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気沈丹田を意識する利点は何だろう?(Part.2)

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貯蔵した気は、軽快に動くための動力源 太極拳の攻防の動きは、相手と接している前提のものであり、1人で套路をやっていても、それは相手との攻防をシミュレーションしているに過ぎない。本来、相手と対峙するとき、興奮状態にあってはならない。興奮状態にある人は、全身が強張って力がみなぎり、繊細な感覚が鈍る。相手と自分の状態を冷静に察する事ができない。 丹田に気を下ろす意識を持つことで、心身の安定感が保たれ、頭に血が上るような、のぼせた状態は避けられる。相手との攻防など一切意識せず、健康法として套路のみを励行する人も、興奮状態で動けば気持ちよく運動できない。興奮と緊張で硬い動きになれば、血圧も上がり、筋肉疲労も溜まり、体内の老廃物を上手く流せない。 気の概念からすると、 臍下丹田あたりは気が満ちている場所(気海) であり、スムーズに動く為には、満ちた気をそこから全身に運ぶイメージを持つと良い。そうすると筋肉に無駄な力が入りにくく、心が 落ち着く。 さらに太極拳の分野では、気を「旗振り役」とみなす事がある。温存している人体内の気を、意識を集中しながら、必要に応じて人体の中で巡らす。そうする事で、気はヒトの活動を促す為の「旗振り役」となり、太極拳の攻防において勁の誘導役となる。ちなみに太極拳に関連する昔の理論書の中には、「氣為旗(気は旗をなす)」という味わい深い言い回しがある。 太極拳に関わる昔々の理論書をいろいろ読んでいくと、おもしろい表現によく出くわす。気が沸き立つ…とか、気が鼓蕩する…等々。 十三勢行功歌という、武術の鍛錬の要領についてうたった古くからの歌訣がある。この歌訣は、現在、我々太極拳愛好家の学びとなるバイブルの中の1つでもある。 十三勢行功歌の中に、 「刻刻留心在腰間 腹内鬆静気騰然」 というフレーズがある。大雑把ではあるが自分なりに意訳してみると、大体こんな感じ。「随時、腰のあたりに心を留めて、 腹内を力ませずに柔軟にし(鬆静)、腹内にある気が沸き巡るようになる(氣騰然)」。 ただし、 太極拳の攻防において、気はいったん背骨あたりに収める…という考え方がある。むやみに沸き立たせて気を方々へ散らしては勁を誘導できないわけで、攻防の技に気を活用するには、浪費せずに大切に収めて上手く運行させる必要があるだろう。太極拳初心者の方がこのイメージを体現できるか?と言われれば、で...

気沈丹田を意識する利点は何だろう?(Part.1)

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いろんな太極拳流派はあれど、「気沈丹田」という言葉は、多くの太極拳愛好者が念頭に置いて稽古するものだと思う。丹田とは実体が無く、概念でしかないが、人体に3箇所あると考えられている。上丹田は頭部。中丹田は胸部にある。そして下丹田は臍の下で、臍下丹田と言われる。臍の下は、気沈丹田で気を沈めるところ( 過去記事参照 )。 丹田は、物体としては存在しないけれど、あたかも実体あるものの様にイメージすれば、動作時のバランスが整い、心も落ち着く。太極拳のほかにも、いろんな武道などで、気を臍下丹田あたりに沈める意識を持つ事はあると思う。拙いながら、気沈丹田について、今の自分なりに考えた事などを書いてみようと思う。 気沈丹田は、健康に寄与する 呼吸法が体に良い事は、一般的に知られている。白隠禅師は、丹田呼吸法で心身を整え、禅病を克服した( 過去記事参照 )。 「白隠禅師—健康法と逸話(直木公彦著)」 という書籍がある。そこには「気海丹田式の呼吸」とか、「元気を下腹部に満たす」などのフレーズが出てくるので興味深い。白隠禅師は、丹田呼吸法を実践し、健康を回復したという。 ただし丹田呼吸法については、現在、呼吸法を実践するグループ、人によって、解釈や方法が微妙に異なっている。「単に丹田を意識して深い呼吸をする事」をそう呼ぶ人もいるし、「丹田の周辺を柔軟にして気を巡らせ、逆複式呼吸をする事」をそのように呼ぶ人もいる。 呼吸法にもいろいろあり、息を止めずに吸ったり吐いたりする方法もあれば、吸ったあと数秒間止めてから吐く、という方法もある。白隠さんは、いったん止めて吐くやり方を実践していたようだ。どんな呼吸法も、無理せず、リラックスして深い呼吸をする事で、横隔膜の可動域は拡がり、気血の巡りが促され、内臓マッサージ効果が得られる。 もし胴体内のインナーマッスルに硬直があり、いわゆる呼吸筋が伸びやかに動かない場合、浅い呼吸になり、内臓を宿す腹腔内の循環が悪くなる。横隔膜の動きは妨げられ、充分に効率的なガス交換ができなくなり、内臓マッサージ効果も薄れる。 胴体内の筋肉に深い呼吸を促す柔軟性があれば、体中の巡りは良くなり、流動的なエネルギー変換が可能となる。太極拳の稽古では、首や胴まわりを含む体内の筋肉をすべて硬直させず、柔軟に保つ。そして気沈丹田を意識し、心身を安定させ、ゆっくり呼吸しながら動く。太極...

「神」(shen)とは、何なのか

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前回、「神」について書いた。今の自分の中途半端な解釈でどこまで述べられるか分からないけど、もう少し考えてみたい。 中医学や気功について学ぶとき、また太極拳の理論を学んでいく際、よく「神」という言葉が出てくる。中医学や太極拳、気功などの分野で「神」という言葉が出てくる場合、前回述べた通り、日本人が言う神様の事をさしているのではない。 では、神とは何だろう。この神という文字には複数の意味があり、その中の一部を、かいつまんで言うと以下のようなものがある。 ・自分の体内の生命活動の状態が、外側に表面化した様子。 ・意識下、深層心理にあるものが、体外へ表面化した状態の事。 神は、ちょっとイメージが掴みにくい言葉だけど、とにかく「人間としての活動すべてが体外へ表面化したときの様相」 だと思えばいい。 私にとって、この「様相」という言葉が一番、イメージが伝わりやすいように思うので、あえてこの言葉を使っている。「顕在化した様相」とでも言うべきか。様子、表情、有様という言葉でも説明できる。中国語では、神態とか神色という熟語もある。 それから神は、もう少し意味を狭めて言うと、ヒトの感情や思考そのものをさす事もあるという。そして、その神は、心に由来する。心は、五臓でもあり、そして思想を司るもの。心の在り方が、神の様相を醸成すると考えれば良いだろう。 内面、内側が、外側に表れるケースは、いろいろあると思う。例えば、怒りに満ちている人は、カーッと赤くなって、周囲の人が近寄りがたい気配をまとう。また、 心の中で何かに怯えている人は、オドオドして青ざめ、精神不安定なのが外面に表れる。 風邪で発熱した人は、体の中に病原体が侵入している。本人にも、周囲の人にも、その病原体の実物は見えないけれど、体の外側では明らかな体調不良が表面化する。熱で頬が赤らんだり、涙目になったり、目付きがポーッとして、足元はふらつく。 また、風邪を引いてなくても、内臓が悪くなくても、もし過度のストレスで精神面が不安定になれば、神経伝達物質の影響で目や顔の表情まで変わる。神経伝達物質というものは、決して目に見えるものでは無い。でも表面化してくる症状はある。強いストレスによって不眠気味になったり、見るからに不健康な目付きになってしまう人もいる。 ヒトの体は、内側も、外側も、すべて連携して機能している。骨や筋肉が連携しているのは勿...

顔に現れる様相

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表情や肌の状態で分かる体調 過去のブログ記事にも書いたエピソードだと思う。かなり前、ある方から聞いた話。ある日、その人の趣味仲間の顔色が、普段より良くなかったそうだ。それで、その趣味仲間の人へ、「なんだか顔色悪いみたい。病院に行ってみたら?」と勧めたそうだ。その趣味仲間の人が病院へに行き、検査をしてみたら、結果、重大な病気が見つかったそうだ。このエピソードを聞かせて下さった方いわく、「やはり顔は、健康状態をうつす鏡なのだ」という事だった。 ところで私の知己の人の中に、去年、体調を崩した人がいて、その人も顔の表情が良くなかった。その人は、ずっと黒まなこの表情が冴えなかった。そして生気が無かった。面と向かって会話しているにも関わらず、何だか、ちゃんと目が合わないというか、その人の目の焦点が微妙に合っていない感じがした(目の疾患ではない)。 その人は、ずっと持病の治療を続けている。今も病気は完治していないけれど、病院に通院し、治療を続けた甲斐あって、徐々に回復してきている。少しずつ、瞳の表情の豊かさを取り戻しつつある。 やはり、目つき、顔つき、肌質に現れる好不調というのは、体調管理の面では注視すべき点かもしれないと、その知人の状態を見て、改めてそう思った。 私には、もう大きくなって成長した子供がいる。昔、子供が幼少期の頃を思い起こすと、当時は分かりやすかったというか、子供の顔色からの健康観察はしやすかった。だいたい冬場になると、子供は保育所などで風邪をもらってくる。そういう場合、特に発熱した時などは、やはり健康な時とは、まるで子供の顔色が違っていたものだった。目の下にクマができ、体調不良だと一発で分かる顔色だった。 小さい子供は皮膚も薄く、もともと血色が良いので、体調の変化が顔に出やすいのかなと思う。大人だと、顔の皮膚には長年のシミがあったり、くすんだりしているし、化粧をしている事もある。 大人の場合、過去の自分の経験から、体調不良の原因や経過について、自己判断で決めつけてしまう事もある。「以前もこんな不調あったな~。その時は、数日したら良くなったから、今回も大丈夫だろう」などと、安易に決めつけてしまう事はある。 具体的にピンポイントで、体のどこか特定の部位が痛むとか、体の一部に明らかな不調が出たとき、ヒトは病院に行き、「○○が痛いです」などと医師に告げ、診察や検査をして...

ゼロになること

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2024年。年上の親族の病気や死があり、改めて、死とは、老いとは…について考えた。昔、 キューブラーロスの「死ぬ瞬間」 という本を読んだ事がある。 臨死体験を単に紹介するという内容に限ったものではなく、ヒトの自然な死についても触れてあり、深く考えさせられる内容だ。 実際には、死ぬ瞬間の状態は、絶対に生きている人間には分からないはず。 臨死体験という言葉があるけど、本当にその人が死んでしまったわけではないので、やはり死ぬ瞬間がどうなのかを知っているのは、すでに亡くなった人だけだ。亡くなった人に、「死んだ瞬間、どんな感じでしたか?」とは永遠に聞けない。 死ぬ瞬間というのは、誰であっても、いつか自分の寿命が来た時にしか分からない。今年、亡くなった高齢の親族は、1年間、持病で体調が安定せず亡くなった。しかし死因は老衰という診断で、最期の日は安らかで、苦しみや痛みに悶えて最期を迎えたのではない。 今、ガザなどで子供が空爆や飢餓で苦しんだり、乳児が寒さで亡くなったりしている事を思えば、日本に居て、90近くまで生 きて、温かい蒲団で、自然に目を閉じで死を迎えられるのは良い事なのかもしれない、そう思える。 中医学では、先天の気と、後天の気があると考えられている( 過去記事参照 )。 気(气・氣 ・qi) は、気功や太極拳の分野においても、上手く活用すべき重要なも の。 先天の気に関して言うと、生まれたとき潤沢にあったものが、亡くなるときにはゼロになるのだと私は思っている。ゼロになる体…という歌詞の歌があったのを思い出す( https://amzn.asia/d/8wUYZEt / https://amzn.asia/d/brJmUE8 )。 後天の気は、生きて行くうえで、体を維持するために、体外から取り入れて補うもの。呼吸で酸素を取り込んだり、水穀、つまり食べ物や水分から、自分の生きるエネルギーを得る。それが気血となって人間活動のベースとなる。 高齢になって死が近づくと、生きるためのエネルギーの補給は、徐々に必要とされなくなっていく。そうしてゼロの状態へ近づく。 衰弱している人でも、死の前日、または当日まで、少しの食べ物を口にする事が可能な人もいる。それでも、高齢であるほど消化器官の機能は衰えてしまっており、死の直前に、数口でも食物を口から取り込んだとして、その食べた分の栄養を...

久しぶりの狂言の舞台

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延々と多忙な日が続き、ブログを更新しないまま、軽く二カ月以上が経過してしまった。何だか忙しい一年だった。 でも、そんな忙しい合間をぬって、今年は楽しい事もあった。今年、久しぶりに野村萬斎さんの狂言の舞台をみたのだ。3年前にコロナ禍になってから、あらゆる音楽会や演劇などに出向いていなかったので、実に3年ぶりの舞台鑑賞だった。 やはり狂言の舞台は、舞台装置も簡素で気持ちが良いほどスッキリしていた。演者さん達の無駄をそぎ落としているけど縮こまらない優雅な動き。過剰な演技や装飾はない。ジャンルは違うのに、やはり今回も、太極拳と重ね合わせながら観てしまった。( 過去記事でも萬斎さんのことを書いています ) 萬斎さんの動きは相変わらず整って安定した体幹、足さばき、肩と首あたりのスッキリした感じ、幼い頃からの何十年もの稽古の蓄積が醸し出す独特の立ち姿、特有の存在感。今年 56 歳であるという年齢をまったく感じさせない、スルスルと滑るように動く体。 鑑賞した舞台では、萬斎さんの御父様、人間国宝である野村万作さんも出演されていた。円熟味を増した演技をみせてくださった。 91 歳の現在も舞台に立ち続けるという凄さ。多少かすれ気味だけど声も通る。日々の相当な努力と、厳重な体のケアが必要だろう。並大抵の努力ではないと思う。 一方、萬斎さんの御長男の裕基さんも出演されていた。「親子3代、現役で同じ舞台に立つとは凄いことだな。」と改めて思った。 以前(コロナ禍になる前にも)、親子三代の舞台をみた。そのときの裕基さんは若くて初々しい感じがしたけど、今年の舞台では、軽快な動きの中にも大人の男性の色気のようなものが感じられ、成長を感じた。他の演者さんよりも裕基さんは若いので、やはり体の軽やかさと安定感は凄い。 円熟味が感じられる万作さん、そして大成された感じの萬斎さん。それぞれ素晴らしいのだけど、裕基さんを見ていると、やはり単純に「若さっていいな。」と思う。体の動きに関しては、やはり若い方が動くに決まっているのだから。 新作披露では、萬斎さんと裕基さんの親子共演で、お二人とも、それはそれは軽やかな動きだった。太極拳風に言うとすれば、軽霊が実現した動き…とでも表現したくなる。終盤の裕基さんの足の動きは、特に軽やかだった。 私は素人だから狂言の詳しいことは知らない。過去に萬斎さんの著書を数冊読んで、それ...

大椎のツボ

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大椎のツボを緩やかに刺激してみよう 首の付け根のところにある経穴(ツボ)が「大椎」です。 首の付け根といっても、ピンポイントでどの辺りにあるのか…、分かりにくいと思いますが、頸椎と胸椎のあいだ、つまり首と胸の骨の境目にあります。 頸椎は7個つらなっており、1番下の第7頸椎(隆椎)の真下に大椎のツボがあります。 第7頸椎は他の骨に比べて大きいことから、その真下のツボということで「大椎」という名前がついたといわれています。 自分でそこを触るには、まず首をゆっくり前へ、俯くようにして傾けます。そのまま手で首の後ろ側を触っていくと、一番ぼっこり!と出ている大きな骨に手が当たります。 その一番大きく、ぼっこり出ている骨が第7頸椎です。よって、そのぼっこりした大きい骨までは頸の骨、その骨から下は胸椎です。 ぼっこりした大きな第7頸椎の、すぐ下の付け根が大椎のツボです。 この大椎のツボを軽く刺激することで、以下のような効能が得られるといわれます。 【咳、喘息、熱痛、感冒、肩・腕の痛み、湿疹、吹き出物、頭痛、背筋痛、鬱など】 <ツボを刺激するときは…> ツボを刺激する際は、大椎に限らず、どんなツボでも、「ゆっくり呼吸しながら優しく押す」、また「さする」様にします。 強く押すと皮膚や毛細血管を痛めてしまいます。 それに、気持ちが良いからといって長時間、むやみに強く押せば、交感神経が優位になり、気がたかぶってリラックスできなくなってしまいます。リラックスできないと、筋肉のどこかが固くなり、血流を阻害してしまいます。 ★★★ ツボを温めたり優しく刺激することで、血流を促し、リラックスしながら大切な身体の免疫機能を調整することは、あらゆる感染症などの病気から自分を守るための防波堤の役割を果たしてくれます。  

余計な思いは捨て去る

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1月にアップした当ブログ記事で 「七情」 について触れた。日本ではよく「喜怒哀楽」という言葉を使い、感情を4つに分けて表現するが、中医学の世界では「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」の7つである。 日常生活において、その日、その時の状況に応じて、ほどよく7つの感情を感じられたら、きっと味わい深くて感情豊かな生き方ができるだろう。 ただし太極拳をするときは七情は不要である。当然、喜怒哀楽も不要。心は捨てていい。 太極拳をあまり知らない人がこれを聞いたら「心を捨てるなんてヒドイ~」と思われそうだけど、これは悪い意味ではなく、動くとき、 雑念を取り払って感覚を研ぎ澄すますため、あえて感情を捨て去る というもの。 完全な無意識になるという意味ではなく、意識は確かにそこにあるが、ヒトの複雑な感情は要らないということ。 太極拳を健康法として行う場合も、動作や感覚を健康面に寄与するものにする為には、力を抜き、あれこれ考えないほうがいい。 感情というのは、それが喜びであろうと嫌悪であろうと、ちょっとした興奮に繋がり、交感神経を刺激して血圧が上がる。 ブレない心を作りたい 繊細で柔らかな動作を行うには、精神面が乱れず、落ち着いている状態が望ましい。余計なことを考えてしまうと感情が乱れ、動きにブレが出てしまったり、緊張による張りが筋肉に出てしまう。だから太極拳をする上で、余計な思考は要らない。 ヒトの脳内の扁桃体は、感情が高ぶる際に大いに活性化し、そのことでちょっとした興奮状態による血圧の上昇や筋収縮を招く。だから感情面は冷静でいられるよう心を静め、自分の周りの細やかな空気の流れを感じられるほどに繊細で穏やかな状態になればいい。 感情の暴走を許さず、呼吸を整え、何かを感じる「感覚」を大切にする。 「心静用意」 (シンジンヨンイ)という言葉がある。 心を静め、意を用いる 。 太極拳を稽古するとき、感情の高ぶりの赴くまま「ヤァヤァ!」と勢いづき、突っ込んでいくような力強い動きはしない。 興奮状態にならず、不必要にアレコレ考えず精神を安定させ、副交感神経優位の状態を保ち、「意識下で体内の気を巡らす感覚」を大事にしながら動く。そうして五感を研ぎ澄ませ、周囲の気配を読み取るように鋭敏な感覚のまま動く。 1つの型をしつこいくらい何度も繰り返し、それを何年も続けて稽古していけば、その型はいつしか完全に...

みなぎる活力に年齢は関係ない

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90 歳を超えても常に朗らかでいられる人 今年のお正月、実家を訪問した。そのとき私の親が話していた内容が興味深い。 70 代の親が所属する趣味のグループには、 60 代から 90 代まで様々な年齢層の人がいらっしゃるらしい。 その趣味のメンバーのうち、私の親がよく一緒に会食するという2人について聞いた。 1人は 80 代の女性。立派な方で、昔からグループのリーダー格になるような性格の人らしい(この方には、私も過去にお会いしたことがある)。 もうお一方は 90 代の女性。 90 歳を超えているけどお元気で、割とポジティブに生きている人。 お二人とも高齢なので、過去に怪我や病気の経験があり、例えば 80 代の方は膝の調子が良くないとか、 90 代の方は過去に腎臓を1つ取っているそうだ。 年齢的なことを思えば、乗り越えてきたことも多いだろうし、年々老化するのだから体はそれぞれ万全な状態ではないだろう。 私の親が、このお二方と親しく付き合う中で、日々感じていることがあるそうだ。それは、「生きる活力」という点においては、年齢の高い低いは関係ないということ。 より高齢である 90 代の人の方がいつもお元気で、幸福に満ちている雰囲気と笑顔をお持ちだそうだ。 思考や発言には人それぞれのパターンがある 私の親が、 80 代の人よりも 90 代の人から“生きる活力に満ちた印象”を強く受け取っているのはなぜか。 まず「会話の内容」にパターンがあるそうだ。 高齢になると若い頃よりも、自分の健康不安や、友人や家族の病気や死などの心配事が降りかかる。しかし 90 代の方は、普段、会話しているときに前向きな発言が多いという。 そして、自分より年下( 90 代からみた年下、つまり 60 ~ 70 代の仲間)の話題に、いつも違和感なく入ってくる、つまり性格面での柔軟さがあるという。 もし会話の内容に世代間ギャップがあったとしても、決して知ったかぶりをするでもなく、時には聞き上手になったりして、どんな会話にも上手く溶け込める対応力、発想の柔軟さがあるという。そして、他人に愚痴や泣き言の数々を訴え、まき散らすこともない。 一方の 80 代の人は、いつも他人と話す際、自分の苦労や苦痛を相手に理解して欲しくて、“求め過ぎる”傾向にあるという。 常に不安を吐露し、会話相手から「大丈夫ですよ」という言葉を引き出...

荒ぶる心を静める

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あきらかに血圧が高そうな人 かなり昔、私が大学生の頃の話。身内や友人の話ではないのに、自分の中で強烈な印象に残っている出来事がある。 私は大学時代、第二外国語の選択科目としてドイツ語の講義を受けていた。ドイツ語の教授陣の中に、ある中年男性がいらっしゃって、その教授は普段、いたって普通のテンションで講義を行っていた。 ところが、ある初夏の日の講義で、急に烈火のごとく怒り出したことがあった。受講している学生達に向かって目をひんむいて激怒し、顔を赤くして怒鳴り散らした。そのときの剣幕、怒りの凄まじさは強く印象に残っていて忘れられない。 かなり昔の話なので、教授が怒った原因…、どの学生に対して怒ったのか?、何を怒ったのか?、全く覚えていない。ただ、「些細な事であそこまでキレる?」と思った記憶がある。 この話には続きがある。その後、大学の長い夏休みを終え、後期に入って久しぶりに大学へ行ってみると、その教授は亡くなられていた。 その頃、私はまだ若い学生の身だったので、中高年の体調や血圧のことなど意識したことがなかった。今になって思えば、あの教授はかなり高血圧だったのだろう。あの日、怒鳴ったときは、血圧が急上昇していたに違いない。 それから、これはまた別の昔話。私は中学時代、スパルタとも言える厳しい指導の英語塾に通っていた。そこの塾講師は中年男性で、お酒が大好きで、毎晩たくさん飲んでいたようだ。ひどい肥満ではなかったけど、お腹がボン!と出ていた。 勿論、お酒自体が悪いのではない。ほどほどに楽しく飲みながら過ごす日々は良いと思うし、お酒好きな人も、きちんと運動をして心身を整えればいいと思う。でもこの塾講師は、運動とは無縁の人だった。 講師の目はいつも赤く充血しており、ときには黄疸症状が出ているような黄色がかった目をしていた。かなり飲みすぎの毎日を送っていたのだろう。性格はというと、血気盛んに大きな声でワアワア会話するタイプ、いつも気がたかぶっている様子で、静寂とは無縁の人だった。 私が大人になった今思うのは、きっとこの人もかなり高血圧だったのではないかということ。 私が高校生になったとき、つまり、この中学生向けの塾に通うのを終えてから間もなくして、この塾講師は亡くなられた。塾生仲間で葬儀に行った。葬儀では、私達より年下の講師の娘さんが、シャツのそでを目にあてて涙を拭っていたのを鮮明...

頭頂のツボ【百会】について

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太極拳を稽古しつつ、中国の伝統医学(中医学)のことも少しずつ、ゆっくりマイペースで学んでいる。ツボのことは、いつかブログ記事で書きたいと思っていた。書くといっても、私の浅はかな学び程度では、体中の何百ものツボについて淀みなく一気に書けるはずもなく、まずは今回、頭部のツボ【百会】について書いてみようと思う。 ちなみに「ツボ」というのは俗称で、中医学で言うところの「経穴」のこと。ツボは、気の通り路である経絡上に多数存在し、気の出入り口であるとか、神経を刺激するポイントと言われる。 ツボに関しては解明されていない部分が多いという。世界保健機関で認証されているツボは 361 カ所あるらしいけど、これはあくまでも国際機関での認証数なので、実際には人体に 800 とか、 1000 ほど存在するという説もある。そんなに沢山あるのならば、体中のどこかしらに触れれば、どこかのツボに当たると思っていい。 ほんの小さな点でも侮れないポイントになっている 百会は“万能のツボ”と言われる。 中国ドラマの時代劇モノをみたとき、瀕死の状態にある人を救う際、医師(道士)が頭の百会のツボに割と太めの鍼を打つシーンが出てきた。放っておいたらすぐに死んでしまうであろう人の、最後の砦となる治療法としてドラマでは描かれる。 頭にそこそこ太めの鍼を打つ、つまり失敗すれば当然、即死という設定だから、ドラマでは視聴者をハラハラさせて場面を盛り上げる要素になっている。一か八かの賭けとして、リスクは大き過ぎるけれど、「死から逃れるには、もうコレしかない!」という治療箇所として描かれるのが、百会のツボである。 鍼といえば、私の古い友人は昔、体調がすぐれない時よく鍼灸に通っていた。その人は、顔面周辺にしょっちゅう鍼を打ってもらっていた。さすがに現実ではドラマのような太い鍼ではなく、顔の周辺には極細の鍼を打つと言う。だから脳天にそこそこ太い鍼を打つなんて事は、時代劇ドラマを盛り上げるための誇張した設定だろう。 私は数年前、日本の獣医師さんが書いたノンフィクションの本を読んだ。その中にこんなエピソードが書かれていた。 その獣医師さんがまだ新米だった頃、勤めている動物病院に、犬猫以外のペットを連れて来られると大いに困惑したという。 犬や猫のように飼育数が多いペットならば、大抵の病気の治療法が獣医師の間で知れ渡っている。しかし犬...
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