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引き算の美学

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不要なモノと雑念にサヨナラする 無駄を無くすことについて、今回もまた書こうと思う。 太極拳から全く話がそれるけど、私は子供の頃から安全地帯の曲をよく聴いていた。大人になった今でも、ごくたまに玉置さんがテレビ出演される時には観るようにしている。 以前、玉置さんが出演番組で語っていらっしゃったのを聞いた。→ 若い頃は、ビブラートを思いっきりかけて高らかに歌い、「どうだ!俺って上手いだろう!」と思いながら歌った事もあった。でも年齢を重ねていろんな事を乗り越えてきてからは、過剰にビブラートをかけずシンプルな歌い方を意識し、今の自分が思う、自然で詞に合う歌い方で良いと思えるようになった、ということだった。 それから、これは別の人のエピソードで、かなり昔、ある女優さんの発言で印象に残ったものがある。 その女優さんはひと昔前、写真集を出版したり、ファッション雑誌によく出ていた。当時、いかにも高級志向で、身に付けているモノすべてが高価格帯のブランド品、愛用の化粧品も一流ブランドの高額なものを雑誌等で紹介していた記憶がある。 ところがその女優さん、派手で奇抜なファッションやメイクを一通り経験した結果、「行きついた先はナチュラルメイクだった」と語っていた。 最近はテレビ等での露出が減っているので、今どんな趣向なのか知らないけれど、とにかく派手に自分を演出し、ふんだんにお金もかけるような経験を一通りしたあと、結果的にシンプルなものの良さを痛感するというのは、誰にとっても良くある事だと思う。 たくさんのモノに囲まれて生きてきた人々が断捨離を積極的に行う様子なども、どこか似たようなものだと思う。 勿論、ファッションや音楽、インテリア等には好みがあるし、年齢層によっても楽しみ方は違うと思うので、どんなものが良いと一概には言えない。 ただ、特定の分野で一流と言われる人達をみると、玉置浩二さんのビブラートのエピソードもそうだし、それから隈研吾さんの木のぬくもりのある建築物なんかも、結局そういう事なのかな…と勝手に思っている。 鉄筋コンクリート中心の前衛的な建築物から、木材を中心としたものに回帰するというのは、スタイリッシュで目を引くカッコ良さの近代建築よりも、むしろ環境に配慮できる自然素材、シンプルさが良いと思える、人間にとっての原点回帰の思考かもしれない。 ネットサイトで隈さんのインタビュー記事

必要なものを取捨選択する

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無駄を捨てるまでの道筋 前回記事で、“軽さ”について考えた。では習練を積むと、なぜ軽くなるのか。それは「本当に必要なモノが何なのか」が分かり、無駄を削ぎ落とす事ができるから。無駄を削ぎ落とすことについては、再三このブログで書いてきた。 猫のごとく自分の気配を消すように、軸を定め、地面に足裏を付けて立ち、大袈裟な動きや馬鹿力を捨てる。無駄が無くなると、動きが軽くなり洗練される。動きの軽さを実現するには、自分が長い期間をかけて身に付けてきた過剰なもの、頑固なこだわり、無駄な力を捨てる。こういったことは何も太極拳の世界に限ったことではなく、いろんな分野で言えることだと思う。( 過去記事参照;書道のケースなど ) どんな分野でも、学びの初期~途中段階では、勉強して、練習して、たくさんのモノを吸収し、まるごと自分のものにできるよう、努力しながら多くの知識や技術を叩き込んでいく。 最初はとにかく地道な積み重ねが大切で、それには自主練など自分自身の努力が必要なのは勿論のこと、知識が豊富な先輩や専門書からも貪欲に学んでみる。いろんな事を吸収し、取り入れ、考えながら実際に動いてみる。そうやって何年もかけて学ぶ。 そして、かなりの年数が経ち「たくさんの事を得た」と思えたとき、やっと初めて、「では、本当に必要なものは何なのか?」の判断が付くようになる。 「自分にとって本当に必要なもの」の判断がつけば、「何が無駄なのか」もおのずと明確になる。 何年もかけて学び、たくさんの事を習得しなければ、「無駄を捨てる準備段階」に入ることはない。 その道で学んだ経験がない人、稽古や訓練が継続できなかった人には、「どれが無駄なのか」の細かい判断はできないということ。結果として取捨選択できず、余計なモノや、要らない考え、不要な動きが凝り固まって捨てられなくなり、センスが磨かれないまま過ごすという非常に勿体ない時間の使い方をしてしまう。 個性と癖は違う 学びの最中には、師や先輩方の言葉を素直に聞く思考の柔軟性も必要で、経験が浅く必要なものをまだ取捨選択できない人が、もし自分の知識をひけらかそうとするなら、プライドが邪魔をして伸び悩むことになる。 間違いなく言えることは、「何も学ばない先に、熟達はあり得ない」ということ。もともと持っている器用さは、最初の短期間だけしか通用しない。 どんな分野でも、柔軟な態度で学

人は軽くなる

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浮き上がらないのに自分が軽くなる感覚 響きの良い言葉がある。「軽霊」、軽いこと。太極拳の動作の際、軽さを実現する。 ただし単純に軽いだけでは駄目で、姿勢の要求、スムーズな動き、ゆったりした呼吸などが伴った上での軽快さ。いきんだり力強く反動をつけたりせず、安定した柔らかな自然な動きで自在に動ける軽やかさ。柔軟性があり体中の気血の巡りが良く、自分の内と外の両方が適度に緩みを帯び、硬直しない状態で動く。 誤解してはならないのは、軽くなるといっても、わざと上にジャンプしたり浮き上がる訳ではない。初心者の方にはまだこの感覚がつかめず、慣れない間は、動作中、足裏に体重がしっかり乗らず、何とかしてバランスを取ろうと、動きながら上へ上へと浮き上がろうとする人が出てきてしまう。伸び上がろうと頑張ってしまえば、はたから見てもその人に余裕が無いのが伝わる。 上に伸び上がろう、浮き上がろうして肩や首に硬直した力が入ると、足裏の安定感は途端に無くなる。だから不自然に伸び上がる癖をつけないよう、時間をかけて動きを修正しなければならない。「無駄な力を入れない安定感」が実現するまでには年数がかかる。型を稽古する回数を増やし、何回も何回も、動きと姿勢を調整しながらやってみる。 長い年数を経て行きつく先は軽さ 長い間、真面目にセオリーに忠実な稽古を続けていくと、やがて心も体も軽くなり、自由自在に、悩むことなく、戸惑うことなく、本能的に動けるようになる。上達すればするほど心身は軽くなり、行き着く先の理想の姿は、脳内が空っぽに近い状態で、我を消してスルスルと動ける状態。 反復練習した結果、動きは体に染み込んでいるので、深く考えなくても体は感覚的に動く。そうなったとき「自分は軽い」と思える。さらに功が進めば、もう軽いということさえ意識下にないほど、思考を巡らすことなく体を自在にコントロールできる。私自身まだ十分それができていないので、いつか老いてからでも、その感覚を得られるレベルに行きたいと思う。 慣れない人、まだ自信がない人は、1つか2つの型を何百回も稽古してみる。長い套路を最初から通して、毎回すべてを全力で頑張ることばかりが良い稽古ではない。「数多くの型を広くやりたい」とか、「早くカッコよく技を体で表現したい」とか、それも良いけれど、でも最初から欲張って焦ったりすると、気が分散し、どの動きも中途半端にな
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