指導者の品格
足で指導!?
このブログを書くとき、できるだけ楽しくポジティブな調子で書きたいと思っている。だけど今回は、残念ながら他者を批判する内容も含まれるので、あまり楽しくない話題かもしれない。
私が過去に接した事がある男性(A氏)について。A氏は、運動の指導的立場にあった人で、ある日、後期高齢者の女性が、A氏から体の動かし方の指導を受けていた。
A氏は、その女性に“脚の動かし方”について説明するとき、女性の脚を、自分の足で突っついて指導していた。それを見てしまい、私は嫌悪感を覚えた。もちろん痛いほど強く蹴ったわけではないが、高齢女性のふくらはぎあたりにA氏の足先を押し当て、女性の脚を自分の足でずらしながら、「もう少し脚をこっちにやって」と言っていた。
また別の年輩女性に対しても、同じようにA氏は足で小突いて指導していた。別に武術の技をやっている訳ではなく、健康の為の運動を指導しているだけなのに。
A氏は興奮しやすいタイプのようで、上気し、大声で騒がしくしゃべっていた。コロナ禍以前に接点があった人だったので当時はマスクをしておらず、指導中のA氏の口から唾が飛んでおり、汚くてギョッとした。そして差し入れのお菓子を食べながら、口をあけて大声でしゃべって飛ばしていた。またA氏は、自分の自慢話を懸命にアピールしながら唾を飛ばし大声で話し続けていた。そしてA氏とは無関係の、別の団体の運動指導者のことを「大したことない」と断定し、自分のやり方こそが正しい!と大声で豪語していた。
それなのにA氏は、権威ある人の前では異様なほど無口になった。唾を飛ばす勢いはどこへやら、体調でも悪いのかと勘違いするくらい、人格が変わったように黙っていた。
さらにA氏は、複数の高齢者を相手に運動を指導しながら、上手く動けなかった人を全員の前に立たせ、「今から〇〇さんに1人で動作をやってもらい、恥をかいてもらう。」と言った。冗談めかした口調ではあったけれど、私はその光景を見たとき、前に立たされた人が気の毒だと思った。
経験が浅い人、自信が無い人に対し、”あなたの動作は良くないから、みんなに悪い手本を示してみろ”、という内容の指示が来たわけで…。悲しい気持ちになったのではないだろうか。もっと他に言い様がなかったのかなぁ、と思った。
どんな分野の指導者でも、「人にどう説明するか」、「どんな表現でアプローチするか」は、それぞれだと思う。指導を受ける側のタイプによっても変わってくるかもしれない。でも少なくとも私は、A氏のように、上手く動けなかった人に恥をかかせるように仕向け、やる気を削ぐような事はしたくない。
私も運動を指導させていただいている身。私自身、実は偉そうに人のことを言えない。A氏に負けず劣らず、私もガサツな人間だし、大雑把だ。A氏の行動を見たとき、「人のふり見て我がふり直せ」という言葉を思い出した。
私が太極拳の動きを伝えるとき、強引に押し付ける雰囲気になっていないか。慣れない人のペースを考えながら適切な助言、指導ができているか。皆様に対して人として不快な思いをさせていないか。私が運営している稽古場に来ている皆様は楽しく過ごせているか。自分はいろんな配慮ができているか。…惰性でやらず、気持ちを引き締めることが大切だと思う。
少なくとも私はこれまで、他人の脚を自分の足で小突いてずらした事はない。説明の際に、必要ないのに自分の足先で人の体を突くなんて、すごく相手に失礼な行為だと思う。しかも目上の方の脚を。人間じゃなくペットにさえ、そんな事はできやしない。
体の動かし方の要領を細かく伝えたいとき、相手の体に触れる事はある。口で説明するだけでは伝わりにくいときや、説明を聞いただけでは体のバランスがなかなか整わない方の場合。そんなとき私は、相手の背中、脚などに手で触れて指導させてもらうことがある。他人に触れるとき、特別な事情でもない限り、手を添えるのが当然のエチケットだと思っている。
とにかく私がA氏に嫌悪感を覚えてしまったのは、行動が何となく下品な気がしたからだ。夢中になって、まくしたてる様にしゃべっていたとき、咄嗟に出た(人を足で小突くという)行動。人は咄嗟のとき、夢中になっているとき、案外無防備で、その人の素の状態が表に出やすい。取り繕わない生き様のようなものまで露出する。こういった他人の行動を見て、自分自身も気をつけようと思った。そうしなければ、教えている内容の価値、印象まで下げてしまいかねない。
指導者の心得として意識していること
私が運動を指導する立場にあるとき、気をつけている事がある。随分前に聞いたことがある指導者の心得だ。ここに主だった内容をかみ砕いて書き留めたい。
◆丁寧に伝える。問いがあったとき、「そんなことも分からないの?」とか、「あとは勝手にやってくれ」と、投げやりにしない。当たり前のことではあるけれど。これは、自分自身が常に初心を忘れない、慣れていなかった頃の自分はどうだったか、何に戸惑っていたかを忘れないことが大切だと思っている。
◆わざと大物ぶったりしない。学ぶほど、謙虚になっていく。みんな、それぞれの立場で頑張っているんだ!という事を忘れない。
◆言葉遣いは丁寧に。冷静に他人の話をきちんと聞く。…これは、自分の心に余裕があるかどうかが重要だと思う。心に余裕が無くなると、他人の話を冷静に聞けなくなってしまうので、気を付けたい。何のために太極拳を続けているのか。心を静める、これを常に忘れないようにしたい。
とはいえ指導者が特定の人に合わせ過ぎたり、謙虚さを通り越してへりくだるのも良くない。自分が行っていることに自信をもつことは大事だ。自信を持つためには、たゆまぬ努力を続けること、それしかない。努力と勉強を続けた先にしか、自信は育たない。決して偉ぶるために自信を付けるのではなく、みんなと一緒に好きな世界を楽しむため、一緒に向上するために勉強していく。
自分はしっかりと勉強を続け、それを参加者の皆様に提供していく。そのなかで人間同士の付き合いは対等だ。私は、習いに来て下さる皆様から、指導者として育ててもらっている。毎週、頑張って通ってくださる、そんな人達がいなければ、講座や教室は成り立たない。
ところで私は、大人同士の習い事、稽古事、修行の世界で、「生徒」という言い方が好きではない。(私がそう思っているだけなので、生徒という言葉を使いたい人は、使って良いと思う。)
言い方は自由だし、「生徒」という表現が絶対にダメという事ではない。指導者仲間の集まりで、他の指導者が「生徒」という言葉を使っている場合、それで自然に会話が運ぶのならば、私もその表現に合わせることは稀にある。他人との会話をスムーズに運ぶため、臨機応変に対応する。
もともと「生徒」というのは、中高生をさす言葉だ。幼稚園では「園児」という。小学校では「児童」という。中学校と高校では「生徒」という。大学では「学生」という。そういう段階を経た呼び方がある。
だから大人の稽古に至っては、私は「生徒さん」という表現はせず、「参加者の方」、「参加者の皆様」、または、「(文化施設の講座なら)受講者の皆様」と言うようにしている。これは対外的な呼称の問題であり、当然、個人個人の皆様に対しては名前で呼びかける。
武術、武道系の色が濃いものであれば当然、感覚的に「師匠と弟子」という関係だろう。師匠と弟子ならば、中には厳しさを伴う、強い上下関係が存在する団体もあるだろう。でもそこに、人を足蹴にする感覚があってはならない。「自分を持ち上げて他人を落とす」、そんな行動と、「愛をもって厳しく指導する事」とは全く違う。人として互いに認め合っているかどうかは、感覚で分かるもの。
結局、呼び方、ことばの表現よりも、もっと重要なこと、それは、その場にいる人達が相互に人格を認め合い、活動内容に納得し、楽しく活動できること。
私のところへ習いに来て下さっている方のほとんどが私よりも年上で、人生の先輩方。目上の方々に対し、決して横柄に振舞ってはいけない。もちろん年下の方に関しても、数ある運動や太極拳の教室の中から選んで来て下さった、その出会いに感謝したい。
コメント
私自身できていない事が沢山あり、
他人批判だけではなく自分への戒めの意味も込めて書きました。
早速コメントを入れて下さいましてありがとうございました(^^)