”寛容さ”について思う

今、社会の中の人間全体に寛容さが求められている。性差を無くすとか、環境にとにかく配慮すべきとか。性差に関しては、大賛成。だけど、無理に規定を作るのは違和感。女性管理職をいつまでに、何割以上にすべき!!とか。

SDGsなど、大切なことだと思う。でもSDGsに関しては、何でもかんでも、「そうせよ。」というゴリ押し感がある。この数年間、社会の中で強制されてる感覚が強く、とても息が詰まる。

どんな団体やグループでも、それを強調しがちだけど、あまりにも頻繁に目にすると、もうお腹いっぱいになる。そこに少しでも自分が協力できないならば、「自分は悪いのか?」とまで思えるレベル。自然に「そうしたい。協力したい。」と思えれば、より良い。

人格や性差についても、分け隔てなく平等にすべきだと思うけど、それを声高に誰かに強制されるのではなく、「誰もが他者を認める心の余裕」を持てたら、それが一番だと思う。

自分と違うカテゴリーの人を異質とするのではなく。生き方、こだわり、選択するもの、すべて、何が正解かは、決まっていない。飼い慣らされた自分の心が、勝手に決めつけているだけかもしれない。

「異質」というのは、どういう事だろう。今まで自然に特定の何かを異質だと感じる社会通念の中に、たまたまいただけ。そんなものかも。そうではない環境に生まれていたら、自分達の常識の方が異質だったかもしれない。

他者、他国の考え方を許容するかどうか。できない人は、攻撃的になったり、批判的になったりしやすい。「ああ、そういう考え方もあるのだな。そういう人もいるのだな。」、それで良い。その方が共存しやすい。

地球に生命が生まれて、人間だけが知恵をつけすぎて、社会秩序に万人を押し込めようとしてきた。社会とか国というのは、何万年も前は、特別には無かったもの。この2000年とか、数百年で、国家というものが色濃く人類を支配するようになり、勝手に人類が社会のルールや常識を、自分達の都合で作り上げてきただけで、本当は実態なんてない。無極。太極のまま。

もちろん、他人に迷惑をかけたり、犯罪は駄目だ。社会の中で生きる一定のルールは要る。でも個人の趣向や生活様式に関しては、社会のルールに当てはまらない点もある。苦労して、万人向けに当てはめなくてもいいのではないか。

ただ、生きやすい程度の常識があればいい。啓蒙本を読んで、書いてあることを100%鵜呑みにしなくてもいい。参考になる示唆が少しあれば、そこを適度に、少しだけ参考にすればいい。

「こうでないといけない。」と思うなら、自分はそうすればいい。でも他人に、「私はこうだから、貴方もこうでないと!」と強制はできない。人それぞれ考え方があるから。
秋空
秋の空

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