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自信が無いのは恥ずかしい事ではない

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他人を貶めても、自分の人格や価値は上がらない 自分に自信がないのは当たり前で、特に人生経験の浅い若い世代なら、何事においても、まだまだ完璧にはなれない。若さには勢いと体力があるけど、人生経験が乏しいのは当然だから背伸びする必要は無い。 若い時から完成された人などいない。失敗しても、若さゆえ、「経験値がまだ低いから…」と許されるケースだってある。懸命に頑張っていた中での失敗ならば、そこから学べる事も大いにある。だから等身大で良い。虚勢を張ったりしなくて良い。 ものを知らないとか、自信がない事が駄目なのでは無い。駄目なのは、自信が持てないとき、「どうせ自分は駄目だ。どう努力しても変わりっこない」と決めつけ、全てを投げ出す事。最初から「自分は駄目だ」と思い込み、前向きな行動を一切しないのなら、それこそ一生、自信がないまま、駄目な自分で終わると思う。 自信がないと嘆くだけなら、まだ救いはある。厄介なのは、努力して自分を高める事を全くせず、他人を貶める事に必死になる行為。若い人だけではなく、悲しいかな、年齢を重ねても、このようなタイプの人はいる。他人を蹴落としても、その分、自分が高められるわけでは無いのに。 人を貶めることに躍起になる人は、自分の事も、他人の事も、信用できない人。ただ日々を過ごす中で、不平不満を並べ、人生の大半をブツブツ文句言いながら生きていく羽目になる。 そうすると、その人の話題は当然ながら、常に後ろ向きで、面白味が無い。他人は当然、距離を置きたがる。すると本人は、誰かを必死でつなぎ止めておく為に、大げさに話を盛った噂話や、誰かを標的にして茶化す話題などで、周囲の人を引き付けようとする。 噂好きで意地悪な人格の根本が変わらなければ、善良でまともな人は、その人に近寄らない。結局、寄ってくるのは同じタイプ、つまり、ひたすら後ろ向きで、噂話で人を貶めるのを好む人ばかり、となる。そして、「常に愚痴と悪口が会話の中心」の、淀んだ空気をまとったグループができ上がってしまう。 いつも同じタイプの人ばかり集まれば、新しい風が入らないから、グループメンバーの考え方は、ますます固定化してしまい、自分達のマイナス面に気づかなくなる。 自分の欠点を見抜き、武器となる特技や長所を持つ 当たり前だけど、社会を見渡すと、すべての人が常に平等なわけでは無い。生まれた国、地域、どういう家庭環...

初マツケンサンバ🌸

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松平健さんの舞台を観た。実は私、松平健さんのファンではない。何十年もテレビ放送されてきたらしい暴れん坊将軍を、今まで、テレビで観た事は1度も無かった。 では今回、なぜ舞台を観たか…と言うと、マツケンサンバⅡを生のステージで観たいなぁ~と、ふと思ったから。去年1年間、親族の死や病気などがあり、私は、何となく気持ちが滅入っていた。それで、「気晴らしに、何か明るいパッとしたものが観たいなぁ!」と思い、チケットを入手していたのだった。 舞台は大きく2部構成になっていて、最初は御芝居の舞台。後半は歌のショーだった。私は、映画やコンサート以外のエンターテインメントとして、御芝居の舞台を観た経験はあまり無い。 初めてきちんとした芝居らしい芝居を観たのは、中学生の頃で、宝塚歌劇団のステージだった。親戚に連れていってもらったのだけど、当時、私自身は大して宝塚に興味が無かったから、そのときのトップスターが誰だったのか、演目は何だったのか、全く覚えていない。 その後、学生時代や大人になってからは、様々なアーティストのライブなどに何度か行ったけど、御芝居の舞台はほとんど観た経験が無い。記憶している限りでは、好きな玉三郎さんのチケットを購入して、舞踊中心の舞台を観た事はある。それ以外は、華やかな舞台観劇の経験がなく、私が今まで好んで観てきたものといえば、舞台装置や衣装が極限までシンプルに構成された能や狂言のみだった。 それゆえ、松平健さんの時代劇の舞台や、華やかな歌のショーは新鮮だった。特別ファンじゃない私でも、ちゃんと楽しめた。 松平健さんは70を超えていらっしゃるけど、3時間半ほどの舞台をこなしておられた。それを1日に2公演やれば、1日7時間もステージ上で演じている事になる。すごく体力をつけておかなければ、できない事なので、本当にプロだなぁ、凄いなぁ…と思った。 体のケアや、入念な稽古を、繰り返し、繰り返し、頑張っていらっしゃるのだろう。そして特別ファンでは無い私から見ても、やっぱり松平健さんはスター🌟だった。普通、70過ぎている男性で、しかも体形がそこそこドッシリしている人がいれば、ただの中年太りしたオジサンだと思えるものだけど、やっぱり長年、舞台で活躍している人は、立ち姿が美しい! 足のステップなんか、70過ぎているとは思えなくて、おまけに時代劇の御芝居では、立ち回りも美しかった。...

重い責任を負うという事

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印象に残る歴史的な出来事 映像の世紀というTV番組は、昔、若い頃からよく観ていた。加古さんのテーマ音楽も好きだ。いまでもリマスター版、再放送があれば観る事がある。 私は絶対に、この番組だけは、”ながら見” ができない。他の事をしながら、片手間に観るような内容でもない。昔々、高校時代に世界史を専攻したときから、大人になってからもずっと、世界の歴史について知る事が面白く、また、映像の世紀のような番組は重たい内容もあるので、真剣に食い入るように観てしまう。 随分前の事、この番組で東京裁判(極東国際軍事裁判)の特集があった。それを観ながら思った事がある。映像に残っている広田弘毅元首相の様子は印象的だった。広田氏は文官で唯一、極刑になった人だ。文官だった彼にどれほどの責任があったのだろう。 本人は、政治の中枢にいた人間として、戦争突入を避ける事ができなかった事を悔い、責任を感じていたそうだ。 私は勿論、戦争が嫌いだ。人命が多く失われる戦争は繰り返してはならない。ただ、あの時代に、もし自分が生きていたとしたら、そして、例えば自分が政治家や軍部の人間であったならば、当時の関係者と同じ行動を取っていた可能性は大いにある。 時代背景のせいにしてはならない…と分かってはいる。だけど、そういう時代だったのだ。現在、今のこの時代 になった上で、数十年前の出来事を振り返れば、「あの時の、あの人の行動は間違っていた」と分かる。でも当時の当事者はそれぞれ、その時々の判断で、よかれと思って行動していたかもしれない。人によっては、やむを得ない事情を抱えていたかもしれない。 開戦前なら日本が勝つと勇んでいた人も大勢いただろう。欧米との軋轢もあり、エネルギー問題など切羽詰まった事情もあっただろう。だからといって戦争を正当化する理由にはならないけれど、当時の諸事情や、個別案件への関係者の誤った勇み足での判断、扇動による思想教育の弊害などもあり、歪んだ見識を持ってしまった人は大勢いただろう。 かなり昔、私は城山三郎さんの「 落日燃ゆ 」 を読んだ。小説仕立てだけど、城山さんが熱心に取材を重ね、真摯に書かれたもの。まさに、事実を基にした限りなく事実に近いフィクションだろう。このストーリーからも、そして映像の世紀というドキュメンタリー番組からも見て取れる広田弘毅さんの人物像を通して、戦争とは何だったのか、人のエ...

ダリ展

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今年は個人的に(親族の死去等もあって)波乱の一年ではあったのだけど、そんななかで少しの充実した時間もあった。ダリ展に行ってきた。 ダリの絵は前々から好きで、是非みておきたい展示だった。 ダリと言うと、人物は、ちょっと奇怪というか、奇をてらったような行動をした人、というイメージもある。でも実際には繊細な人だったらしい。繊細だからこそ、独自の発想、細やかな色使いの素晴らしい作品の数々を残したのだろう。家族との軋轢があったり、自分を抑えつけていた面があった人らしい。結果として、それが絵画の才能として開花した人なのだろう。 私は絵画にはあまり詳しくないのだけど、これまで様々な美術展に足を運んできて、いろんなテーマの絵画展をみてきた。どんな画家にも、異なる作風が現れる事がある。若い頃に描いていたものと、年齢を重ねてから描いたものが、全く異なる作風になる場合もある。 それはきっと熟練の技を身に付けた結果だと言えるし、1人の画家が人生を重ねながら、変化、変遷を辿っていった、という事でもあるのだろう。作風が変わるという事は、その人が、その時々で、こだわって築きあげたいと思ったものが、実力を培いながら自在に変化していった結果かもしれない。 それから、生きた時代の流行が作風に影響したケースもあるだろう。大抵は、若い頃にはこんな作風で、歳を重ねたら、こうなった…、という、若い頃と晩年、大きく2つのパターンに分かれる画家が多いように思う(美術史にそう詳しくないので勝手な感想だけど)。 ダリの初期の作品は印象派の作風だったようだ。人生で通った道筋、影響を受けた人などによって、若手時代にみられる絵の特徴は確かにあったと思う。でも、それよりも器用さというか、やっぱり天才と言われる人だと感じる。 印象派の作風でも描いていたけど、ロートレックのように広告デザインなんかも手がけ、また、舞台装置による演出までやっていて。それでいて、彼の代名詞ともいえるシュールレアリスムの代表とされるような幻想的かつ独創的なものを描いている。 そのどれもが、若い時とか、晩年だとか、人生の前半と後半という括りで、パッカリ分けて語れるものではないように思う。生きている間のどの時代にも、どんな作風にでも描ける実力と器用さを持っていた人のように思える。 その時々で、心の中にあるものを、どんなふうにでも描き出せる人だったのではない...

心に残る作品

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12月も半ばを過ぎた。2024年は、ずっと落ち着かない状態で過ごした。今年、私の近しい親族が高齢で亡くなった。持病はあったけれど、最期は苦しまずに、眠るように亡くなった。余談になるが、その高齢の親族は、過去に両膝に人工関節を入れていた。火葬後、人骨に埋もれて人工関節が2つ(両足分)出てきた。他にも、配偶者の遠縁に、今年亡くなった人がいた。その遠縁の人は60代で、早過ぎる死だった。親族は早すぎる死を悼み、残念に思っている。本人が一番無念だったと思う。 当たり前だけど、人はみんな、どんな人でも、いつかは死ぬ。自分の親族のみならず、ネットニュースなどで、俳優、歌手、政治家など有名人の訃報を目にするたびに、そんな当たり前のことを実感する( 過去に死についてふれたブログ記事 )。この数年だと、俳優の渡辺裕之さん、渡辺徹さん、シンガーなら、もんたよしのりさん、八代亜紀さん、谷村新司さんなど、自分が子供の頃からずっと観てきた人達が亡くなられた。漫画家の楳図かずおさんも。そして同世代の中山美穂さんまで…。 私は特に中山美穂さんのファンではないけど、同世代なのでヒットした昔の歌は記憶している。「 Sea Paradise -OLの反乱- 」、「 Rosa 」 、この2曲が私の印象に残っている。昔、「Sea Paradise -OLの反乱-」という曲を聞いたとき、「こんな歌も歌うんだ~」という新鮮な驚きがあった。ミディアムテンポの難しい曲。本人が作詞をしていて、歌詞が独特で印象的だった。「Rosa」という曲は、私が昔、学生時代にバイトしていた先で、ずっと有線で曲が流れていて、当時、何度も聴き過ぎて、すっかり覚えてしまった。 有名な方の死というと、さかのぼれば、今は亡き俳優さんの中に、私が幼い頃みていた昭和の名優と言えるような、味わい深い演技をされる方もおられた。例えば、随分前に亡くなられた植木等さん。「 スーダラ節 」は、たぶん私の親より上の世代が、若い頃に聴いていた曲だと思う。コミカルかつ煩悩いっぱいの歌詞。今、ネット動画でこの歌を聴いてみると、人間らしい、ちょっとだらしない歌詞がなかなか良い。人は誘惑に弱く、滑稽な生き物だ。 「人間だから、失敗する事もあるよね」、「人生には、物事の歯車が噛み合わない時期もあるよね」、「すべて完璧ではなく、みんな多少はだらしない部分もあるよね」と、他...

「捨己従人」という言葉の本来の意味

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人間には強引で滑稽な面がある 新聞やテレビの報道で、アメリカ大統領選の話題を見て思ったこと。二大政党のどちらが政権を取るかによって、日本も貿易、軍事など多方面で影響を受ける。でも私個人的には、どっち寄りとか、候補者の誰を推すとか、さして強い希望は無い。 選挙演説について思う。アメリカ大統領選に限らず、日本国内の選挙の時にもよくある事だけど、候補者の演説が、対抗馬との悪口合戦みたいになってしまう事がある。それで選挙戦が盛り上がるのならば悪口合戦は必要悪で、選挙の風物詩みたいなものかもしれない。 しかし本来、選挙はショービジネスのごとく盛り上がる為にやっているのではなく、自分の代弁者を吟味して選ぶ為のもの。だからショービジネス化する必要はない。でも実際には”政治ショー”をやった方が商魂たくましい人達が盛り上がり、マーケットまで大きく動く事がある。 街頭演説をテレビ報道などで見聞きしたとき、ライバルの人格批判ばかり、がなり立てるような演説は品がないと思える。人格を批判するよりも、対抗馬の政治信条を挙げて、「自分とは考え方が違う」とか、「自分は別のやり方で、世の中をこうしたい」と分かりやすく語れば良いのにと思う。俗っぽい表現での批判ばかりの演説は、言った本人の品格を下げるだけの行為に思える。 聴衆の中には、悪口でも何でも良いから、強い口調で何かを主張する候補者を、盲目的に敬愛してしまう人がいるのかもしれない。ちょっと過激な発言とか、そういうのを望んでいる人はいるだろう。でも、他者の批判ばかりを繰り返す人に、世の中を変える程のリーダーシップがあるとは限らない。 (たとえ悪口でも)大きな声で強さを演出する候補者の雰囲気に、聴衆側がのまれてしまうなら、それは強い口調で話す人の術にはまっているだけだ。人間は今も昔も、簡単にプロパガンダ的なものに影響される。 とにかく選挙の街頭演説で、がなり立てるように大声を張り上げ、眉間に青筋立てて他者の批判ばかり続ける人の話は、やはり聞く気が失せる。そういう人は、仮に当選したら実際には何をするのだろう。もし語れるようなシッカリした政治信条があるのなら、自分の理念、実現したい事を、紳士的に丁寧に語るほうが説得力が増すわけで、他者の批判に時間を費やす暇はないはず。 私が聞きたいと思えるのは、聴衆に向かって分かりやすく、「私達はこのような方向に進んでい...

楽しく利用していくもの

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懐かしの古いシステム 前回、前々回のブログ記事で、電子機器やネット関連の事をいろいろで書いていたら、その流れで、ずいぶん昔の記憶がアレコレと蘇ってきた。昔々、私が最初にコンピュータに触れた頃の話。 私は理系ではないので、プログラム開発の事はさっぱり分からない。私がやってきた事と言えば、仕事でちょっとしたデータ整理をする際に、PC等でいろんな機能を利用してきた、その程度の軽めのユーザーだ。 今よりグッと若かった頃、社会人になって初期に勤務した職場では、まだ業務でdos文書を利用していた。マルチプラン、マルチチャートなんてものを使った事もあった。当時のモノは最近のソフトに比べたら本当に使いづらく、システムに入る時も、訳の分からない暗号の様なコマンドを入力して立ち上げていた。 その後すぐに、OSは最新のウィンドウズ仕様のものが主流となり、ソフトはワードとエクセル等を頻繁に使うようになった。それより以前は、日本では一太郎など、ジャストシステムさんのソフトを使ってる人が、かなり多かったと記憶している。 いずれにせよ、今のように、当たり前にすべてアイコンで操作できる仕様になってからは、老若男女がコンピュータを格段に利用しやすくなったと思う。 ウィンドウズ95以降は、PCの使い勝手はどんどん良くなっていった。その頃はまだ回線が不安定な時もあり、またPCの容量も十分では無く、ソフトを稼働させるとき、ジリジリと動作が遅い事もあった。 複数のウィンドウを同時に開けている状態で作業を行う場合、少しでも込み入った作業をすれば、負担がかかって急にソフトウェアが強制終了…、なんて事も昔はザラだった。通信も、ハードも、ソフトも、今となっては笑えるほど不安定だった。 当時は、今みたいにクラウド上でデータ管理や、データ処理、仕事上のやり取りをするのでは無く、作成したデータをフロッピーディスクに保存し、ガチャガチャ取り出して、そのままディスクを業者に渡してやり取りしていた。今の若者は、「フロッピーディスクって何?」という感じだろうか。 音楽の世界に例えて言うならば、昔、LPレコードとEPレコードというのがあって、それからCDやMDが出てきて、そして楽曲のダウンロード購入が始まり、それからストリーミングが主流になったりして…。そんな音楽界の様な事象が、一般の職場における各データ処理においても起こってきた...
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