松林図屏風のように、無駄なものをそぎ落とす

無駄をそぎ落としたものに惹かれる


私は、美術館や博物館に1人で行くのが好きである。もともと「ぼっち」が割と好きだし、じっくり鑑賞したい絵画などは、1人で見に行くのが一番落ち着く。自分のペースで見ることができる。

見たい展示があれば、近場の博物館や美術館を巡ったり、過去に海外に行った際は、現地の美術館を訪れ、いろいろな絵画、彫刻などの展示物を鑑賞してきた。素人ながらも、素晴らしいと思った作品がたくさんあった。

これまで美術作品をみて「体が動かなくなる」というか、作品を目の前にして「その場を離れたくない」、「ずっとこれをみて過ごしたい」、「2度見、3度見どころか何度も繰り返しみたい」、そう思ったのは、長谷川等伯の松林図屏風だけだった。この作品をみて、初めて鳥肌が立つような感覚に襲われた。絵画をみてそんな感動を覚えたのは、松林図屏風だけだった。

正直、私自身はおそろしく絵を描くのが下手で、おまけに手先が不器用でモノを作るのも苦手、さらに評論口調で語れるほど美術の知識もない。だから素人として中途半端なコメントしかできないけれど、とにかく等伯の松林図屏風は最高峰の国宝であり、見た者の心を捉えて離さない。

(松林図屏風の画像へリンク)
https://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_187.jpg


何がそんなにいいのか。よく対比される狩野派が描いた絢爛豪華な作風とは対極にある。一説には、等伯がふるさと七尾の風景を描いたと言われている。後世の我々がこの絵画をみるとき、等伯の故郷への想いを(勝手に)感じ取りながら鑑賞し、心打たれてしまう。そして、余白の使い方に驚き、とにかく「無駄をそぎ落とした」部分に惹かれていく。

余白が多いことや謎めいた部分があることから、実はこの絵画は下絵なのではないかという見方もあるらしい。でも下絵であったとしても、後世に残された我々を感動させてくれるのだから、もはやどちらでも良い気がする。

松林図屏風は墨画でカラフルさは一切なく、全体の構図が寂しげな風合いに感じられるのに、ザッと荒々しさを感じる線もある。とにかく
不思議で、心惹かれる。

太極拳も、大仰な動き、無駄な動きはそぎ落とし、型が合理的に作られている。私は健康法として太極拳を楽しんでいるけれど、元は武術であり相手との攻防戦が型になっているのだから、戦いを想定した動きに、余計な無駄な動きはいらない。


芸術性をアピールするものにもいろいろある


もしこれが舞踊であれば、合理性や無駄を省く必要はないわけで、アピールする「美しさ」、「見せ場」を多く取り入れなければならない。だから舞踊によっては、腕をバーッと極端に大きく広げてみたり、体を極限まで傾斜させたり、首をクネクネするものもある。

舞踊といっても、もとは神々に捧げる類のものもあれば、純粋に人間が楽しむ娯楽としての舞踊もある。芸術性の高いものから派生して、よりカジュアルに楽しめるものもある。それこそ健康法としての要素を含めたダンスなんかもある。

みたところの印象でいえば、コンテンポラリーダンスなんかは、何とも独創的で、奇妙な動きもあったりする。そこに規則性や特定の理論はあるのか、私のような素人には分からない。単純に印象や率直な感想を言えば、コンテンポラリーダンスなるものは、無駄がどうとか、意味は何なのかとか、そんな理屈めいたものを語ること自体が野暮なのかな~と思ったりする。

一方、太極拳の動きについては、相手(敵)から身を守るために、自分の腕や手をあまり顔や心臓の周辺から遠くへ離してはいけない。かといって縮こまってしまっては、柔軟な対応、自由な動きはできない。相手に倒されないためにはバランスよく立っていることが重要なので、倒れそうになるくらい体を傾斜させられない。


太極拳は踊りではない。でもその動きは優雅で美しい


太極拳は舞のようだ、という表現をする人もいらっしゃる。確かにいろんな動きをみれば、舞のような美しさを感じることがある。無駄を省き合理的につくられた動き、ピンと張り過ぎず、適度に伸びやかさがある。とても柔らかく、美しく、そのなかに芯が通っていて、見方によってはとても優雅。

「無駄をそぎ落としたところに独特の美しさが生まれる」という点では、太極拳動作はまるで等伯の松林図屏風のよう。柔らかく体を使うけれど、シャンと整った体幹、その状態を保ちながら動けば、必然的に舞のような美しさが生まれる。

以前、このブログで野村萬斎さんのことに触れたが、狂言も無駄を極限までそぎ落としてあり、私のような素人がみた場合、一見すると大袈裟な動きをしているように見えることもあるけれど、実はそうではない。舞台装置もいたってシンプル。

シンプルであるがゆえに、視覚へ強引に植え付けられる雑多な情報が少なくて済む。だから逆に、頭の中でイメージするものをどんどん膨らませることができる。「無駄をそぎ落としているから狂言は物足りないか?」というと、決してそうではない。役者(狂言師)の実力と演技力によって、しっかりと「魅せる芸術」になっている。

今こんな話をしている私も、昔、
10代、20代の若い頃は、より派手なもの、豪華なものの方に惹かれることが多かった。外見を着飾ることこそが御洒落、若さだと思っていた時期があった。

でも今、年齢を重ねてきて、本当に自分の大切なもの、本当に好きなものにさえ囲まれていれば、「モノも情報も少なくて良い」、「無駄な装飾は不要、最低限で良い」と思える。シンプルで飾り立てないのが良いと感じる。わびさび。茶の湯の世界であれば、床の間の花器に、花はいちりんのみ。これが楚々として美しい。

無駄がない分、残りの核になる部分が重要。
茶の湯や狂言、太極拳は、無駄をそぎ落としているからこそ、残った核になる部分のごまかしはきかない。しっかりとした理屈、理論のもとに、シンプルながらも土台となる技能を育てるべく練習に励む。臨機応変に動ける技を大切に学び育てていく。

競技選手の動きには、やはりあこがれてしまう


一方、スポーツ競技として行われている太極拳については、見せ場というか、審査で高得点を獲得するために難易度が高い技を繰り広げるところがあるので、そのなかに、あっと驚くような美しさや、驚くほど素晴らしい表現力をみせる選手が国内外にいらっしゃる。

競技太極拳は実戦性に欠ける側面があると一部でいわれており、武術の実戦性を重んじ強さを追求する人々からは、ときに「踊りのようだ」と批判的な目でみられるケースもあるようだ。確かに動画などで表演をみたとき、「すごく美しい動作だけど、もしここで敵に打ち込まれたら?・・アウトだろう」と思うものもある。

でも、そういった側面を持つ競技太極拳も、1つのあり方、1つのジャンルとして成り立っているわけで、それはそれで良いのだと思う。こういった競技があって、難易度が高い技を繰り広げる選手に憧れる子供や若者がいて、多くの人に受け入れられ、愛されているという紛れもない事実がある。


高度な競技太極拳の技は、常人が臨み難い大技ばかりで、私のように中高年の健康法としてユッタリと太極拳をしている者でも、競技のワザの数々に憧れる気持ちはある。これも、いにしえの伝統武術から派生してきた、現代の太極拳の1つのあり方なのだろう。

もし仮に自分がまだ
10代だったら、優れた競技選手がやっているような、審査員を唸らせる「あんなワザも、こんなワザも!」、やってみたかったと思う。現実には、自分が「あんなワザも、こんなワザも!」やってみたら怪我をしかねないので、とにかく自分ができるジャンル、可能なレベルのことを、できる範囲でやっていく。これから老いていきながら、ぼちぼち太極拳を実技&理論の両面から追求する、このスタイルを続けていくのみ。

(参考動画)
youtubeへリンク。カッコいい技がいっぱい。

https://www.youtube.com/watch?v=gQYbMNQnx9M&t=63s


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