目が見る先へ、自分のすべてが導かれていく

動きに少し慣れたら眼法もしっかり意識


太極拳を習い始めたばかりの人が一連の動き(套路)を行う場合、まずは、先生や先輩の動きを「見て真似る」稽古から始めることになる。ただひたすら先生や先輩の動きを真似してみる。とにかく体に動きを染みこませ、スムーズに動けるようになるまでは、長い時間をかけて、動ける人を真似ながら型や套路を繰り返すしかない。

ということは、つまり稽古を始めたばかりで慣れていない初心者の方々は、「眼法(イェンファー)」までは上手く実現できない。太極拳でいう眼法というのは、簡単にいえば目の動きを意識すること。いや、正確には、目の動きが身体を導く意識を持つこと。目の向く先に、自分の心身が導かれる。太極拳を練習するとき、眼法も非常に重要な要素となる。

眼法を意識して稽古するとき、単純に「手元を見ればいいんだよ」とか、そういうことではない。やはり心、つまり意識、意念、精神的なものの保ち方に気をつけて、「いかに目の動きと、心の持ち様と、体の動きが協調しているのか」を自然に意識できるよう、練習を積まなければならない。

こんなことを語っている私も、過去、初心者の頃には、自分の先生から「雲手の動作の時、上の手を見なさい」などと言われれば、単純に「上の手を見ながら動けば良いんだな」というアッサリした感覚だった。いま思えば、意識、意念などには全く考えが及んでおらず、動くこと自体を機械的に「処理」していた。


太極拳の稽古を重ねていくと、動くことを「適当にあしらうように処理する」のは駄目なんだとだんだん分かってくる。そこには「意識と呼吸と動作。この3つを自然に協調させる」ということが必要で、これが実現できて初めて、余裕のある精神状態と柔軟な動きが保たれる。


まず意識が動くことで体内の気血が巡りはじめ、自分が持っているエネルギーを徐々に放とうとする感覚が得られる。その流れで視線が行く先を定め、すぐに次の流れに連なって、胴体から放たれた微細な感覚が最終的に肢体に伝わっていく。

太極拳動作 イメージ


目をどうする、手をどうする、という単独の動きをロボットのように行うのではなく、自分を形づくる全てのものが調和しながら動いていく。1人で套路を行うときは、自分の中でこういった流れを意識して動いてみる。推手のように相手と組み合うときは、相手を自分の目と意識が向かう方へ誘導していく。流れを作って、最終的に自分のペースに相手を巻き込む(これが非常に難しい)。


人間は意識が行く先に視線が向く。視線が向かう先に身体が導かれる。


人間は意識が行く先に視線が向き、目が向かう先へ自分の動きが誘導されるような感覚になる。そのことがとても重要で、機械的に「あっちを見てから、体をあっちへ」、「こっちを見てから、体をこっちへ」とブツブツ切った動きではなく、心身全体を調和させたい。


太極拳の動作時は、目の動きが勝手に暴走するのは駄目で、そこには意念、つまり「意識でもって自分の動作をゆっくりと導く感覚」との調和が必要になる。


あくまでも自分の中心軸はブレないよう、傾かないようにしながら、見ている方向に上肢が捻られる。目の行く先へ「自分の体がジンワリと引き寄せられる感覚」を体全体、とりわけ臍下丹田と命門(腰のツボ)のあたりで感じる。目の動きと、体の内部、命門のあたりが共鳴して動作をする感覚を養う。


稽古を何年も重ねていくと、この独特の感覚が少しずつ理解できるようになってくる。そして太極拳らしいゆったりした動作と、何事にも動じない冷静な精神状態に繋がる。

目が泳ぐのは精神状態が落ち着いていない証拠なので、套路を一通り覚えてしまったら、その後の稽古では意識を穏やかに保ち、自分の内部に意識を向け、キョロキョロせずに眼法を考慮した動作を行う。


初心者の方の場合、目の動きと一緒に頭の軸が傾いてしまいがちになる。頭は重たいので、もし傾けたら体全体のバランスに影響してしまう。真下を見たり頭を傾けたりしないで、頭と体の軸を立てて、自分が導きたい先へゆっくりと目をやる。


まずは先生や先輩の動きを見ることが大切なので、ある程度稽古を重ね、慣れてきて型の流れを覚えてから、視線の向け方にも注意を払うようにすれば良い。焦りは禁物である。


普段の生活でも、人間は歩く時、自分が進む方向を見て歩く


普段の生活でも、人間は歩く時、自分が進む方向を広い範囲で見て歩く。車の免許を取るときなんかも、教官から「遠くをみるように」、「30メートル先をみなさい」と習う。車は進んでいるわけだから、自分の車体の近くばかりジッと見て、そこから目を動かさなかったら、そっちに吸い込まれるように車が進んでしまうので危ない。事故に繋がってしまう。


近くから人が飛び込んできたら危ないので、当然近くも視界に入っていなければならないけれど、車はスピードを出して進んでいるので、遠くの車や信号の状態も見えていないと危ない。とにかく運転中は、近くも遠くも両方を見渡すように見て、いろんな情報を視覚的に得なければならない。

運転は安全に。


太極拳も同様で、1つの手だけをジーッと凝視しない。手も視界に入っていながら、なおかつ、その周囲や前方も見渡せるようにする。自分を取り囲むすべてが見えれば、その空間の中でどう立つか、どう動くかを判断できるのでバランスが取りやすくなる。


目で実際に見えるものを見ながら、心の眼も使う感覚。「周囲の気配をも取り込む」という意識が重要になってくる。


相手と組んで推手訓練をする場合も、自分と相手の近くと、その周辺、とにかく全体を俯瞰するように見る。視界にも、精神にも、余裕がある状態がベスト。そうしないと、近くを凝視して一点に意識が集中してしまったら、そこで自分の動きが固まってしまい、すぐに相手にかわされ、やられてしまう。

こんなことを言っている私自身は、鍛錬不足の未熟者なので、理屈を並べるだけ。他人や周囲に翻弄されるばかりである。でも未熟者であるからこそ、この眼法の理屈の大切さを痛感している。


周囲を見渡す感覚、瞬時に反応できることの大切さ


ところで日常生活において、高齢者の場合、老化によって若い頃より脳の機能が衰えて、周囲の広い範囲へ意識が向かわず、一点のみに意識が集中しがちになってしまうケースがある。


生活の中の例をあげると、スーパーなんかで買い物をしているとき、大勢の他のお客さんや、棚に製品を補充している店員がいても、我関せず通路を陣取ってペチャクチャおしゃべりに夢中になっている高齢の人達を見かけることが結構ある。他人が通路を通ることができなくて困っていても気づかない。


ほかにも、横断歩道が少ない狭い生活道路上で、車や自転車がどんどん来ているにも関わらず、周囲の安全をまったく確認せずに悠々と横断する高齢の方を、今まで何回も見かけたことがある。そういう無謀な横断をする人がいると、運転時にヒヤッとさせられる。

きっとその人は、自分が横断すること一点に集中しており、近づいている車や自転車やバイクのことは眼中にない。あるいは難聴気味なのかもしれないが、耳の聞こえにもし問題を抱えているようならば、目視の確認が一層重要である。


勿論、これはあくまでも個人差があることなので、すべての人がこのような傾向にあるのではない。ただ一般的な傾向として、幼児や高齢者の一部の人には、自分のやっていること一点のみに集中しやすいという事実がある。


人はみな老いるので仕方がない面もあるのだけど、このような傾向は、「感覚を鈍らせない訓練」をしていけば、少しは防ぐことができる。運動や、そのほか趣味など、何でも良いので続けていき、脳をしっかりと使い、体のすべての感覚を養う訓練を怠らないようにする。


それこそ太極拳なんかは、優れた脳トレ&感覚訓練になる。長く稽古を続け、「周囲を広く見渡せる人間でい続ける訓練」を重ねていけば、何もせずに過ごすよりも格段に感覚が磨かれ、より健やかに過ごせる日々に繋がる。空間の中で自分の体がどう置かれているのか、どうバランスを保って自分が存在しているのかを知る手立てになる。


目で見たものはすぐ脳への反応となり、脳から瞬時に神経を伝って体へと伝わり、次の行動へと促す。


太極拳を学びながら「すべてを俯瞰するように見る癖」がつくと、感覚が研ぎ澄まされると同時に、不思議と精神も落ち着き、日常生活でも浮ついた誤った判断をしないで済むケースが増えるように感じている。精神的にも、広い視野を保ちながら生活する訓練となり、小さなことにとらわれて苛々することもグッと減る。


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