太極拳に思想的影響を与えたという道教

道教には神仙思想という考え方がある


太極拳や、その他の中国の養生法にも思想的影響をもたらしたとされる『道教』は、中国の三大宗教の1つと言われている。中国の三大宗教というのは、儒教、道教、仏教。

道教では、普遍的に不老長寿、不老不死を求めたり、自然を神格化して崇拝する思想が色濃い。

そして道教は一神教ではないので、自然も畏敬しながら、なおかつ中国の歴史上の有名人もたくさん神として祀っている。実際にアジアの道教寺院を訪問してみると、何体もの色んな神々が祀ってある。ちなみに私は台湾の道教寺院へ行ったことがあるが、そこでも何体かの崇める存在が祀ってあった。

道教の背景には『神仙思想』という考え方がある。神仙思想というのは、ザッと大まかに説明すると、不老不死を求め、修行を積み、あらゆる身心の鍛錬を乗り越え、さらには自然界を熟知し自然と調和しながら生きる神格化された存在である仙人を目指すというもの。

この私のたどたどしい説明と語彙力では、仙人像や神仙思想のことが分かりにくいと思うので、いっそのこと、もっと雑な言い方でシンプルに説明した方がイメージが湧くだろうか。雑に言ってしまえば、神仙思想とは、「不老不死の力を得るために懸命に修行して、何事においても超越した存在になるぞ!
並みの人間ではなくなるぞ! 老いないし、死なないんだぞ!」・・という思想である。

私が昔からイメージしていた仙人というのは、白い長い髭をたくわえた老人。そして頭に浮かんでくるのは、グネグネした杖を持っていて、雲間からヒョロロロ~と現れるおじいさんのイメージ。だから西遊記の孫悟空なんかも仙人のような存在だとは、子供の頃は全く知らずにテレビドラマで観ていた。

とにかく仙人は、不老不死を得るための厳しい修行を乗り越えた崇高な存在で、並みの人間の存在をはるかに超越しており、常人では考えられない術を使うという。超常的な力を持ち、不老不死に近づいた貴い存在である。

秦の始皇帝も叶う事がなかった夢=不老不死に向かうには、身体の鍛錬のほか、薬を用いる方法(仙丹)もあったとされる。この仙丹というものが、太極拳を稽古する時に意識する『丹田』というものに繋がっていく。

予備知識や深い知識なく、神仙思想というものを何となく知ると、なんだか“非現実的で滑稽な考え方”に思われるかもしれないが、それは現代に生きる我々が、最新の現代医学や科学の知識を情報として知っているから、そう感じるだけである。

むかし、現代のような医学、科学の知識をまだ持たなかった中国のいにしえの人々が、仙人だとか、人間の力を超越するとか、そういった思想を持っていたとしても不思議ではないと思う。

道教には日本人も多大な影響を受けている


日本でも、山に神が宿っているとみなす山岳信仰みたいなものは昔から存在しており、山で修行している人は現在もいるわけで、我が国のこの山岳信仰も、実は中国の道教の影響が少なからずあるという説もある。

余談ではあるが、かの箱根駅伝だって、有能なランナーのことを“山の神”と表現する事がある。走る事をあたかも荒行とする修験者のような若者を表現するには、とても良い表現だと思う。古来から日本でも「山に神が宿っている」という考え方があるから、こんな言い回しや発想が出てくるのだろう。

ほかにも、吉凶を占うことや、古くは日本の陰陽道、そして神社でひく「おみくじ」なんかも、元を辿れば、中国の道教からの影響があると言われている。それから端午の節句やお中元を贈る文化なども、道教の考え方が影響しているらしい。とにかく知らず知らずのうちに、我々日本人の生活の中に、道教からの影響を受けたものが多数存在しているようだ。

むかし空海が遣唐使で唐に渡り、帰国後に真言密教を確立したのは有名な話であるが、空海は仏教、儒教、道教のすべてを学んでいたと言われている。空海以外でその時代に唐に渡った人達も、当時の様々な文化を吸収して帰国しているはずなので、その中にも、今の日本に息づくような文化のうち、道教思想が由来となっているものもあったと思う。私は学者ではないので詳しいことは解らないが、いつかこの辺のことについても、もっと深く学んでみたいと思っている。

太極拳の根本原理に影響を与えた道教


道教神仙思想と太極拳イメージ

太極拳や中国の伝統気功法などでは、身体のバランスを取る際に「陰陽のバランス」を意識する。陰陽思想というのは、平たく言うと、中国の古代からの考え方で、「この世の中は陰と陽の相反するものがバランスを取りながら、調和しながら成り立っている」という考え方である。

陰陽の分かりやすい例を挙げるならば、太陽が陽、月は陰。男性が陽で、女性は陰。でも、男性の場合、体の表面は陽であるが、体の内部は陰であり、女性の体の表面は陰であるが、内部は陽であるとされる。

とにかく相反するものが、互いに存在し、調和をもって、時には入れ替わりながらこの世が形成されているという哲学的な考え方である。この陰陽説に、別の五行説という考え方も加わり、陰陽五行説となって道教思想にも影響していると言われる。陰陽五行については、またいつか日を改めて触れてみたいと思う。

ところで、ある武術の要訣を示す古典「王宗岳太極拳論」の中には、次のような記述がある。

【太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、隨曲就伸


(太極は無極にして生ず。動静の機、陰陽の母なり。動けば則ち分かれ、静まれば則ち合す。過ぎること及ばざることなく、曲に随い伸に就く)


この太極拳論は、太極拳の理論を学んでいる人ならば触れたことがあると思う。元々は槍術の為の書付だったと言われている。上の文は、一部の文のみで、実際の中身はまだまだ続きがある。

これの和訳は、

宇宙の根源を太極という。太極はもともと無で、動静のきっかけ、陰陽の母である。ひとたび動けば千変万化を生み、静まればもとの無に帰る。この自然法則に逆らうことなく、太極拳の技は過不足なく、相手の曲に従って伸ばす。


体の内外には、陰陽虚実のバランスがある。陰陽のバランス、つまり身体のあらゆる部分を調和させ、右の掌が上部へ移動すれば右手は陽の状態にあり、そのとき左の掌が下に向いて置かれている状態ならば左手は陰の状態。その陰陽は始終、動作に従って、入れ替わりながらバランスを取っていく。

足の陰陽虚実も同様で、右に重心がかかれば右が実、そのとき左足は虚の状態。両足の虚実は入れ替わり立ち替わりで動いていくが、体全体は必ず調和が取れていて上手くバランスしている。

また、肢体の中のひとつの手だけを例にとっても、その1つの中にも陰陽がある。腕の上側に向いた部分、つまり日が当たる部分が陽、下側の影の部分は陰となる。こんなふうに、ありとあらゆるところに陰陽虚実があり、時には入れ替わりながら動いていく。

そして、推手のように相手と組んで動く場合も、相手が実のときは自分は虚、逆もしかり。その状態は、いろいろな動きで入れ替わっていく。相手と自分のどちらかがそれぞれ実となり虚となることで、
そこの空間の中では全体のバランスが均衡して立っている。相手に貼りつき、自分の体の中、そして外側、すべてのあらゆるところの陰陽が入れ替わり、縦横無尽に合わせながら展開していく。そして、バランスを取ってあたかも調和しているように相手に感じさせながら、自分の体内の陰と陽は滑らかに入れ替わり、技術を持っている人ならば、いつのまにか相手を制してしまう。

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