加算されていくのは時間と技術と知識

太極拳の動きは、馬鹿力を使わず省力化、効率化した動きで無駄がない。そんなことを幾度となく、このブログで書いてきた。

世のレベルが高い先生方は、とてつもなく長い間、習練を積んでこられたわけで、当然のように動きが繊細で、不要な大袈裟な動きは無く、わざと格好つける様なことも無く、それでいて自然に格好良さがにじみ出ており独特の風格があるもの。それは間違いなく、長年の努力の積み重ねの賜物だと想像する。

私などはまだまだ、その域にはほど遠く、「あと何十年かかるのだろう…」と遠い目になる。

稽古を始めたばかりの初心者の方なら尚のこと、最初はまったく上手くいかない。

他人の動作を見るだけなら簡単そうに見えるのだけど、自分で実際に動いてみると、柔らかく良い姿勢で動くことは最初なかなかできない。大抵の人が無駄に力を込めたり、なぜか不要な動作まで入れてしまう。

特に手の動きについては、不必要に大きく広げ過ぎたり、肘に力を入れ過ぎてピンと張ってしまう初心者の方が多い。勿論、私も初心者の頃は力んでしまっていた。この段階は誰もが通る道なので、悩んだりせず、気長に構え、夢中になって稽古しながら楽しめばいい。

どんな人だって真面目に練習を重ねていけば、硬直化した状態からいつか抜け出せる。老若男女関係なく、誰もが時間をかけて取り組めば、歩法、手の広げ方、胴体の保ち方など、柔らかくて効率的な動かし方が習得できる。適度なチカラ加減へと変化し、迷いなく動けるようになっていく。


必要な「練習の段階」を経ること


余計な筋力を使わず、むやみに格好つけた動きをしない分、太極拳の動きは極シンプル。動画サイトなどで熟達した名人レベルの中国の方の動きを探して観てみると、拍子抜けするほど動作が“普通っぽく”感じられ、凄いものを見せてもらっているという感覚は意外と無い。

名人レベルの人の動きには無駄がなく、効率よく、大袈裟な動作が無い為、かえって拍子抜けするくらいアッサリとした印象を受ける。実はそのアッサリした動きの中に技巧が隠されており、凡人や初心者にはできない動きだったりする。

本当にレベルが高い人の動きは力みが無く、無為自然の境地を地で行くような柔らかな印象である。太極拳を数年稽古している人がこういった動画を観れば、名人レベルの人の動きはやっぱり凄いなと解るのだけど、太極拳をやった事がない人や初心者の方が観ても、きっと「え?
何か気だるい感じで、至って普通で、全然強そうじゃない。この動きのどこが凄いんだ!?」と思うだろう。

視覚的に印象付けたいだけならば、
やたらと必要以上に俊敏に動いてみせたり、強力に力を振り絞っていれば、一見、強そうで凄そうに見えるだろう。でも大抵そんな動きは馬鹿力を出しており内勁を使っていない事が多く、高いレベルの技巧とは言えないかもしれない。本当に凄い人というのは、澄ました表情のままで、いつのまにか体が動いていて、いつのまにか終わっている。

推手動画なんかを観ると、外側の見た目は静かな感じで、体の内側を使って「ボヨン!」と相手を跳ね除けている人が上手いのであって、それとは対照的に力任せに相手を押しまくっている人は、(腕力にものを言わせる意味では強いのかもしれないけど)太極拳の達人とは言えない。

私は推手が下手糞なので人の動作を批評できる立場には無いけど、今まで沢山の人達の太極拳を見てきたし、ベテランの先生に推手の手ほどきを受けたので、動画なんかを観て、少しばかりの観察力で体の要所要所の動きを窺い知る事なら何とかできる。

シンプルな良い状態へ近づくためには、相応の練習の段階を経なければならない。長い年月をかけた練習の日々が必要であり、“手っ取り早くてインスタントな近道”というのは絶対に無い。

長い年月、学び続けていくと、「成長するためにかける時間」はどんどん積み重なり加算されていく。1年目に解らなかったことが3年目に少し感覚的に分かってくる。3年目にまだ上手くできなかったことが5年目、7年目には上手くできるようになる。そんなふうに着実に、年々自分が変わっていく。

一方、学ぶ年数が加算されていくのとは逆に、動作や思考に関しては引き算が重要で、「雑念を取り払いつつ動きの無駄をそぎ落とす」というマイナス方向へ進む積み重ねによって、余計な馬鹿力を使わず、脳内の余計な感情も無くなり、最後には本当に必要なものだけを残し、ごく自然に自分がそこに存在する感覚、それだけで動く。
時間


時間と技術と知識が加算されていくのに伴い、逆に無駄なものは削られ、自然体、虚無、ありのままのヒト本来の姿に近づいていく。この変化の過程を楽しむのが、太極拳を稽古する醍醐味だと思う。

自分の心身を、人生で背負ってきた負担から解放する


ヒトは何十年も生きていると、必然的に体と精神に、長い人生で身に付けた余計なモノ、無駄な重たいモノをいっぱい背負っている。社会で経験を積み、自分を守るため他者を寄せ付けない防衛本能を身に付け、言葉では理論武装する。自己防衛のために心身への足し算ばかりをしてきた大人は、頭でっかちになってしまう。

大人への階段をのぼるにつれ、いろんな経験や知識が増える一方で、体の疲れ、そして精神的なストレス要因を多く抱え、体を酷使し、気を浪費し、気を損ない、元来持っていた良いエネルギーを過剰に消耗し、思考は硬直化していく。

そうすると、日常では柔軟な体と深い呼吸を忘れがちになり、さらに悪い姿勢、運動不足が続けば呼吸は浅くなり、ストレスが多いと免疫機能も落ち、あらゆる邪気が体内に溜まってしまう。

太極拳には、関節の緩みと心身の柔軟さが必要だから、心身が硬直化した頑固で拘りいっぱいの状態では、交感神経優位になり過ぎて動作がしにくい。「一所懸命になること」と「融通が利かず頑固一徹であること」は違うので、これらをはき違えずに柔軟な心で稽古を続けたい。

私自身、日常生活やこれまでの人生で、ときに、いっぱいいっぱいになった事もある。人間だから、忙し過ぎたり、考えることが増えると、ストレスが溜まることだってある。

そんな状況で、心、脳内が飽和状態になったとしても、太極拳の稽古をすればニュートラルに戻ることができる。ゆったりとした呼吸、柔らかな関節づかい、ゆっくりした歩法、脳内では雑念を捨てた境地で動く。それらが自分をまたゼロの感覚に戻してくれる。稽古をした後は、毎回、心も体もなんだか軽くなる。その状況をありがたく思いながら楽しんでいる。

従人は、あくまでも最終目的を達成するための通過点


稽古を重ねていく年数を経るごとに、加算されていくのは、「経験」と「練習に費やした時間」と「学んで得た知識」と「修練によって心身に染みわたっていく技術」である。

逆に、時間を経れば経るほど、動作に直結する無駄は減って、ゼロ、つまり無に近づいていく。動作に直結する無駄、それは「過剰な筋力」、そして「不要な緊張感」、「不必要に格好つけた動き」、「むやみに幅を広く取る大袈裟な動作」など。必要な知識は増えていくが、不要なものは稽古を経るごとにどんどん減っていく。

無駄を捨てるとは言っても一切、完全に何も無くなってしまうのではなく、ほぼ無くなったところから何か本当に必要なモノだけが生み出される。太極拳の要訣からみれば、「捨己従人」(己を捨てて人に従う)が重要となる。

己を捨てるのは、決して相手に対して媚びへつらうという事ではなく、最終的に自分にとってベストな状態に向かう為の準備である。人に従うのは、あくまでも最終目的を達成するための通過点である。

本来の自分を自覚し、また相手を知り、双方の置かれた状況を的確に感じ取り、相手に対し柔軟に対応する、それで初めて全てが思い通りに運ぶ。自分を知るのは、相手を知るためでもあり、相手を知るのは、自分を知るためでもある。

相手のことを知ろうと思っても、まずは心を静め、自分のあり方、自分の置かれている状況を把握できなければ、今、目の前に対面している相手に上手く対応する事はできない。自分を知るための第一歩は、地味な基礎訓練を続けていくこと、それしかない。

コメント

マーライオンの太極拳 さんのコメント…
参考になりました。動きの修正を行うと、習った動きを、自分は習ったことをわかっています、といった感じで強調した動きで行う人が結構います。わざとらしい動きになるまでにはかなり時間がかかりますし、その間に、自分が理解していることを示すという「欲」もなくすようにしなければならないと思っています。近道は存在しないですね。
タイチーマルゲリータ さんの投稿…
マーライオンの太極拳 様

すごく分かります!(^^)
見せよう、分かってもらおう、という気持ちが先行し過ぎると
なかなか上手く行かない。欲を減らすには練習を重ねるしかないですね( ;∀;)

自分が学ぶことに関しては、欲を減らせてきた、と思いつつ、
教える側に立つ時は、欲を無くしてるか?というと、私はできてない。
心の中で、もっとできるでしょう!と、
慣れていない人に対して思ってしまっているかも…。反省です。

☺コメントをどうもありがとうございました。
タイチーマルゲリータより。
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