硬直した心身を癒す場所

誰にでも訪れる、人生で大変な時期

少し前に、嬉しく思える出来事があった。稽古に来て下さっている、ある方のエピソード。

この方は、普段ご自宅で、御高齢の家族の介護をしているそう。やはり、その御家族から、なかなか目が離せない為、家庭内で気が休まらず、精神的なストレスが続いているそうだ。その方は、訪問介護の日に、僅かな自分の自由時間ができ、その時間を活かして、可能な日があれば、太極拳の稽古へ来て下さる。

その方曰く、

【稽古に参加して体を動かしている時間帯だけは、日々の大変な現実から気持ちをそらす事ができる。縛られない自分だけの時間を確保して、みんなと運動する事ができる。稽古に参加しているときが、慌ただしい生活の事を忘れられる唯一の時間帯に思える。】…このようにおっしゃった。

そして、その方は、私に向かって恐縮しながら、こうもおっしゃった。

【稽古に通っているのに、動作の順番がなかなか覚えられない。上達が遅くて申し訳ないです…】

私は、その方に対して、以下のような内容の事をお伝えした。

【家庭の事や仕事などでストレスを抱えている方に、気持ちをリセットする時間を作っていただく為に、私は活動している面があります。介護は本当に大変で、毎日いっぱいいっぱいだと思うので、稽古の日まで気を張って、焦って動作を覚えなくて良いです。参加できた日は、緊張を取り払って、ただ、みんなと一緒に気持ちよく運動して帰る、それで良いと思います。大変な中、通って下さって嬉しく思います。】

綺麗事でも何でも無く、心からそう思えたから、こちらも素直に気持ちをお伝えした。

会話というのは本当に味わい深いもので、相手がこちらへ素敵な言葉を投げかけて下されば、こちらも嬉しくなり、素直に感謝の気持ちを伝えたくなる。

誰にでも大変な時期というのは、人生の中で数回は訪れるもの。私自身も、過去に親族が闘病したり、昨年は親族の死去があり、結構大変だった。そんな折、合間をぬって稽古に行けば、仲間と運動する時間を確保できて精神的に救われた。

家族の病気の事だけを、悶々と考える日々は辛すぎる。だから、ひとときの、皆様との楽しい運動の時間は貴重だ。


責任

みんな、いろいろある。嬉しい事も、苦難も。それが生きるという事だと思う。

苦難に陥ったとき、人によっては、自分の周りの人を恨んでしまい、「自分の苦難はアイツのせいだ。アイツのせいで、自分の生活が壊された。邪魔建てされた!」などと、恨み言を言い続けるかもしれない。人間はみんな弱くて脆い面を持っているので、そんな心境に陥ってしまう事もあると思う。

だけど、件の介護をしている人の様に、たとえ苦労があっても、その中にある少しの幸せな時間に感謝できる人は、とても素敵だと思う。

生活上、苦難を抱えているとき、稽古に関しては、その人の、そのときの状況に応じた取り組み方があって良い。介護や仕事などで多忙極まりない人、心に余裕が無い人は必ずいる。新しい事に100%集中できない日だって、みんなあると思う。

精神的にも、身体的にも、疲労困憊して、何事も受け入れ難いとき。すべての事を頑張らなくて良い。いちどきに、何でもかんでも全力でやれば、いつかヒトは壊れてしまう。

習っている事に関して、本格的に必死で上達をめざすのは、苦難が通り過ぎた後で良い。生活環境に少し余裕ができたとき、心にも余裕を持てたら、例えば、人によっては指導者をめざしてみるとか。その人が可能なタイミングで、上昇志向をもってチャレンジすれば良い。

とにかく参加できるときに参加してみる。みんなと一緒に体を動かす。それで心が軽くなって救われる日はある。「ただ参加してみる」、「ただ、みんなと同じ空間に身を置く」、それだけでも価値のある時間を過ごし、心をニュートラルに戻す事ができる。

日常から離れて、ちょっとホッとできる時間を持つ。人が人として、穏やかな心を取り戻す時間を作る。それは凄く尊い事だと思う。

少しずつ、少しずつ…でも良い

私自身、稽古を通して「心身を整える事」を重視している反面、学んでいる内容を「細かく突き詰めたい!」と、張り切ってしまう日もある。突き詰めるというのは、動きを微調整したり、理論を積極的に学ぶという事。

ただし、何をどこまで学ぶかは、他人には強制したくない。それは、介護、持病、その他、人によって、抱えている個人の事情があるからだ。

高齢で持病がある方は、稽古の場所に来るだけでも大変だ。免許も無くて、雨が降る中、バスや電車で通ってくる人もいらっしゃる。暑い夏、寒い冬に、自転車で稽古場まで来てくださる方もいらっしゃる。体力に自信が無い高齢の方は、まずはその場に来て、動けるところだけ動いてみる。みんなと一緒に過ごす。しんどくなったら遠慮なく休憩してもいい。

その日、そのとき、すんなり入り込めそうな部分だけを頑張ってみれば良い。頑張るというのは、決して「疲弊するまで無理をする」という意味では無い。トライできる範囲で、その日、集中できる範囲で、という事。

そういうやり方が許されないような、猛特訓をするような厳しい稽古場も世の中にはあるだろう。ただ、少なくとも私が関わるところでは、精神を張り詰めて頑張る義務は無い。

様々な中国武術の教室があり、いろいろな方針や条件があって良い。指導を受ける側が、自分に合う教室を選べば良い。私の場合、勿論、みんなで上達をめざしたい。だけど、その前に、1人1人が「心をどれくらい整えられるか」に重きを置いて活動したい。

特定の動作を上手くできない人には、なるべく丁寧に説明してみるけど、その日、上手くできなくても構わない。長い目でみていきたい。

もし指導者が、誰かに対して、できない面について酷く焦らせたり、叱咤したりすれば、その人の心は動揺し、周囲の人の心も委縮し、稽古場の全体の雰囲気が悪くなってしまう。

心が委縮すると、体に硬さが出て、血流やリンパ流が阻害されてしまう。健康目的で太極拳をしている人にとって、それは良くない。それに、武術の鍛錬として太極拳を学んでいる人にとっても、心の安定はとても重要で、放鬆、鬆静なくして、良い動きには繋がらない。

私は理論面を学ぶのが割と好きなので、習いに来て下さる参加者の方へ、理論を盛り込んで説明する事がある。拙い私の説明であっても、理論のちょっとした面白さを味わって欲しいと思う。

ただ、介護などで疲弊しているとき、人間の脳はもう、いっぱいいっぱいで、キャパシティが空いてない。その疲れた脳内へ無理に理屈を詰め込もうとすれば、その人のストレスが増してしまう。だから、「今日はここまで絶対に覚える」とか「頭に入れて帰る」とか、そんな無理強いは絶対にしない。

件の介護をしている方は、この様にもおっしゃった。

【なかなか動きが覚えられないけど、こんな感じの私でも、これからも来て良いですか?】

勿論、OKに決まっている。

私の気持ちは、こうだ。

【もちろんです、もちろんです。来られるときに参加して、みんなと一緒に動いてみて下さい。「必死で頑張るべき」とか、「次の稽古までに習得して来なくちゃいけない!」とか、ここでは、そんな事はありません。「ただ、みんなと同じ場所に身を置いて、一緒に心を落ち着けて動く」、それで良いんです。参加できた日はストレスフルな日常から離れて、意識は自分の呼吸へ集中してみる。それだけでも凄く良いと思います。】

私は、過去にこういう経験がある。昔、プライベートで困難を抱え、超多忙だった頃のこと。興味をもったジャンルのものがあり、新たにチャレンジするかどうか、迷っていた。時間のやり繰りが上手くいくかどうか不安だった。

「新しくチャレンジするか、迷ってる…」と、知人に話したとき、その知人がこう言ってくれた。「まずは試しに参加してみる。経験する時間を少しばかり持ってみる。それで良いのでは? そのチャレンジしたい事を、初めから気合い入れて猛勉強しなくても良いんじゃない?」と。

それで私は、ストンと腑に落ちたというか、アッサリ心が決まった。「忙しいから」と、やりたい事をすぐに諦めるのではなく、「この程度の参加なら、できそうだな」、「その場に行ってみて、ちょっと経験する事ならできそうだな」と、可能な範囲でトライすれば良い。

そして将来、時間と気持ちに余裕ができたら、改めて真摯に取り組み、学びを深めれば良い。チャレンジできない理由を挙げればキリがない。ゼロか100かでは無く、可能な部分だけ、まずは少しかじってみる、それで良い。

私は、幼い頃から結構、真面目だったので、何に対しても、「最初から全力でやらねば!」と思い込む傾向にあった。だけど、大人になると痛感する。やはり誰にでも、好きな事を全力でできない時期がある。家庭の事情、その他の事情により、自分がチャレンジしたい気持ちに、生活上の時間配分と気力が伴わないときもある。

だから、まず、そのとき、その瞬間にできる事を、とにかく少しやってみる。他人に対しても、押し付けず、長い目でみて、その人の成長を見守る方が良いと思う。

「稽古に参加したら、体もスッキリするし、ストレスでいっぱいの気持ちをリセットできる」。参加者の方から、そんな言葉を聞く事ができたとき、私は嬉しい。「続けてきて良かった…」と思う。

その人が「参加して良かった」と思ってくれる事で、私も「参加してくれてありがとう」と、素直に思える。現在、介護など生活面で大変な状況にある人から、私自身が精神的に励まされ、助けられているのだと、つくづく思う。


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