続・規模は小さくてもいいから、自分の居場所が2〜3カ所あると良い
趣味がある喜び
前回の記事で「人の居場所」について、思うところをアレコレと書いた。今日はその続編。私の周りにいらっしゃる太極拳愛好者の方々のケースについても少し触れてみたい。
私は普段、主に中高年以上、高齢の方々に、太極拳の動きを健康法として利用するべく指導させていただきながら、日々感じていることがある。それは、ある程度の年齢に達したとき、「趣味がどんなに大切なものか」を痛感するということ。
もちろん「無趣味」という主義を貫く人がいてもいい。無趣味でいること自体は、その人の自由であり何ら問題ない。要は、趣味の有無に関わらず、その人が「心身ともに心地よく生きられるか」が重要だと思う。
太極拳教室に来てくださる高齢の方々の価値感はいろいろで、上達を大して求めない、上手くなることにさほど興味がない人もいらっしゃる。でもとにかく、その人が「その日の稽古で気持ちよく体を動かし、楽しめた」ならそれでいい。
それがその人の取り組み方であり、その人が「自分の生活の中で太極拳をどう位置付けるか。どう利用するか。」は、その人の感覚の赴くままでいい。
仕事の面で隠居した高齢者の方や、子育て、介護等、一通りの人生経験を積んできた方々にとって、老後の生活のひとこまに、仲間と一緒の太極拳教室がある。それで良い。
私自身は、太極拳を続けてみて、人生で得られたものが多い。知識、技術、出会い、好きなことに夢中になって打ち込む貴さ。これからも、もっともっと知識を得たいし、実力が足りない分、技術を向上させたいと思う。
しかしこれは、あくまでも私の太極拳への思い、取り組み方であり、決して他人に強制はできない。私にできる事があるとすれば、習いに来て下さる皆様へ、太極拳の心地良さ、動き方についてシッカリとお伝えすること。
人にはいろんな事情、生活スタイル、考え方がある
私の太極拳仲間の方で、もうすぐ80歳になられる人がいらっしゃる。その方は、障碍者の方々へ朗読をするボランティアを長年続けてこられた。そのボランティアについて語るとき、その人はイキイキしている。長年の朗読の成果なのか、話し声は朗々としている。最近は、もっと若い世代の人に朗読をしてもらっているとの事で、ご本人は、主に書物の選定、内容のチェックなどをしていらっしゃるそうだ。
別の70代半ばの方は、配偶者が少し鬱っぽくなっていらっしゃるという。それで、「自宅で夫婦2人でいると気が滅入る。煮詰まってイライラする。」とおっしゃって、気晴らしに太極拳の稽古に来られた。こんなとき、趣味があるのと無いのとでは、心持ちが全然違ってくるのだろう。趣味の場に来て、仲間と会話するだけで救われることもある。
また、別の80代の先輩は、過去、配偶者と子供に先立たれ、大きな悲しみや苦労を乗り越えてきた人。普段は、悲愴感を他人に決して見せない。心の状態も安定しており、話術も素晴らしい。決して自分がやってきたことをひけらかしたりしない。そして、長年の太極拳の成果なのか、80代半ばの今も体がシャンとして姿勢が良い。
過去を過去として受け入れることで、先に進むことができる
その80代半ばの先輩が、過去の生活上の苦労話を聞かせて下さったことがある。内容を聞きながら、確かに「あぁ、大変だったんだな。この方は凄く苦労されたんだな。」と感じた。でもその先輩の話ぶりには、不思議と悲愴感が無かった。
もちろん苦労話だからケラケラ笑いながら話されたわけではない。深刻な語り口ではあった。しかし暗い印象は受けなかった。この先輩の苦労話には、なぜ悲愴感が漂わなかったのか。
私なりに感じたのは、この先輩が完全に「過去の出来事」として、その話題を語っていること。起こった事実を過去のものとして受け入れ、引きずらずに今に至っている。
過去の苦労話というのは、語り手によっては、暗く陰鬱で悲愴感が漂う愚痴になってしまうことがある。その場合、聞いたコチラ側がドッと疲れることになる。
聞いて疲れる愚痴というのは、大抵、語り手が「自分の不幸を絶対的に他人のせいにして文句タラタラ。他人批判を繰り返し、自分がいかに可哀相なのか必死で主張する。」という類が多い。
本人が、過去の出来事として割り切っておらず、過去に引きずられ、現在も恨みつらみの中で生きている。「前を向いて生きるにはどうしたらいいか」を考えようとはせず、後ろ向きな思考に囚われたまま。
そのような心理状態にある人が愚痴を言うと、他人にまで負のオーラをばら撒き、知らず知らずのうちに相手を暗い気分にさせてしまう。
件の先輩の苦労話からは後ろ向きな印象を受けなかったので、私は聞いたあと嫌な感覚を受け取らずに済んだ。むしろ「人生の先輩から、貴重な体験談を聞かせていただいた。」という心境だった。
「愚痴」と「弱音」と「泣き言」。この3つには、私は違うイメージを持っている。人間だから常に強くはいられない。たまに弱音を吐いたり、泣き言をいうのは良いと思っている。
でも愚痴というのは、話し方によっては、自分の心も、他人の心も、負のイメージで雁字搦めにしてしまう。
立ち止まることもあるけれど、トータルでは前を向いて生きる
人間は、社会集団を形成して生きるイキモノだから、いろんな組織に属して人づきあいをする。何か活動しながら、そこに生き甲斐を見出すこともある。
私自身は、孤独というか「ぼっち」が好きである。だからといって人との繋がりが皆無というのは、やはり良くないと思っている。
人が集まれば、100%良いことばかりではない。ときにはストレスも溜まる。でも孤独が過ぎると、人間は駄目になる。とりわけコロナ禍の世の中では、ステイホーム下での孤立によるストレス、体調不良を訴える人が急増しているという。
高齢の域に達した人々にとって、趣味を持つことで救われる面は大いにある。
人間は、暇になり過ぎてはいけない。「時々のんびりした時間を過ごす」ことと、「暇を持て余す」ことは全く違う。暇を持て余すと、取り越し苦労というか、つい余計なことまで考えてしまうし、体力も弱る。
仕事で定年を迎えたあと、親を見送ったあと、子供が独立したあと、人生の後半戦をどうやって過ごすのか。
趣味など夢中になれるものがあり、生活に張りが出て、前向きに取り組めるものを持ち続けられるのか。個人個人で生き方、生き様は分かれる。
前向きに生きる感覚を持っている人は、表情は穏やか、目には秘めた意思の強さがある。体全体から発するオーラも弱々しくない。元々美形であるとか、そういう次元の話ではない。自分の心の在り方が、外面に滲み出る。
自分の人生を豊かにするのは、自分しかいない。待っていても、誰かが過去の悲しみを拭い去ってくれるわけではない。来ないであろう人生の救済者を待ち続けて、「来ない、来ない、誰も私を救ってくれない。」と嘆いて生きるよりも、自ら小さい一歩を踏み出せばいい。
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