先の先。どこまで考えるか?

長く続いてきた伝統的なもの

私が最初に茶道の稽古をしたのは、はるか昔、中学生の頃だった。当時、感じた事がある。御点前のとき、または客側の作法でも、時折、滑稽と思えた所作がある。

中学生当時、習いたての頃、先生が飲み切る際に「ズズッ!」と音をたてた事に驚き、初めは笑ってしまった。勿論、そのとき先生からは、きちんと説明を受けた。これは飲み切ったことを亭主に知らせてるのだ、ちゃんと意味がある行動なのだと。

でも、なにせ中学生だったから、行動の意味よりも何よりも、表面的な事が気になった。心の中では、「お茶の稽古って上品なものだと思ってたけど、最後にズズッ!は無いよなぁ~」と思った。

中学生だった私は「ズズッ!」と音をたてて飲み切る行為にどうしても抵抗があり、自分が頂く側のときは、極力控えめに「しゅ…」と軽く吸って誤魔化した。

客側が飲み終えて茶碗を拝見するとき、丸めた掌に茶碗をのせ、殊更、深く感心したように拝見する。これも中学生の私には馴染めなかった。ときに先生が演技するかの如く(当時の私にはそう思えた)、まじまじと茶碗の裏側を眺めたりして、何となくわざとらしい感じがして奇妙に思えた。

私はいったん、高校~大学時代に、茶道から離れた。そして20代半ばで、中学の頃と別の先生について、また稽古を再開した。再開後、数年間、稽古を重ねた。

所作に慣れていくと、中学時代には全く理解できなかった良さを少しは感じた。「ズズッ!」は相変わらず苦手だったけど、御道具を拝見する行為には、さほど抵抗が無くなった。

御点前の手順というのは、美しく合理的にできており、無駄なく構成されている。道具を大切に扱う精神も、大人になってから少しは理解できた。

20代の頃の自分は、とにかく仕事が激務だったので、疲れが溜まりがちだった。週末の茶道の稽古のときは、日常の激務をしばし忘れる事ができた。静かな場に身を置き、御点前を繰り返し、先生から手順、所作に関して指導を受けつつ、もちろん茶道具は粗雑に扱わないよう注意した。

次第に御点前に対する見方は変化し、「伝統あるものって良いな」と思えるようになった。「伝統を人が繋いできた事」の素晴らしさが少しずつ理解できた。今現在はもう、茶道から離れて随分長い年月が経ってしまった。今でも、自宅で茶をたてて飲むけれど、作法の手順は無視して簡単にしている。

日常生活では、茶道の経験が役立つ時もある。大雑把で粗雑な私だけど、他所で、礼儀作法を知らな過ぎて大恥をかく事はなかった。また些細な事だけど、お箸の持ち替え方や、畳のヘリ、襖やドアの敷居を踏まない等の習慣は、体に根付いている。

過去に体験した茶道にしても、今、関わっている太極拳にしても、どんなに時代が変わっても長く続いてきたのだなぁ~という印象。そして、伝統的なものを存続させる為には、指導的立場にある人々が長い間、伝える努力をしてきたという事実がある。

自分がコレだ!と信じたものを続け、人に伝える事はとても有意義だ。長く続いてきた伝統的なものには価値がある。だから廃れることなく、ずっと続いてきた。

どんな分野においても、指導者のあり方やタイプは様々だ。独立して1人で自由に活動している人もいれば、同業者の組合のようなものに属しながら、実質1人で活動する人もいる。組織に所属し、その枠内で規律を守りながら活動する人もいる。

少人数のグループで切磋琢磨していく人々もいれば、比較的大きな集団に所属している人もいる。

いろんなケースがあるけれど、どんな指導者でも、関わる年月が長くなるほどに「自分の活動分野を、どう繋いでいくか」に意識が向くものだ。日本のものも、海外の伝統文化なども、ずっと継承され長く存続してきたものは、すべて人間が伝承してきたもの。人から人へと繋いできたものだ。

後任を育て、将来を託す場合もあるだろう。なかには「自分の代で終わりにする。」と、敢えて一代で完結するケースもあるだろう。組織に属する人ならば、活動内容の継承に加え、組織の存続まで考慮して後任を選ぶかもしれない。

威圧的な強制はきつい

多くの人に受け入れられ、長く続き、後世に残るには、そのこと自体に、得も言われぬ心地よさがあるとか、または仲間との充実した時間を共有できる、そんな楽しさも必要だろう。未来に向け、賛同者を多く得るためには、無理なく楽しめる時間が大切だ。

誰かに押し付ける事なく、その良さを上手く伝えられるか。指導する側の声かけ、指導内容には、圧を感じさせない工夫が要る。

もし指導者が生真面目過ぎて、未来へ繋いで行く事に対し、強い使命感を持ち過ぎたら、どうだろう。焦り、威圧感などを、周囲に感じさせるかもしれない。「何としても存続させなければ!」という気負い、焦りが出れば、周囲の人は圧迫感を受け、場合によっては敬遠されるかもしれない。

相手に自分の価値観を押し付ける圧が出れば、相手が余程その分野が好きとか、本腰入れて頑張っている状態でもなければ、大抵の人は逃げたくなるだろう。

太極拳の場合、動きの心地よさ、理論の面白さが理解できるまで、かなり時間を要する。私などは不器用だから飲み込みが遅く、本当に長い時間をかけて、動きの合理性を少しずつ理解してきた。いつまで経っても、勉強は延々と続く。

私の最初の太極拳の先生は、私に指導者を目指す事を進めてはくれたけど、威圧感や強引さは無かった。ただ先生自身が「やってきて良かった」、「太極拳を通して得たものがいっぱいある」といつも話してくれた。

私がその先生と一緒にいて感じたのは、とにかく先生は太極拳が好きだという事。いつも夢中になって、「手はこうよ。足はこうよ。」と教えてくれた。

結局、どんな分野でも「好き」こそが長続きの秘訣であり、指導者の課題は、指導を受ける相手にも「好き」を感じてもらえる指導ができるか。そこには、やっている事そのものの内容だけでなく、互いの相性、人間関係、人柄までが影響を及ぼす。

もし指導を受ける側が、先生や先輩から習得を急かされたり、「こんなに素晴らしいものを、貴方は何故すんなり理解できないのか」などと、たしなめられれば、経験の浅い人はすぐ放り出すかもしれない。

まだ理解が深まっていない段階の人に対し、「とにかく良いものだから、早く理解して人に伝えた方が良い」とか、「存続させる価値があるのだから、次の世代へ繋がるよう、精一杯頑張りなさい」などと言われても、ピンと来なくて困ってしまうだろう。

双方に、焦り過ぎない事や、根気よさが必要だと思うし、物事を伝えるタイミングにも配慮した方が良い。

他人はどうあれ、私自身はできるだけ淡々としていたい

私は以前、自分が関係する、ある組織の中の人から、圧を感じた事がある。その人は、「自分達がやってきた事を、何としても伝承し繋いでいく!未来永劫、続かせよう!」、そんな事を言っていた。

良いものが未来まで繋がれば良い、それは私も理解できる。だけど、その人は「絶対にそうすべき。遠い未来まで存続させなければならない!」と他人に強制し、考え方にまで口出ししていた。

私は、共感を得たいなら、もっと上手いやり方は無いのかな?…と思った。他人の判断、考え方まで無理に変えようとするのは、いかがなものか。熱く強制されれば相手は逃げたくなるので、逆効果ではないか。

私個人の考え、スタンスは、「決して熱くならず、強制せず」。良いもの、良い時間は共有し合うけど、「私は私、貴方は貴方」と割り切る部分は必要で、淡々としているべき、というもの。

自分がやっている好きな事が長く続けば、もちろん嬉しい。だけど50年先、100年先に、もしそれが無くなっていたとしても別に構わない。冷たいようだけど、廃れたとて、人類に大きな影響はない。将来、廃れても、それは時代の流れで、仕方の無いこと。

私はただ、「今できる事をやる。今好きだからやる。今ご一緒している人が喜んでくれれば良い」、そう思っている。熱くなり過ぎず、ただ淡々としていたい。

「自分にはコレだ!」、「コレをやっていくんだ!」、「コレが好きなんだ!」という確信が未だ持てない他人に向かって、「未来へ繋げられるよう、存続をかけて、貴方ももっと頑張りなさい」とか、「貴方も積極的に人に広めて、活動範囲を広げるべきだ」と押し付けるのはエゴだと思う。

他人の尻を叩くような勢いで価値観を押し付けるのは、伝統を守る事とは違うと思う。

本当に素晴らしくて良いものならば、日々、淡々と続ける中で、賛同者は自然に増え、輪が広がり、強制せずとも長く存続していくのではないか。

同じ価値観を有する人が出てくれば、そこから先は、その想いを共有する人達と一緒に啓蒙していけば良い。ただし、必死に他人に押し付けず、熱量を上げ過ぎず、大切なことは的確に冷静に伝える。

それでも、もし将来、廃れるのなら、残念ながら世間に必要とされなかった、という事だろう。

どんな分野でも、一定数の需要があるものは、きっと世の中に長く存続していく。逆に、長い目でみて需要が無いものは、愛好者が減り、自然淘汰されていくだろう。

なかには形を変えながら、遠い未来まで残るものがあるかもしれない。しかし、仮に100年続いたとして、その後はどうだろう。500年、1000年とあまり変化せずに存続するものは、ほぼ無いかもしれない。

人間を取り巻く環境、人の考え方、体つき、医療や養生法のあり方、自然や気候、地域や国同士の関わりなどは、短期間では極端に変化せずとも、長い時間が経てば大きく変化する。諸行無常だ。

そもそも何のために、それは存在しているのか

伝統的なものに限らず、企業や諸団体にも言える事だけど、「運営が軌道に乗り、組織が大きく成長してから、どう存続させていくか」は非常に難しい。組織が大きくなれば、管理する部門が増え、どうしても全体を冷静に見渡せる人が減ってくる。

誰かが思いつきで企画した事が、よく吟味されないまま、半ば強引に押し通される事も出てくる。そのとき賛成派、反対派の両方がいても、組織が大きいと風通しが悪くなり、調整が大変になる。声が大きい人、ゴリ押しが得意な人の意図する方へ、物事が流れやすくなる。

また、大きく成長した組織にありがちなのは、「大きな団体(企業)になったのだから、この先も成長させなければ…。少なくとも規模の縮小はしない。今の規模を維持しなければ。」という義務感のようなものが、関係者の中に出てきやすい。

そうなると組織を維持する事が第1目標になり、中にいる人間を重視しない風土が育っていく。世間で不祥事を起こす企業にありがちなのは、社員1人1人の考えやアイデアを重視しないまま、組織の拡大と成長に躍起になり、問題点があっても声をあげにくい組織になってしまうという事。

あまりにも社員や構成員を軽んじる組織は、その時点で、もう将来が危うくなっているはずなのだけど、かろうじて表面的には順調に運んでいる間は、誰もが危機に気づきにくい。

先を見通す感覚のある関係者はいるのか、いたとしても、上層部に物申せる人がいなければ失墜していく。

以前私が見た、あるお寺のエピソードがある。ちなみに、そこは世間で問題視されるようなカルトではなく、いたって普通のお寺。

そのお寺の関係者(住職やその親族)は、事あるごとに、「お寺を大きくしたい」、「未来に向けて、このお寺を立派にしたい」と主張していた。

外観を派手にする事にばかり意識が向き、建物の改装を重ねた。内装は勿論のこと、外装もお金をかけて荘厳な感じに整え、屋根の高さもより高く、見栄えするように造り変えた。

高額なお金をかけて工事を重ね、その度に檀家の人々は寄付を迫られた。檀家の人々は、ご先祖様がお世話になっているから、「ひとくち幾らで…」と寄付の依頼をされれば、なかなか断る事ができない。高額な寄付を求められるたび、モヤモヤが溜まっていった。

実は、本質は建物だけの問題では無く、住職一家が、普段から高級外車に乗り、キッチンは大理石、高級ワインを頻繁にあけ、海外旅行三昧、そんな暮らしぶりだったのが余計に反感を買う事となった。

お寺側が、拡大路線を進むことに躍起になって行動した結果、総代さんはストレスで寝込み、檀家の人々の気持ちは二の次に。人口減少している地方のお寺だったので、今では、だいぶ檀家数が減ったと聞き及ぶ。これから先、維持していくのは、本当に大変だろうと思う。

お寺と言えば、ここ数年、国内で”墓じまい”の話をよく聞く。墓じまい、大いに結構と私は思っている。「墓じまいをすれば、ご先祖様から恨まれる!」、なんて事をおっしゃる御年配の人がいたのだけど、そうだろうか? 子孫を恨み、不幸にするような先祖はおかしいと思う。

本当に大切な事は、「今、この世にいる人達が、日々の生活を憂うことなく、無理なく、幸せに暮らす」という事。その中で、ご先祖様や、お寺さんに、その時できる範囲で配慮すればいい。

何か特定の分野において、誰かが焦燥感をもって、これでもか、これでもかと強制する。「こんなに良いものなんだ。だから貴方もやりなさいよ。もっと組織に協力しなさいよ。」と、関係者に圧迫感を与えるようなものは、長い目でみると長続きしないと私は思っている。




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