便利なモノの影響

前回記事の続き。ネット時代になって感じてきた事を、さらに書いてみたい。


物質的な豊かさ、便利さと、ヒトの健康状態は比例するのか


もう何年もの間、電車に乗れば、首を45度以上、傾斜させ、背中を丸めて、携帯をいじる人が多い。あんなに首を圧迫した状態で、1日にどれくらいスマホを利用しているのだろう。


そういう姿勢になっている人の中には、若者がかなり多い。その人達の5年後、10年後の健康状態、大丈夫かな(余計なお世話と言われそうだけど)。


そういえば、私が住む市内では、以前ある小学校の児童がネットゲームにはまって、1日の半分ほどをゲームに費やし、不登校になったという問題が起こった。これは極端な例ではあるけど、こういうケースが増えてしまえば、「人間の将来、大丈夫?」と感じる。


ゲームを楽しむこと自体は、良いことなのかもしれないけど、1日に10時間程も費やすとは体に悪影響しか無いだろう。ヒトは機械や電子機器の便利さ、楽しさを享受するあまり、脳、肢体、感覚を伴うもの全て、最低限の範囲しか使わなくて済むようになった。将来、一切合切の人間の身体機能は急速に衰えるのではないか。


私は昔、従事していた仕事でPCを長時間使っていた。今も、請け負っている作業や、私生活で、スマホやPCはよく利用している。こうやって趣味のブログを更新するときもPCを使っており、当然、眼精疲労に繋がるので、決して体に良い事ではない。外出時にはスマホを持っていないと、何となく不安だ。結局、私も電子機器を頻繁に利用する生活に埋もれてしまっている。


PCを使う間、当然座っている。長く座るのは、体に良くない。気休めかもしれないけど、日々太極拳の動きを重ねる事で、「体に悪い座った時間を、運動する事で打ち消し、相殺した気分」に勝手になっている。


ちなみに私は、便利なモノは好きだけど、依存し過ぎないようにしている。気休めかもしれないけど、自分でできる最低限の事は、自分の手でやっていく。


前回記事で触れた様な配膳ロボットは、私は使わない。家電の遠隔操作も利用しない。今の自分には、そんな機能は要らない。もしかしたら中年世代だから、利用するのが単に面倒なだけで、食わず嫌い的なものかもしれないけど、無くても一切困らないので、「まぁいいや」と思う。


家電は、最低限の機能のものがいい。お掃除ロボットは随分前、出だしの頃に使った事はあるけど、結局、今はコードレスの細長い掃除機を使っている。冷蔵庫の機能に献立を決めてもらわなくても、自分の頭で適当に考える。冷蔵庫の中を自分の目で覗いて、中に入っている食材を適当に取って、適当に何かを作って、適度な栄養が取れればいい。


レシピなんか適当でいい。たまに味付けが濃くなったり、薄くなったりしても、味見しながら調味料で調整すればいい。失敗してこそ、「どの位の水分量に対し、どのくらい塩を入れればいいか」を調整して、感覚で分かるようになり、失敗しなくなる。そういうのは自分の手先や、自分の味覚でしか分からない。


冷蔵庫の中身をネット経由の遠隔操作で確認したり、ネット経由で賞味期限を管理したり、そんな機能も私は要らない。賞味期限の管理を冷蔵庫にやってもらう目的で、商品の画像や購入日をいちいちデータ入力する方が億劫に思える。


極端な話、人間社会、このままでは、「遠隔操作した自宅の家電群」に、「自分自身が逆に遠隔操作される」ような、おかしな世の中になっていくのではないか、なんて大袈裟な事を考えてみたりする。


スマホのアプリが、その人に似合う服、その日着る服をコーディネートする? 洋服の組み合わせは、自分自身で選んでこそ、お洒落の感覚が磨かれたり、季節を意識する感性が養われる。


冠婚葬祭でもなければ、少しくらい服選びに失敗してもいい。服選びに100%の正解は無い。ちょっと失敗したと思ったら、「今度は違う組み合わせにしてみよう」と、次から工夫すればいい。


その日食べるものまでソフトウェアが決めてくれる世の中。だけど人間には、自分がその瞬間「食べたい!」と脳内に浮かんでくる食べ物がある。


今の世の中は、何でもセンサーが反応したりして、細かい事は機械だのみ。洋式トイレの蓋が勝手に開く光景は、30年前だったら驚愕しただろうけど、今は外出先では当たり前。勿論、それが悪い面ばかりではなく、衛生面では良いと思う。ちなみに我が家のトイレの蓋は、手動です。


仕事や生活上の様々なシーンで、生成AIにいろんなアイデアを出してもらい、活用するのも悪くない。でもAIが提案したものを吟味するのは人間だろう。使える部分、使えない部分を仕分けする判断まで、人間不要となるものなのか。もしそうなら、未来の人間は考える事を放棄し、脳はどんどん退化してしまう。


AIが生成したものを、AIが吟味して、AIが発表して、AIが評価する、なんて世の中になったら、味気ないなぁ。AIは、いろんな分野で多岐に渡る活用ができる可能性を秘めている。事情があって長期間、社会に出る事ができなかった人の機能訓練などにも、大いに活用できるだろう。


ただ、人の活躍を脅かすような機能があるとしたら、それは人間の幸せの為にはならない。ヒトが便利さを求めて開発したものが、人間の存在を脅かすような事態になってしまうのであれば本末転倒だ。


ヒトは、他の動物よりも高度な脳機能を持って生まれたのだから、自分の脳をクリエイティブに活用してこそ、生きている醍醐味が味わえる。私は面倒臭がり屋で、いろんな事に手間をかけたくない。いろんな作業を合理化したい。だから便利なもの自体、否定はしないし、自分も便利に使っていきたい。だけど、「人が人らしく思考を巡らすこと」は放棄したくない。


精密な機械処理は必要だけど、それだけでは味気ない


人の欲求はとどまる事を知らない。便利なものを開発し、ヒット商品を出すのが企業。でも商業主義が行き過ぎて、何でもかんでも、「高い機能を持った機械・機器が処理します。」となると、人が人としての能力を低下させる事に繋がる。


人間は、自分達が楽をする事を覚え、その結果、脳や体を繊細にコントロールする事を、自ら手放す方向へ行っている。


感性を磨く。

感覚を養う。


これらは人として大切なことで、太極拳をやっているとその良さを痛感する。


伝統工芸の名人ならば、手先を器用に使って作品を仕上げるので、手先の感覚は衰えにくいだろう。伝統芸能の分野でも、例えば、野村万作さんが92歳という年齢で、現役で舞台に立ち続けられるのは、長年、探求心を失わず、舞台で動く事を休まず、生涯現役でいられるよう継続してこられたからだ。


医療に携わる方々や、料理の専門家なども、手先や体の様々な部位の微妙な感覚を駆使し、繊細な仕事をしていらっしゃる。もし近未来、そんな行為をすべて機械・機器がやってしまい、ヒトの手を必要としなくなったら、ヒトの心身の衰えは急速に進み、弱っていくだろう。


私自身、ネット利用歴は長い方で、眼精疲労などにさらされて仕事をしてきた経験はある。でも幸い、今は太極拳の稽古を通して、自分の感覚が豊かになっていくのを日々感じられる。


「自分の体の隅々まで意識しながら生きる」という感覚があり、腕を繊細に動かす、足裏が地面をどう捉えているかを感じ取る。脳はリラックスしているけれど、感覚はなるべく鋭く、かつ周囲の静かな気配を感じ、楽しむ。


人は、自然界に身を置くと、川のせせらぎや草花の香り、木々の揺れる感じ、鳥のさえずりなどを感じる。不思議な事に、太極拳の稽古では、室内にいても、そういった豊かな、自然界に身を置いているような感覚になる。稽古中は、室内に置いてある無機質な物体さえも、自然の中の一部である様に思えてくる。心が空間を漂うような入静状態に近づく。


太極拳をしない人だって、本当は、常にその場の空気を肌で感じているだろう。でもヒトは、仕事に追われたり、スマホばかり気になったり、日々の雑音の中にいると、そんな豊かな自分の感覚に気づきにくくなるかもしれない。


太極拳の稽古を長く続けると、何もない空間でも、空気まで意識するようになり、何もない空間にこそ、何かが存在するように思えてくる。深い呼吸を伴う動き、ゆったりした静かな動きは、まわりの気配まで敏感に読み取らせてくれる。太極拳を始めるまでは気にとめてなかった「自分がまとっている空気」、それをかき分けながら動く感覚が出てくる。


私はズボラなので、電子機器、家電を適度に利用しながら生活していくだろう。でも過剰に機械・機器に依存したくない。何事もほどほどに、が丁度良い。太極拳の稽古を通して、脳や皮膚などの感覚を磨くことは、ずっと続けたい。


動いてみる。空気に触れてみる。立ってスルスルと移動してみる。自分の感覚、感性で判断してみる。身体で表現してみる。自分の嗅覚や触覚を信じてみる。足裏にどう体重が乗って動いているかを感じ、理解しようとする。太極拳には、そんな特有の感覚を磨く素晴らしさがあり、これはAIには決して教えてもらえない事だ。自分の体を動かす事でしか得られない微細な感覚なのだから。


豊かになるって、どういう事だろう。便利な物に囲まれ、スピーディに物事が進む。でも、不便だった昔は、豊かではなかったか?と言われれば、不便な中にも心の豊かさはあったような気がする。不便だと、「自分で工夫し、便利に使ってみよう」と、試行錯誤をする。その過程は面白い。


今は、便利な機能が付いた家電、機器が沢山あり、それを使えるのが当たり前。その便利さにすっかり慣れると、ヒトは、「素早く、正確に処理できる事」が当たり前過ぎて、1分1秒でも遅ければ微妙に不満を感じるようになる。便利さに慣れ過ぎると、少しでも正確でスピーディな処理ができない時に、「ものすごく不便な物を掴まされた!」という気持ちになってしまう。



私自身も、生活上で焦る気持ち、はやる気持ちを持つことは勿論ある。でも幸い、それをいったんリセットする時間がある。それが太極拳の動きを楽しむとき。


普段の稽古が、私の精神面のリセットの時間になっている。便利だとか、不便だとか、速いとか、遅いとか、そんなものにこだわらず、ただ動くのをゆっくり楽しむ。日常の焦燥感があるとき、それを稽古でリセットできれば、何に対しても、「そういう事もあるよね」と、平穏に構える気持ちが保ちやすくなる。



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