余計な思いは捨て去る

1月にアップした当ブログ記事で「七情」について触れた。日本ではよく「喜怒哀楽」という言葉を使い、感情を4つに分けて表現するが、中医学の世界では「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」の7つである。

日常生活において、その日、その時の状況に応じて、ほどよく7つの感情を感じられたら、きっと味わい深くて感情豊かな生き方ができるだろう。

ただし太極拳をするときは七情は不要である。当然、喜怒哀楽も不要。心は捨てていい。

太極拳をあまり知らない人がこれを聞いたら「心を捨てるなんてヒドイ~」と思われそうだけど、これは悪い意味ではなく、動くとき、
雑念を取り払って感覚を研ぎ澄すますため、あえて感情を捨て去るというもの。

完全な無意識になるという意味ではなく、意識は確かにそこにあるが、ヒトの複雑な感情は要らないということ。

太極拳を健康法として行う場合も、動作や感覚を健康面に寄与するものにする為には、力を抜き、あれこれ考えないほうがいい。

感情というのは、それが喜びであろうと嫌悪であろうと、ちょっとした興奮に繋がり、交感神経を刺激して血圧が上がる。


ブレない心を作りたい


繊細で柔らかな動作を行うには、精神面が乱れず、落ち着いている状態が望ましい。余計なことを考えてしまうと感情が乱れ、動きにブレが出てしまったり、緊張による張りが筋肉に出てしまう。だから太極拳をする上で、余計な思考は要らない。

ヒトの脳内の扁桃体は、感情が高ぶる際に大いに活性化し、そのことでちょっとした興奮状態による血圧の上昇や筋収縮を招く。だから感情面は冷静でいられるよう心を静め、自分の周りの細やかな空気の流れを感じられるほどに繊細で穏やかな状態になればいい。

感情の暴走を許さず、呼吸を整え、何かを感じる「感覚」を大切にする。

「心静用意」
(シンジンヨンイ)という言葉がある。

心を静め、意を用いる


太極拳を稽古するとき、感情の高ぶりの赴くまま「ヤァヤァ!」と勢いづき、突っ込んでいくような力強い動きはしない。

興奮状態にならず、不必要にアレコレ考えず精神を安定させ、副交感神経優位の状態を保ち、「意識下で体内の気を巡らす感覚」を大事にしながら動く。そうして五感を研ぎ澄ませ、周囲の気配を読み取るように鋭敏な感覚のまま動く。

1つの型をしつこいくらい何度も繰り返し、それを何年も続けて稽古していけば、その型はいつしか完全に体に馴染み、頭で何も考えなくても勝手に体のいろんな部分が連動して動けるようになる。

どこにも無駄な力はなく、脳内もフワッと軽い。そんな状態で套路ができれば稽古中、体も心も軽くなり、軽くなった分、感情も揺れず、稽古終わりには何とも言えない充実感だけが残る。

一方、相手と組む場合でも同様の感覚をキープできるのか。

私は推手の経験が乏しい方でレベルが低く、目の前に自分より大きな体の人が立ちはだかったら、どうしても神経の高ぶりを抑えきれない。そして無謀にも、「相手から押されるくらいなら、こっちから相手を押したい!」と思い、失敗を繰り返す。

私のように煩悩が出てしまうのは修行が足りていない証拠で、聴勁どころではない。このような課題を克服するには、稽古の年数を重ね、修行を積んでいくしかない。


副交感神経優位


反復練習の末に起こる一体化の感覚


ところで私は昔、ピアノを無に近い状態になって弾いたことがある。私が弾けるレベルの簡単な曲ではあったけれど、とにかく何度も繰り返し練習した曲を弾いていた時のこと。

その曲は楽譜を見なくても暗譜しており、鍵盤をジッと見て追いかけなくても、自然に手が動くほど練習していた曲。

弾いていたその時、自分が「ピアノを弾いている」という現実さえ意識下になく、「どうやって弾こうか」なんて思いも一切なく、手と体が勝手にスムーズに動き、黙々と弾いた。



ピアノ



あのとき、何というか…ゾーンに入った!


何もない空間に鍵盤と自分だけ。夢中になり、悩む事も一切なく、頭は空っぽになり、ただ弾くだけ。

感情は無く、体も腕も指も軽く、無駄な力はない。あるのは、ほぼ無意識の中の感覚的なものだけ。周囲の人から声をかけられ、ハッと我に返った。漫画のシーンみたいに、分かりやすく「ハッ」とした。

太極拳風に言えば、まるでピアノの鍵盤が自分に勁を感じさせてくれるような感覚だった。実際には私の方から鍵盤を触っているのだけど、決して「触るぞ!弾くぞ!」という意気込みは無く、余計な感情ナシで手指が鍵盤に触れ、鍵盤と自分の指が吸い付くように一体化する感覚だった。

こういった「反復練習の末に起こる一体化の感覚」は、ピアノであろうと太極拳であろうと同質のような気がする。きっと他の分野で
も、反復練習を凄い回数こなした結果、起こり得る現象だと思う。

太極拳をする上で「思慮」は要らない


そういえば数年前、推手を教えて下さっている方から、「相手に触れているとき、感覚で動くように。」とのアドバイスを頂いたことがある。実際、これは非常に難しい。単純かつ未熟な私は、つい頭であれこれ考え、拙い戦略を巡らせたくなる。

煩悩の塊のような自分の感情は、跳ね除けても勝手にやってきてコントロールしづらい。不出来な自分があまりにも空虚な存在過ぎて、なかなか感覚的に動けないもどかしさで遠い目になる。

未熟な段階にいると、無駄に考えを巡らし、悩む。その段階を通り越して行った遥か先に、感覚で動く境地が待っている。

太極拳は動く禅とも言われる。私は過去、何度か座禅会に参加したことがある。座禅のとき、体の内なるものを感じながら、ただ居るだけ。深く息をするだけ。それ以外、何もない。

座禅
座禅を組むことは「余計なものを捨て、雑念を払い、ブレない心を作ること」の訓練になる。まるで禅の境地に至るような、乱れない、ブレない精神で太極拳ができれば、どんなにか素晴らしいだろう。



コメント

マーライオンの太極拳 さんのコメント…
芸術は共通点があると思います。無心に打ち込めるものがあることは幸せですね。
タイチーマルゲリータ さんの投稿…
マーライオンの太極拳さま。

コメントありがとうございます(^^)

打ち込める事があることで、
もし深い悩みが人生の途中で起こっても、
心を整えながらやっていけそうな気がしています☺
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