら生きている。中国由来の健康法や太極拳も陰陽のバランスを意識し、心身の調和を取りつつ動いていく。太極拳にも、人生にも、日々の生活にも、バランスが大切だと思う。 人には、それぞれの居場所がある。人によって、それが勤めている会社だったり、学校だったり、家庭だったり、地域のボランティア組織だったり、と様々である。 どんなに居心地が良い組織に身を置いたとしても、長く身を置いていると少しほころびが出てきたり、「この部分はちょっと納得できない」という面が出てくる。全体的には納得していても、細かいことで疑問が出てくることもある。 そんな時、2つ、3つの居場所がある人は、上手くバランスを取りながら、それぞれの場所に身を置くことを継続していける。1つの場所に身を置いたとき、もう一方の場所の良さが見えてくることもある。当然、逆もある。 もし自分の居場所が、わずか1カ所しか無かったらどうだろう。1つの居場所しかなければ、良くない出来事が起こったときの逃げ場がない。比較対象もないから、1つの場所で不満が出たとき、嫌な部分だけが心の中でクローズアップされがちになる。悪い部分ばかり気になりだすとストレスが倍増し、他人に不満をぶつけたりして攻撃的になってしまう。 自分1人だけの問題ならば、自分で勝手に道理を変えればいい。でも他人と共存する組織内では、自分に都合の良いことばかりではない。他人や組織は容易に変えられないことも多い。 大きなストレスを溜め込み過ぎたまま立ち止まると、心の整理が上手くできない。そんなときは思い詰めずに一度、気をそらし、気晴らしする方が良い。可能ならば、その組織と、中にいる人達とは距離を置き、一定期間、別のグループでの活動をメインにしてみるのもいい。 心の整理ができたら、また最初の問題点に戻ってしっかり向き合えばいい。これは逃げでも何でもない。一見、遠回りに感じるけれど、実はスムーズに問題を解決に向かわせる手段となる。 会社の特定の部署などで、同僚と、あるいは上司と部下が口論になる場合、大抵は、真面目な者同士、業務について深く考えるあまり煮詰まった状態になり、「相手の考えを手っ取り早く変えてしまいたい!」、「ワタシの方が正しいのだ!」という強い憤りと焦りから口論になってしまう。 感情論に走る

健康維持と激務のバランス

イメージ
働き方改革の前に立ちはだかるコロナ禍 昨年から続くコロナ禍により、保健・医療関係者や、飲食店、観光業などに携わる皆様は勿論のこと、地方行政を担っておられる方々、その他にもコロナ禍で業績が芳しくない分野の方々の心労はいかばかりだろう。 塾や習い事の講師で生計を立てている人や、エステなど人と密に接する美容業界の人も、コロナ禍で厳しい経営環境に置かれていらっしゃると思う。 土台がしっかりしている大企業であっても、コロナ禍で他社との取引が激減すれば業績は下がり、結果として大勢の社員が生活不安を抱えてしまう。 数年前から、働き方改革という言葉を頻繁に聞く。 厚生労働省のウェブサイト には、「個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにする」などと、働き方改革について記載してある。 しかし改革を本格化しようという矢先のコロナ禍で、仕事のやり方を容易にコントロールできない状態に陥っている業界が大部分である。生産性を上げようにもコロナ禍で困難な面は多く、また高齢者を積極的に雇用しようにも、パンデミックが終わらないことには難しい。課題満載である。 とにかく今は何が何でも、個人個人が生きる糧をどうにかして繋いでいかなければならない。 パンデミックの世の中では、経営陣は、社員の誰かが体調を崩して SOS を出す場合に備え、サポート人材を次々と育てておく必要がある。人間の仕事をAIがとってかわる時代が来ていても、細やかさが求められる仕事や、適宜、現場での決断を下していくことはヒトにしかできない。 マネージメントする側には、従業員の健康管理への配慮も求められる。利益を追求しなければならない企業にとって、利益を追求することと、従業員の意向や健康問題を第一に考えることは、必ずしも比例して進められないケースも多く、非常にもどかしい問題だと思う。 一般企業、公的機関、そして庶民の生活。コロナ禍で、この先の暮らし方や世の中の価値観はどう変わっていくのか。 我々庶民も、一昨年までとは全く違う生活、これまでにない窮屈な日常が続き、1人1人の心に健康不安や生活上の不安がつきまとい、ストレスが無くなることはない。 去年、コロナウイルスを指して「見えない敵」という言い方をよく耳にしたが、見えない敵が現れたことで、対応しなけばならないことが格段に増えて

やる気を引き出す言葉

イメージ
前向きな言葉に助けられる毎日 コロナ禍が続く中で、私達は常に心の中に不安や不満を抱えている状況が続いている。そんな状況下では、他人から投げかけられた言葉への反応が、より敏感に、より過剰反応になってしまう。 パンデミックで普通に生活できない憤りをぶつける先もなく、悶々としてしまうこともある。いつにも増して政治家の発言が許せないと感じてしまう。上手く気晴らしができないと、なかなか心の整理は難しい。 SNS は良い気晴らしになることがある。フォローしている方やフォロワーになって下さっている方の前向きな言葉をたくさん聞くだけで、自然と心が和む。自分以外の人が何かに打ち込む姿、楽しむ姿を見せていただき、こちらも良い心理的影響を受け、勇気づけられる。 そして何といっても、心の平静を保つのに有効なのは、気功や太極拳の稽古である。深い呼吸を伴う気功や太極拳をしながら、心身を癒す。 私は打たれ強い方ではない。でも今、心の整理がそこそこ上手くできているのは、太極拳や中医学などを少しずつ学びながら、姿勢、呼吸、そして精神状態を整えることを常に心がけているからだと思っている。 また、気持ちのコントロールを上手くやっていけるのは、自分が中年の域に達していることも大きい。大人になってからというもの、仕事などを通じて様々な経験を積んできたことで、若い頃よりも気持ちの整理の仕方や、人間関係における対処の仕方が上手くできるようになったと感じる。 私が過去に従事していた仕事では、中小企業の経営者の方々と接する機会が多かった。その方々の多くは、会社を興して一代で事業を拡大し、健全な経営をしている経営者だった。そういった人達はやはりチマチマしたところが無く、物事を広い視野でみており、懐が深い人が多かった。 仕事でそんな人々と会話をさせていただいたことで、私は精神面で良い影響を受けることができた。今はその仕事はしていないけれど、過去の仕事から得た経験はかけがえのない人生の宝となり、今の自分の精神の在り方を形づくっている。 素敵な言葉で良い思い出ができる。 嫌な言い方で嫌な思い出ができる。 遥か昔、高校〜大学生くらいの頃の私は、親友や家族や交際相手の考え方が理解できないとき無性に苛立ったり、ほんのちょっとの他人からの言葉でも、思春期の心が頻繁に大きく傷ついた。 勿論、学生時代は遥か昔のことなので、どうでも良い

コロナ禍。1年以上が経過して思うこと。

イメージ
マスクして稽古するのは慣れたけれど 私は、稽古事を自分が習う立場になる時もあれば、教える立場になるケースもある。昨年の春頃はコロナ禍で、習う方も教える方も長期間、稽古できない自粛期間があった。昨年の夏以降は、みんなで万全の感染対策をしながら稽古を再開し、今に至っている。幸いなことに、身近な関係者に感染者は1人も出ていない。 私が、中国古来の健康法や、太極拳の動作などを指導させていただく場所では、当然ながら感染対策として、休憩時にも距離をあけて座る。マスクは、参加者全員がずっとつけたままで稽古する。マスクを外すのは、水分補給をする一瞬のみ。 運動内容はゆっくりした動きばかりで、大量に汗が噴き出す激しい運動はしない。だからマスクをしたままでも息があがって苦しくなるようなことはない。 ただ、自分が教える側に立つということは、自分も動いてみせながら、同時にしゃべって説明を加え、さらに皆様の動きをしっかり見ていくというように、複数のことを同時進行でやらなければならない。 その場合、マスクをしていることに息苦しさを感じることがある。でもこれは、今のご時世、どんな分野のどんな世界の人も状況は同じで、感染対策が何よりも優先されるので、不満を言っている場合じゃないことは重々承知である。 教室の皆様の表情がわかりにくい 太極拳の稽古をするとき、新しく始めたばかりの初心者の方は当然、慣れない姿勢と動きで戸惑いがちである。もし指導する側が、初心者の方の許容量を超えていっぺんに沢山のことを要求してしまうと、その人は緊張してリラックスできなくなる。そうなると特に御年配の方などは、「自分は向いてないのかな?」とか、「細かい動作の要領できるかな、大丈夫かな。」と不安になり、尻込みしてしまう。 気持ちよく、柔らかく動いていただけるように、稽古時の説明の言い回しや、姿勢を保つことへの指摘の仕方を工夫し、稽古にスムーズに臨んでいただけるよう全てを調整するのも、指導者側の大切な役割である。 私が教室で気をつけているのは、習いに来られる皆様が、過剰に焦ったり、混乱しないよう、理屈を説明する際に、お一人お一人の目や顔の表情を見ながら稽古を進める。 皆様の表情をみれば、「この人は、今ちょっと戸惑っていらっしゃるな」とか、「この人は今、すごくイキイキと集中していて心から稽古を楽しんでいらっしゃるな」というのが肌で

下手の横好きが二胡を弾く

イメージ
何となく流れでトライしてみた二胡 太極拳に出会った流れで、中国の文化や思想に興味を持ち、その流れで数年前に二胡を弾いてみた。弾いてみたといっても、恥ずかしながら初心者レベルで、弾くというより「雑音を出す!」といったところ。 過去に、私の身内が数年間、中国人の先生(日本在住)に二胡を習っていた。私は身内から基本的な弾き方を少し教えてもらい、あとは適当に1人で少しずつ練習してみた。 私の生活の中では、二胡を触ることはメインではないので熱心に練習しない。だから当然上達もせず、とにかく低レベルな状態。それでもやっと超簡単な曲を、数曲だけは弾けるようになった。 熱心な人はきっとたくさん練習して、1ヵ月に3曲くらい仕上げる人もいらっしゃると思う。私は、ごくたまに弾くだけなので、半年~1年かけ、簡単な短い曲をやっと1曲を弾くレベル。それでも、百里の道も一歩からと言うので、ほんの一歩踏み出しただけでも、「何かにトライしたことが良いことなんだ」と、自分を慰めている。 最初は「ギコ、ギコ」という雑音から 私は昔、子供時代にピアノを 10 年ほど習っていた。でも、ピアノの楽譜が読めても、二胡には関係ない。二胡の楽譜は、まるで暗号みたいに数字が羅列してあって、ピアノのおたまじゃくしの楽譜が読めるからといって、それは二胡の楽譜を読むのには何の役にも立たなかった。 ↗ これは二胡を習っていた私の身内が以前、中国人の先生に頂いた楽譜 初めて弾いた頃は、とにかく雑音しか出なかった。「ギコ、ギコ」という雑音だけ。少しずつ地道に練習し、弓を柔らかく引くと、スーッと弦を流れるような感覚がだんだんつかめるようになり雑音は多少は減った。 私は太極拳でも何でも、とにかく少しのことを習得するのに時間がかかる不器用な人間なので、二胡も雑音が減るまで1ヵ月強かかったと思う。よく尺八の練習をする人が「首振り三年ころ八年」というけれど、二胡の雑音が出なくなるのも結構日数がかかる。正直に言えば、私は今でも雑音をいっぱい出している。 まるで人の声のような独特の音色 上記画像のウチの二胡。これは中国に行って買ってきたのではなく、個人輸入したわけでもなく、身内がお世話になっていた二胡の先生から中古品として譲り受けたもの。ちなみに中国から“制約なく”気軽に二胡を購入(輸入)することはできない。なぜなら二胡の表面にはニシキヘビの皮
随筆★太極拳 - にほんブログ村

↓ Amazonサイト《太極拳》関連商品