人は軽くなる
浮き上がらないのに自分が軽くなる感覚
響きの良い言葉がある。「軽霊」、軽いこと。太極拳の動作の際、軽さを実現する。
ただし単純に軽いだけでは駄目で、姿勢の要求、スムーズな動き、ゆったりした呼吸などが伴った上での軽快さ。いきんだり力強く反動をつけたりせず、安定した柔らかな自然な動きで自在に動ける軽やかさ。柔軟性があり体中の気血の巡りが良く、自分の内と外の両方が適度に緩みを帯び、硬直しない状態で動く。
誤解してはならないのは、軽くなるといっても、わざと上にジャンプしたり浮き上がる訳ではない。初心者の方にはまだこの感覚がつかめず、慣れない間は、動作中、足裏に体重がしっかり乗らず、何とかしてバランスを取ろうと、動きながら上へ上へと浮き上がろうとする人が出てきてしまう。伸び上がろうと頑張ってしまえば、はたから見てもその人に余裕が無いのが伝わる。
上に伸び上がろう、浮き上がろうして肩や首に硬直した力が入ると、足裏の安定感は途端に無くなる。だから不自然に伸び上がる癖をつけないよう、時間をかけて動きを修正しなければならない。「無駄な力を入れない安定感」が実現するまでには年数がかかる。型を稽古する回数を増やし、何回も何回も、動きと姿勢を調整しながらやってみる。
長い年数を経て行きつく先は軽さ
長い間、真面目にセオリーに忠実な稽古を続けていくと、やがて心も体も軽くなり、自由自在に、悩むことなく、戸惑うことなく、本能的に動けるようになる。上達すればするほど心身は軽くなり、行き着く先の理想の姿は、脳内が空っぽに近い状態で、我を消してスルスルと動ける状態。
反復練習した結果、動きは体に染み込んでいるので、深く考えなくても体は感覚的に動く。そうなったとき「自分は軽い」と思える。さらに功が進めば、もう軽いということさえ意識下にないほど、思考を巡らすことなく体を自在にコントロールできる。私自身まだ十分それができていないので、いつか老いてからでも、その感覚を得られるレベルに行きたいと思う。
慣れない人、まだ自信がない人は、1つか2つの型を何百回も稽古してみる。長い套路を最初から通して、毎回すべてを全力で頑張ることばかりが良い稽古ではない。「数多くの型を広くやりたい」とか、「早くカッコよく技を体で表現したい」とか、それも良いけれど、でも最初から欲張って焦ったりすると、気が分散し、どの動きも中途半端になるかもしれない。
勿論、套路に関しては、順番を覚えなければスムーズに動けるところへ到達できないのだから、套路を蔑ろにしてはいけない。ただ、初心者の方の場合、最初から志が高すぎたり、早く順番を覚えることに焦ったり、急ぎ上達を求めてしまう方は、張り切って頑張り過ぎる傾向にあるので、どうしても動きが硬くなる。それだと緊張感が出てしまい、軽霊を実現するには遠回りになる。だからまずは肩の力を抜き、できることから少しずつ、地道に、丁寧に続ければいいと思う。
軽快に臨機応変に動けるようになるには、硬直した力は抜いて、まるで体が地面に吸い込まれるように足裏が地面に張り付き、根を生やしたような感覚で立つ(参考:過去記事)。足裏はシールのように地面に張り付いていて、歩法では、股関節を柔軟に使いながらシールをゆっくり剥がしたり、くっ付けたりする感覚。
自分の体重が、地面にゆだねられる状態でゆっくり動けば、自然に沈む感覚のまま動けるので、まるで水に浮いているように自分自身を軽く感じる。しかし、もしバランスを崩して「自分を支えよう!」と必死になれば、自分の重みを調整することで精一杯になり、体にも心にも余裕がなくなる。そうならないよう、立身中正でバランスよく、緩みを帯びて動く。
大事なのは、年数を経たのちに、この感覚が理解できるようになること。自分の軽さを感じることができる状態で、両手足は胴体に付随して動けばいい。
凝り固まった状態で動いても、良い結果は得られない。太極拳で大切なことは、繊細な感覚を養うこと。それ無しで相手を知る能力は養えないし、健康法として1人で動く場合でも、繊細さ、軽さの実現こそが心身を整えていく。
力の抜き方1つで自分が軽くなる
とにかく自分が軽くなる感覚を得るには、過剰な力みが無い状態でいる事が大前提。例えていえば、眠くなるときの体の感覚。ヒトは布団に入って寝る瞬間、無駄な筋力を使っていない。布団に自然に体が沈み込む。
体重分の重さまるごと布団に沈んでいるので、布団の方は圧を受けてペシャンコになる。でも自分は楽にフンワリと沈んでいるので、自分のことを重くは感じない。つまり同じ体重でも、力の抜き方1つで、自分で感じる「自分の重さ」はまるで違う。
太極拳では、立ったまま中心軸を保ちながら、沈み込む感覚で立てるようにする(膝をガクンと折るのではなく、全身が撓む感じで…)。
套路も大切だけど、まずは站樁(立禅)。これを何度もやっていくと、体表面に近い部分の力み具合や、自分の重さが感覚でよく分かるようになる。関節を緩めバランスよく立ち続けることで、体の深部感覚が養われ、足裏が地面と一体化した状態になる。体内の気血が循環するのを感じながら、当たり前の空間に、当たり前に立っている自分を感じる。立ち続けるという地味なことを気長に続けることが、ゆくゆくは本当の軽さに繋がる。
月単位ではなく、年単位で考える成長
過去に触れたことがある話題かもしれないけど、以前ネットで、3ヵ月でマスターする24式太極拳…なんていうDVDが販売されていたのを見たことがある。もっと凄いのは、たった1ヵ月でマスター…なんてものまであった。
たとえ体操代わりに健康法として太極拳を行う人であっても、太極拳と名の付いたものをやるからには、きちんと要領を得た動作を習得すべきで、1ヵ月や3ヵ月でマスターするのは無理だろう。現実には3年経っても5年経っても、一人前にはなれないというのに。
姿勢や呼吸を整えないままで、もの凄いスピードで短い套路の順番だけを覚えて、何か良いことがあるだろうか。ちょっと運動したという感覚は得られるけど、そこから深めていく鍛錬を続けなければ本当の意味で上達はしない。
勿論、「まずは雑でも良いから順番を覚え、そこから更に努力しながら深めていく」というのも悪くない。しかし、猛スピ―ドで順番だけを覚え、それだけで「自分は太極拳を習得した!」と思ってしまう人がいるならば、何か違うと思う。もしその人の姿勢が整っていなかったり、硬さが抜けないままだったら、雑で勿体ないやり方になってしまう。
私自身、太極拳や気功の稽古を始めてから、独特の緩みのある動きに慣れるまで何年も要した。「何とか太極拳らしく、やっと動けるようになった。」と思えるまで本当に長かった。
私が不器用だから、まともに動けるまでに年月を要したというのもあるけど、大抵の人も、上手くスムーズに動けるようになるまで10年とか、そこまでいかないとしても、少なくとも7~8年はかかる。
3~4年稽古している人であれば、「少し形になってきた、だんだん動きが“らしく”なってきた。」という状態、これが現実である。私の周囲の仲間を見ても、スムーズに脚が運び、手法もなめらかで、眼法は動きと付随し、「全身が協調して動ける状態」になるまで、誰もが長い年数を要している。
その過程が嫌で、「もっと手っ取り早く習得したい。」とか、「動作を微調整するのが面倒だ。」という人は、簡単に習得できない太極拳の動きに徐々に嫌気がさしたりして、残念ながら途中で辞めていくパターンもあるだろう。
辞めずに長く続けた人は必ず、まろやか、なめらか、しなやか、柔らか、軽やかな安定した動きが可能となる。少しずつ動きの本質に近づきながら稽古を続ければ、独特の心地良さや充実感が得られるので、もう辞められなくなってしまう。
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