動きを身に付けるそれぞれの目的
太極拳を学ぶ場合の個人の目的について、以前、ブログで少し触れた事があった。今回もう少し掘り下げ、頭の整理をしてみたい。
今、多くの太極拳愛好者が国内外にいて、個人の目的でジャンル分けする事ができる。個人が学ぶ目的別では、ざっくり大きく3つに分類されるケースがある。その3つとは、伝統武術としての太極拳、スポーツ競技化された部類、健身(健康)目的で体操化された類のもの。
動きを極める長い道のりが、健康体を得る事に繋がる
私は昔、”怪我のリハビリ”のため、つまり健身目的で太極拳を始めた。稽古を続け、理論の中身を知るにつれ、やはり武術の攻防にも興味が出て、途中から推手を学んでみたり、中国武術繋がりで棒術の稽古もしてみた。ほかにも感覚を養うための気功法などをやってきた。
20年の歳月のなかで、並行して数種の事にチャレンジしてきた。頭を切り替えられるなら、複数のことを同時進行でやるのも悪くない。ただし、一度に沢山の事をやり過ぎない方がいい。もし欲張って、あれもこれも…と手を出し過ぎると、どれも中途半端になったり、気分的に落ち着かなくなる。
私が良いと思うのは、どれか1つだけを主軸として、あと1~2つのものを補足的に学んでいく事。同時進行でやっていく事が少なければ、脳内はそこまで混乱しない。気分転換にもなるし、学びの相乗効果も期待できる。
私の場合、健康目的で太極拳を生活に取り入れる一方で、「護身術としてなら、どう使えるか…」、そんな意識を持つ事もある。学び方は人それぞれで、時間を有効に使いながら、できる事を可能な範囲でやっていけば良いと思う。
太極拳は奥深く、面白く、そして裾野が広がっている。太極拳は中国武術であり、それから良質な運動でもあり、少しばかり難解な学習でもある。私のように怪我のリハビリで始めた人間にとっては当然、健康法としての意味合いが強い。
ただし、手足を規則正しいリズムで「いっちにぃさん!」と動かすような一般的な体操のイメージとは違う。健康番組で紹介されるようなストレッチ体操とも違う。動くとき意で気を運ぶなど、その理論には特有の要素が有る。
過去に、「太極拳は武術か、健康法か」という議論をしている人がいらっしゃった。当然、武術である。しかし、得られる効果を考慮すれば、健康法とも言える。姿勢や呼吸を整え、体の様々な筋肉や関節を連動させながら柔軟に動かしていく、そのような武術由来の習練過程は健康法になり得る。だから「武術か、健康法か」と議論する事には、あまり意味が無いと思う。
「武術的な動きの要素を健康法として利用する」という説明が、私にはしっくりくる。稽古を続ける事で、しなやかな動きが可能となり、心肺機能が強化され、深部感覚も磨かれる。武術の技を純粋に追求する人、あるいは護身術として利用したい人も、結果的に副産物としての健康効果は得られる。
太極拳は太極拳でしかない
古来からの伝統武術として太極拳に取り組んできた人々は、独自の理論に基づいて攻防を学ぶ。一方、競技化された分野で頑張っている人々は、動きを大胆にアレンジした難易度の高い華麗な技を身につけ、審査員にダイナミックにアピールしながら動く。質は違えど、いずれも体を柔軟に動かし続けるトレーニングをするという点で、体質強化に繋がり、健康面に寄与する。
現代の太極拳について語るとき、その裾野の広がりから、伝統拳以外の側面として、健康法、またはスポーツ競技など、人によって捉え方、イメージは違うかもしれない。
ただ言葉上、定義する上でシンプルに言えば、太極拳は太極拳でしかない。学ぶ目的を異にする愛好者が存在する事で、現代の我々が、自分が重きを置く目的別にアレンジしながら、「競技用の套路だ~」、「健康法だ~」、「動作の一部を美容エクササイズに取り入れてみる~」などと細分化している。
人それぞれが、目的別に太極拳などの武術動作を利用するケースがある。誰のどういうやり方がベストか、などと優劣を付けたり、正解や不正解を設定する必要は無い。個人が自分に馴染むものを選んでやれば良い。おのおの好きなスタイルのものを生活に取り入れ、楽しんだり頑張ったりすれば良い。
健康法としての愛好者の中には、太極拳のことを「=(イコール)体操です」と言い切る人もいる。体操という言葉は、単純に「健康目的で行う運動」の意味もあり、誰もが取り組みやすく編纂された套路もあるので、そのように表現する人はいる。
また日本のような超高齢社会においては、「太極拳の動きは、健康体操代わりに良いですよ」と説明すれば、ご高齢の方には太極拳の良さをアピールしやすい。しかしながら太極拳は元々伝統武術なので、言葉の定義の面で「=体操です」と言い切る事に少々違和感もある。
名称の問題について言えば、”武術太極拳”という言葉に違和感を覚える。競技仕様のものを他と区別するために、このネーミングが有効という事なのだろうか。
武術太極拳と銘打って競技会で頑張っている人々の動きは、とても躍動的で素直に凄いと思う。トレーニングを積んだ努力家の人々のキレのある動きは、毎日の鍛錬の賜物だと思う。
競技化にはメリットもある。競技の存在が太極拳の裾野を広げた面もあるし、華やかで躍動的なイメージは若者の興味をそそる。競技会ではスポンサーが付いて経済面でも活性化し、太極拳や中国武術がクローズアップされる良い機会となる。
表現について客観的にみた場合は、武術太極拳という言葉に違和感がある。もし、この”武術太極拳”というネーミングが、「武術である太極拳」という意味なのだとしたら、太極拳にあまり馴染みがない人は、競技ではなく伝統拳をイメージしてしまうのではないだろうか。
太極拳は、そもそも武術なのだから、武術太極拳という言葉が「武術武術」みたいな繰り返しに思えてしまう。言葉のニュアンスで言えば「チゲ鍋」とか…いや、ちょっと違うかな。ほかに強引に言葉を作って例をあげると、「乳製品チーズ」とか「果物りんご」のような表現。つまり大きなくくりを示す言葉のあとに、小分類の個別のワードが続く言い回しに思える。
一方、養生法として太極拳を楽しむ高齢層のケースでは、年齢的に衰えないよう「健康を求める」意味合いが強くなるのは当然で、「体操の代わりに太極拳をやってみよう」となる。そうなると健康太極拳という表現は妥当なところなのかもしれない。
ただし、これも武術太極拳という表現と同様、中国には元々無かった造語のはず。もとから太極拳の動き自体に健康効果があるのだから、本来、わざわざ健康太極拳という造語を使う必要はない。
ただし、日本の高齢層の方々にとって、この言い方は分かりやすいようだ。以前、私の教室に来ていた70代の方が、こうおっしゃった。「”太極拳”と、”健康太極拳”という名称。両方を見聞きした場合、自分なら、間違いなく”健康”が付いている方を選ぶ」と。心身の衰えを防ぐため、運動の機会を求める高齢層の方々には分かりやすいのだろう。
こういった分野に限らず、人間が使う言葉は、長い年月をかけて変化していく。自分がその言い回しを使う、使わないに関わらず、新しいフレーズが年月を経て市民権を得ることはある。それなら最初に違和感を覚えたこれらの言葉にも、何度も触れる機会を繰り返すうち、次第に慣れていくのかもしれない。
そうなると武術太極拳、健康太極拳という2つの造語は、言葉の定義として始めは違和感があったとしても、初めての人が取り組む際の入り口として、自分に適したものを判断するという点で、多くの人に許容されていくのかもしれない。
細分化、棲み分けされている現状
武術太極拳と銘打って競技套路に取り組む人、高齢層で健康法として行うケースのほかに、もっと細分化すれば、「気功をやりましょう」などと、あらゆる気功法とともに太極拳動作の一部をミックスして取り入れ、癒しや健康づくりを追求する人達もいる。
「太極拳は気功なのか、気功ではないのか」という議論をしている人も過去にはいらっしゃった。私の感覚では、「太極拳は、”気功的要素”が強い武術」という説明がしっくりくる。
美容目的、ボディメイク的に、太極拳などの動きを取り込んだエクササイズをやっている人達もいる。武術、各種スポーツ、ストレッチなどを融合させ、簡単エクササイズ&美ボディづくりを目指すというもの。映画「マイインターン」の中で、ロバート・デニーロがやっていた太極拳らしきものは、おそらくこの類かなと思う。太極拳と、別の簡易的な運動をミックスしたエクササイズだろう。
私自身は、日々健康づくりに勤しみながら、武術の要素も少しずつ学んでいる。ただし中国武術を学んでいても強くはなく、飲み込みも遅く、要領も悪い。
そんな私だけど、感覚を養う訓練なら確実に続けられる。皮膚感覚、脳機能などを高度に養う訓練だ。これは太極拳の稽古を続ける事で得られるもので、独特の感覚、感性を養う有意義な時間が過ごせる。
飽きっぽい私が、どうして太極拳の稽古を止めずに続けられたのか。それは、他のどんな運動からも得られなかった、何とも説明し難い特有の感覚を得られるから。
だから私は、これから先も、その日、その時、今、できることを、心の赴くまま可能な範囲でトライしていく。
気持ち良く体を動かし、自分の体内にも心を寄せ、関節がどういう順番で動いているのか、今どのあたりの筋肉を使えているだろうか…と探る。動作中は、自分の骨、筋肉、内臓まで協調しているだろうかと、感覚的に掴もうと試みる。
一方、稽古で棒を持つとき、または手~腕が放たれる時、1人のときでも、その先に敵がいると想定して動く。自分の目はどこへ向いているか、どこに意識が向かっているか、様々な感覚を動員して静かに動くことは、本当に面白い。
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