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”推し”は李亦畲(心に残る先人のエピソード)

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私みたいな、何においても大成してない人間であっても、李亦畲の武術研究への姿勢には大いに共感する。また、大いに感銘を受ける。李亦畲は、昔々の武術家であり、探求心が強くて有能な武術研究者でもあった人。 彼は、武禹襄の弟子だ。武禹襄は、太極拳愛好者ならよく耳にする名前で、太極拳理論の大家とも言える人。その武禹襄の弟子(甥でもある)が李亦畲だ。現代の太極拳の分野では、あまりにも武禹襄がメジャーなので、武禹襄の名声の陰に隠れて李亦畲の名は霞んでしまいがち。太極拳愛好者でも、この人物を知らない人がいるかもしれない。太極拳に縁のない人なら、なおのこと聞いた事も無い名だろう。 現在の太極拳理論の分野で有名な武禹襄の影には必ず李亦畲がおり、彼がいなければ武禹襄の功績が明るみになる事はなかったと言える。今現在の太極拳の分野では、王宗岳と武禹襄は理論の権威とも言える目立つ存在で、論述においては二大巨頭みたいなもの。しかし、やはり武禹襄の存在だけでは成し得なかった事を李亦畲はやっていたと思う。彼がいなければ、彼の残した記録がなければ、有名な王宗岳太極拳論も、武禹襄太極拳論も、私達の目に触れる事はなかったかもしれない。 だから、この李亦畲という人こそが、私達のような太極拳愛好者が学ぶ理論のベースを築いてくれたと言っても過言ではない、私はそう思う。彼は、師匠の武禹襄と並んで、太極拳理論を語る上では欠かせない重要人物だ。 武禹襄も李亦畲も、功績を残そうとして技の研究を行っていたわけではない。純粋に好きな武術の技を突き詰めながら過ごし、また王宗岳の理論に影響を受け、理論と実践をひたすら追求してきた人達だ。 ネットなんかで、王宗岳が自分で太極拳論を公開し、王宗岳が太極拳を普及させた、という記述を見た事があるけど、そうではない。太極拳普及の裏には、過去、様々な人がいて、その中の一人が楊露禅であったり、彼の息子達であったり、それから武禹襄、李亦畲、李亦畲から学んだ郝為真など武式門派から出た人々の存在も大きい。 過去の武禹襄や李亦畲の理論を記録したものは、もともと弟子や親族に託されたものであり、武禹襄と李亦畲が世間に向けて公開した事などない。二人とも、後世の太極拳の分野に名を残そうとか、偉くなろうとか、大きな功績を残そうとなどと考えていたわけではない。 ただ一緒に、武術の技の研究に邁進していた。純粋に好き...

「分かるようで分からない」が延々と続く

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難しいから飽きる事なく学べる 太極拳套路も、推手も、それぞれの面白味があり、どちらも真剣に学べば難しい。だから飽きる事なく、その気があれば一生続けていける。 套路も、推手も、皮膚感覚や脳内の感覚など、体中のすべてを総動員し、繊細に機能させて動く。套路における独特の丸みをおびた動きの中にも一線の流れがある。套路の中の攻防の原理を直接、相手に触れて体感できるのが推手訓練で、これまた難しく、学びは延々と尽きない。また、推手と言っても、私は経験ないけれど競技用や表演向けのものもある。愛好する人によって、その方法はいろいろだ。 套路については、健康法として行う高齢者の方は多い。その人達も難しさを感じておられる。最初はまったく自分の動きが制御できないからだ。それでも1年以上経つと、徐々に良い変化が表れる。高年齢でスタートした方も、動きに慣れていけば、しなやかな良い動きへと徐々に変化していく。 太極拳は中国武術なので、当然、攻防の原理がそこに存在していて、相手と接触している中で攻防が展開される。やはり特徴的なのは、まろやかな円の動き。相手に貼りつく感覚と、互いの円の動きの中で動作は展開する。 攻撃と防御の「直線的な境界線」が分かりづらく、相手が体勢を崩せば自分の攻撃が成された事となる。推手では、ヒヨッコの私には、ただ動くこと自体も難しい。本当にレベルが高い先輩達の中には、計算づくで、感覚的に、思いのままに動く事ができる人もいる。ヒヨッコレベルの私などは、はるかに高いレベルの先輩方の自在なコントロールを見れば、素直に、おぉ~凄い!と思う。 対錬の場合、相手が押してきたときは自分の防御のときだけど、そんな単純な図式ばかりでは無く、防御と攻撃がほぼ混在して展開するような瞬間もあるわけで…。結局「いつ」が「何の瞬間」なのか分かりづらい。接触して動いていく中で、「ここが起点」、「ここが終着点」「どこまでが攻撃」、「どこまでが防御」という、線や点のクッキリした境目が見えない。 円動作で連なり、相手に延々と粘着して動いていくのが太極拳の動き。まろやかな円の動きの中に、いつのまにか線状の流れが現れたりする。そのような単純明快過ぎないところが奥深くて興味深い。 当たり前だけど、相手がいれば自分本位で動けず、体のコントロールが難しい。套路は良くも悪くも、自分本位で動こうと思えば、どんなふうにでも動け...

言葉を発する場合

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学び続ける理由 野球選手では無いのでプロもアマも無いけれど、意識の上では、太極拳を教える側は、”プロ意識”を持っておいた方が良いと思っている。プロ意識が持てなくても、せめてセミプロ意識くらいは、指導者ならば持っておきたい。 高いレベルにはない私なんかでも、稽古の場では、太極拳の指導者として、専門知識を持つ者として、皆様の前に立っている。だから、その分野について、常に勉強を続ける。 もし自分が曖昧な知識しか持たず、人に対し、学ぶべき内容をしっかり伝える事ができないなら、教える立場を継続する事なんてできない。勉強を継続せず、現状維持のまま、他人に貴重な時間を費やしてもらう事はできない。 稽古に来てくださる皆様も、年数が経てば上達していく。もし指導者が怠慢だったら、説明する言葉に説得力は無くなっていくので、レベルが上がった参加者の人達は満足できなくなる。指導者は、延々と学び、自分のレベルを上げていかなければならない。学びには終わりがなく、決して立ち止まる事はできない。 これまで私は、太極拳の分野に関わらず、 様々なジャンルに属する有能な方々の話を聞く機会に恵まれた 。仕事でも、何においても、膨大な量の学びを継続し、あらゆる経験を積んできた人生の先輩方から出る言葉は、やはり説得力がある。経験豊かな上に、幅広く得てきた知識を、いろんな言い回しで、ときには難題を解決してきた苦労話などを交えながら、バランス良く語る事ができる人。そういう人は、人間性においても魅力に溢れ、精神も落ち着いている。 誰かが他人に対して、何か特定の分野について語るとき、一度に話す「言葉の量」が多いか?、少ないか?、は、その人の持つ説得力には何の関係もない。現に世の中には、中身の無い事を、ただひたすらペラペラと喋り続ける人だっている。 学びが無ければ説得力のある発言はできず、薄い内容を延々と垂れ流す事になる。そういう人は、話を聞いている相手に対し、無駄な時間を過ごさせてしまい、かつ混乱させてしまい、気づかぬうちに相手に苦痛を与えてしまうが、自分ではそこに気づきにくい。 それから、たとえ何かの分野で優秀な人でも、他人の批判ばかり繰り返す人の言葉は、一瞬なら耳を傾けたとしても、だんだん聞くに堪えなくなってくる。他人の批判ばかり繰り返す人は、大体、険しくて意地悪な表情をしている。他人の批判ばかりの内容だと、聞かさ...
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