規模は小さくてもいいから、自分の居場所が2〜3カ所あると良い

気をそらすことは、逃げではない


人間は、いろんな方面で上手く心身のバランスを取りながら生きている。中国由来の健康法や太極拳も陰陽のバランスを意識し、心身の調和を取りつつ動いていく。太極拳にも、人生にも、日々の生活にも、バランスが大切だと思う。

人には、それぞれの居場所がある。人によって、それが勤めている会社だったり、学校だったり、家庭だったり、地域のボランティア組織だったり、と様々である。

どんなに居心地が良い組織に身を置いたとしても、長く身を置いていると少しほころびが出てきたり、「この部分はちょっと納得できない」という面が出てくる。全体的には納得していても、細かいことで疑問が出てくることもある。

そんな時、2つ、3つの居場所がある人は、上手くバランスを取りながら、それぞれの場所に身を置くことを継続していける。1つの場所に身を置いたとき、もう一方の場所の良さが見えてくることもある。当然、逆もある。


仲間 組織


もし自分の居場所が、わずか1カ所しか無かったらどうだろう。1つの居場所しかなければ、良くない出来事が起こったときの逃げ場がない。比較対象もないから、1つの場所で不満が出たとき、嫌な部分だけが心の中でクローズアップされがちになる。悪い部分ばかり気になりだすとストレスが倍増し、他人に不満をぶつけたりして攻撃的になってしまう。

自分1人だけの問題ならば、自分で勝手に道理を変えればいい。でも他人と共存する組織内では、自分に都合の良いことばかりではない。他人や組織は容易に変えられないことも多い。

大きなストレスを溜め込み過ぎたまま立ち止まると、心の整理が上手くできない。そんなときは思い詰めずに一度、気をそらし、気晴らしする方が良い。可能ならば、その組織と、中にいる人達とは距離を置き、一定期間、別のグループでの活動をメインにしてみるのもいい。

心の整理ができたら、また最初の問題点に戻ってしっかり向き合えばいい。これは逃げでも何でもない。一見、遠回りに感じるけれど、実はスムーズに問題を解決に向かわせる手段となる。

会社の特定の部署などで、同僚と、あるいは上司と部下が口論になる場合、大抵は、真面目な者同士、業務について深く考えるあまり煮詰まった状態になり、「相手の考えを手っ取り早く変えてしまいたい!」、「ワタシの方が正しいのだ!」という強い憤りと焦りから口論になってしまう。

感情論に走ると、冷静な判断ができない。組織の中で感情論に走らないようにするためには、「考える」という行為に対し、段階を踏んでみる。ときに気をそらし、別の世界に目をやる。

どうしても他に居場所が見つからない人は、全く違う空間にいったん身を置く。何でもいい。例えばクラッシックのコンサートに行って気晴らしするとか、映画を観に行くとか。

とにかく考えがまとまらないとき、組織内で人間関係が上手くいかないときは、いったん距離を置き、冷静になる。


居場所が1つだけだと辛くなることがある


家庭というものに目を向けてみると、最近は、共働き家庭が圧倒的に多いようだ。私の幼少期、私の母親の世代は、割と専業主婦が多かった。当時は、参観日に来るのは母親ばかりだった。

専業主婦の仕事は結構、重労働だし、家事には明確な終わりがないので、大変な仕事だと思う。

私の考えとしては、多少手抜きをしても良いから、主婦(主夫)の方は、家庭以外の自分の居場所も作っておくべきだと思う。仕事、趣味、ボランティア等、自分ができる事なら何でもいい。

幸い、今は便利な家電もたくさん利用できる時代なので、家事を上手い具合に手抜きしながら、家庭外の組織での活動に時間を割くことも可能である。

完全なる専業主婦(主夫)が駄目だという意味ではない。家事を懸命にやること自体は、とても素晴らしいことだと思う。しかし、家事と家族の世話だけに自分の人生を費やし、家庭に閉じこもり、「家庭と家族が生き甲斐」という状況は、案外、過干渉を生みやすく、それはときに家族を精神面で追い詰める。

勿論これは私個人の考えなので、「家族だけが生き甲斐」という人を否定するつもりはない。ご本人とご家族の心が健全であればそれで良いと思うし、考え方は人それぞれ、自由である。

ただ思うに、親、配偶者、子供とは、生涯、自分が生きている限り、死ぬまでずっと一緒に居られるわけではない。悲しいけれど、いつか別れが来る。ペットだってそう。


やることが無くなったとき、方向転換できるか


私は、自分の親や、周りの高齢者の方々をみて思う。家庭以外に楽しみや活動の意義を見出している人は、配偶者の死や、子供の独立後も寂しさを乗り越え、その後も続いていく自分の人生を有意義にエンジョイする方へ向ける力がある。

一方、家庭だけがたった1つの居場所という人の場合(すべての人がそうではないけれど)、「自分がどんなに家族に尽くしてきたか」という過去に囚われやすくなる傾向にある。

社会活動 イメージ

人生には限りがある。時間には限りがある。なのに、過去に縛られ、現状が満たされず、過去に生きる人生というのは寂しい気がする。

今、楽しいことは何なのか、今、活力に満たされる生き方ができているか。今が充実すれば、過去は「あんなこともあったなと微笑ましく懐かしむもの」になり、未来は「期待に満ちたもの」になる。

でも、もし今が満たされないならば、過去は「戻ることはできないのに追うべき存在」になってしまい、未来には「希望を感じられない感覚」になってしまう。


昔、私がある企業に勤めていた頃、取引先の老舗旅館が倒産した。

由緒あるその旅館は、隆盛期には天皇家の人や有名政治家が宿泊されたという高級感のある施設だった。しかし時代の波に逆らえず倒産。土地・建物は金融機関に差し押さえられた。

元の経営者は、気力を失い、その結果どうなったか。日々、あらゆる関係先、元取引先を訪問しては無理難題を押し付けたり、文句を言ってまわるクレーマーと化した。

高級旅館を頑張って経営してきた自負があったのかもしれない。そして彼の人生には、他の引き出しがなかったようだった。他の引き出しをいつでも開けられる準備が出来ていれば、旅館経営が行き詰まっても別の世界にチャレンジし、違う希望を見出せたのではないか。そうすれば、彼のその後の人生は別のものになっていただろう。


何も大それたことでなくてもいいから、常に「柔軟に社会に溶け込める手段を持っておく」ということ、そして「困難に遭っても機転が利くように思考の訓練をしておくこと」は非常に大切だと思う。


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