野村家の狂言を観て思ったこと

今年の夏、1年ぶりに狂言の舞台を観た。野村万作さん、萬斎さん、裕基さんの親子三代と、そして他の演者さんたちも…素晴らしかった。今回も萬斎さんは、演目が始まる前に、客席に向かって解説をしてくださった。パンフレットにも簡単な演目の解説は載っているけど、萬斎さん自ら、まず説明をして下さる。その時間だけでも、毎回30分くらいかかっている。よどみなく話を続ける萬斎さんの解説は、素人にはとても分かりやすく、有難い。

今回観た演目では、剛柔に関連するテーマが出てきた。仏教の異なる宗派の2人の僧侶を描いた演目で、2人の僧侶を演じたのは萬斎さんと裕基さん。なにが剛柔かと言うと、2人の僧侶のタイプ。陰陽虚実というか、はっきりと剛柔に分けて描かれていた。

裕基さんの若くてエネルギッシュな動き、そして力強い発声には剛を感じ、その威勢に驚かされた。狂言の簡素な舞台上で、2人の演者さんがしきりに動き、目まぐるしく立ち位置が変わっていく様子。そのときの裕基さんの、軽やかに剛を表現する演じ方が素晴らしかった。私は萬斎さんが好きなのだけど、萬斎さん以外の他の演者さんにも魅かれ、感心してしまう。

当たり前だけど、舞台に上がっている皆さん、客席には一切落ち度を見せない。厳しい訓練を積んで来られたのだろう。狂言の演目は大抵、笑いを誘ったり、人間への皮肉など風刺する内容なので、客側は「日常の厳しい稽古」を想像させられると、素直に楽しんだり、笑えなくなる。

だから、観客から自然に笑いがこぼれるよう、隙を見せないよう、事前に十分な稽古を積むしかないだろう。どんな分野でも下準備は大切で、練習段階で付けた自信が足りなければ、本番で心が乱れ、ミスに繋がる。

練習量が不足したり、心身が整っていなければ、それは観る側に伝わってしまう。「生の舞台で絶対にミスをしない」、それがプロの世界で、人様からお金をとるという事だろう。甘くない世界、厳しい世界だろうけど、その「厳しさ」を観客に感じさせず、肩の力を抜き楽しめるひとときを提供する、それが素晴らしい狂言の舞台に繋がる。

歌手なんかも同様だろう。ステージで緊張しやすい人は、プロの中にもいっぱいいるだろう。でも本番で客席に緊張が伝わってしまえば、客側は歌の世界に酔いしれる事ができない。だから本番までにレッスンを繰り返し、ステージがスムーズに運ぶよう万全を期すのがプロだろう。

お客さんからお金をとる、お金を稼ぐというのは、そういう事だと思う。もし緊張して手も震え、声もうわずり、うまく歌えなかった場合に、「緊張してたんだから仕方ないでしょ、ごめ~ん👅」では、プロとしては失格になってしまう。

そういえば何年も前、私はあるミュージシャンのコンサートに行った。そのミュージシャンは歌が上手く、声量がある人だけど、たまたまその日、喉の調子が悪く声がでなかった。有名アーティストなので、ライブチケットは1万円ほどするし、せっかく来たのになぁ…と残念に思っていたら、そのミュージシャンは、日を変えて再演してくれた。

もちろん再演日は、元々のチケットの半券で参加でき、追加料金はなし。初回に声が出なかった事へのお詫びと、せめてもの観客の期待に応える姿勢だろう。チケットを買って観にきたお客さんへ、なんとか万全のものをみせたいという姿勢だろう。
稽古

狂言の話題に戻るとして…。萬斎さんのお父様、万作さんは92才で現役だ。演芸や伝統芸能では、90歳を過ぎても、円熟味を増した熟練の技で、(ご本人が健康である限り)いつまでも活躍できる。

今回の舞台では、万作さんのパントマイムとでも言おうか、演目の中で”アツアツの栗を何粒も食べ続ける”という演技があった。やはり表現が自然で上手い。

「アチアチ!」と、さも熱そうに、実際には手には何も持っていない、何もない空間で演技をされた。その空間には、まるで焼けた熱い栗がいっぱいあるように見え、本当に熱いものを食べているように見えた。

それはそうと太極拳の套路では、「まるで相手がいるかのように」動くのが良いとされる。エアー対錬とでも言おうか。どんな分野でも、円熟味を増した人達は、たとえ”エアー”でも現実のように見せられるのかもしれない。

万作さんは、いつまで舞台に立ち続けて下さるだろう。来年も楽しみである。可能な限り、舞台に立っていただきたいと思う。ただ年齢的には、やはり辞め時というのを考えていらっしゃるかもしれない。

万作さんの円熟味の増した演技を、ファンはいつまでも観ていたいだろう。しかし現実では声量に衰えを感じる。老齢でいらっしゃるので、当然ながら声帯の衰えはあるだろう。少しセリフが聞き取りにくくなってきているのも事実だ。

もちろん生涯現役で、ヒトは最期の瞬間まで何かの分野で活躍できるなら、とても素晴らしい。俳優や歌手のなかに「舞台で死ねたら本望だ」と言う人がいるように、生涯、死の瞬間まで好きな何かに打ち込み、自分以外の人に何かを提供できれば、こんなに素晴らしい事はない。

しかしどんな分野であっても、1人の人が100年も200年も、延々と大活躍はできない。諸行無常なのだ。どんな人にも、いつか終わりが来る。引き際の美学というか、いつ、どのタイミングで引くのか。それは、どんな世界の、どの分野の、どの立場の人でも、いつか判断すべき事だ。

世界の国の中には、反対勢力を押さえつけ、トップに君臨し続けた国家元首が、歴史上、多数存在している。引き際を間違え、誤った方向に進んでしまえば、大抵、良い結果は生まれない。とりわけ国のリーダーや政治家ならば、判断力が芳しいうちに、慕われているうちに、潔く身を引くのが美徳だろう。

私は過去に、萬斎さんの自伝的著書を読んだ。靭猿で初舞台(3歳)。幼少期は自分の将来について考える余裕はなく、稽古の毎日。ただ狂言の名門の家に生まれたから、やるしかない。

萬斎さんの表現、「狂言サイボーグ」。万作さんも裕基さんも、生まれながらの狂言サイボーグだろう。個性を出すことよりも、同じ型を、同じセリフまわしで、毎回同じように演じる。

だし、熟練の技というのはある。以前、萬斎さんがおっしゃっていた。「狂言は型をプログラミングする。だけど父(万作さん)の演技には、型にはまらない人間性が出ている。型を超えたものがある。型を凌駕している。」と。

今夏、万作さんの舞台を観て、80~90代になると円熟味を帯びた個性が自然に出てくるのだと確かに感じた。

型を学ぶという点では、やはり今回もまた太極拳と重ね合わせてしまう。

太極拳では、初心者が「カッコよくしたい!」とか、「個性を出そう」とは思わない方がいいと思う。このブログでも度々書いてきた事だけど、自然な姿勢を保つことができない段階で、勝手な自分流を編み出したり、動きに変な癖をつけない方が良い。

経験が浅い段階でカッコつけようと空回りする人は、あとから伸びない。意固地になっていて、周囲(先輩や先生)が手直ししにくい。動きに不必要な癖がついてしまったとして、意固地で自信過剰で格好つけたがる人ほど、妙な癖は直りにくい。

雑多な思考を捨てて軽やかに動ける境地をめざすには、初期段階でセオリー通りの稽古を真面目にやる。つまり初心者の段階では、正しい姿勢や基礎を身につける為の、地道な努力が要る。経験の浅いうちの、勝手な自己流の講釈は不要だ。

太極拳で大器晩成をめざすのも、なかなか良いだろうなと思う。たとえ焦っても、急にハイレベルになることは無いから。

私も
、自分がどれほど軽霊に近づけるかは30年後に期待したい。それには病気をせず、真面目に稽古を続ける、それしかない。

王宗岳太極拳論の「観耄耋能禦衆之形(観よ耄耋の能く衆を禦するの形を)」は、若さと腕力があっても無くても、どちらでも大丈夫なんだと思える、そんな意味で、良いフレーズだと思う。

鍛錬を積んだ人の円熟した動きは、基礎体力や腕力がある人をも凌駕するかもしれない。それは焦って身に付く技ではなく、やはり、じっくり時間をかけて醸成していくものだと思う。

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