「捨己従人」という言葉の本来の意味

人間には強引で滑稽な面がある

新聞やテレビの報道で、アメリカ大統領選の話題を見て思ったこと。二大政党のどちらが政権を取るかによって、日本も貿易、軍事など多方面で影響を受ける。でも私個人的には、どっち寄りとか、候補者の誰を推すとか、さして強い希望は無い。

選挙演説について思う。アメリカ大統領選に限らず、日本国内の選挙の時にもよくある事だけど、候補者の演説が、対抗馬との悪口合戦みたいになってしまう事がある。それで選挙戦が盛り上がるのならば悪口合戦は必要悪で、選挙の風物詩みたいなものかもしれない。

しかし本来、選挙はショービジネスのごとく盛り上がる為にやっているのではなく、自分の代弁者を吟味して選ぶ為のもの。だからショービジネス化する必要はない。でも実際には”政治ショー”をやった方が商魂たくましい人達が盛り上がり、マーケットまで大きく動く事がある。

街頭演説をテレビ報道などで見聞きしたとき、ライバルの人格批判ばかり、がなり立てるような演説は品がないと思える。人格を批判するよりも、対抗馬の政治信条を挙げて、「自分とは考え方が違う」とか、「自分は別のやり方で、世の中をこうしたい」と分かりやすく語れば良いのにと思う。俗っぽい表現での批判ばかりの演説は、言った本人の品格を下げるだけの行為に思える。

聴衆の中には、悪口でも何でも良いから、強い口調で何かを主張する候補者を、盲目的に敬愛してしまう人がいるのかもしれない。ちょっと過激な発言とか、そういうのを望んでいる人はいるだろう。でも、他者の批判ばかりを繰り返す人に、世の中を変える程のリーダーシップがあるとは限らない。

(たとえ悪口でも)大きな声で強さを演出する候補者の雰囲気に、聴衆側がのまれてしまうなら、それは強い口調で話す人の術にはまっているだけだ。人間は今も昔も、簡単にプロパガンダ的なものに影響される。

とにかく選挙の街頭演説で、がなり立てるように大声を張り上げ、眉間に青筋立てて他者の批判ばかり続ける人の話は、やはり聞く気が失せる。そういう人は、仮に当選したら実際には何をするのだろう。もし語れるようなシッカリした政治信条があるのなら、自分の理念、実現したい事を、紳士的に丁寧に語るほうが説得力が増すわけで、他者の批判に時間を費やす暇はないはず。

私が聞きたいと思えるのは、聴衆に向かって分かりやすく、「私達はこのような方向に進んでいきましょう。それには、私はこんな事をやります」とビジョンを示せる人の話。そもそも街頭演説は要るのか。関係者の安全性はシッカリ担保されているのか。また、街角の演説でわめき散らすような行為は騒音にしかならない。それから、候補者の選挙カーが点字ブロック上に駐車してあった、なんていう例も過去にはあったようだ。

昔と違って今はネット社会なので、動画サイトで淡々と真面目に政策を訴えるだけで良いように思う。ネットを一切見ない高齢者の方はテレビ視聴にすればいい。できれば今の時代に即したやり方で、お金のかからない、騒がしくない活動をお願いしたい。

他人に厳しく、自分に甘く、やたらと攻撃的、批判的な人は、どこにでもいると思う。世の中には悲しいかな、こんなタイプの人がいる。自分が言いたい事を主張するとき、自分の率直な意見を語る前に、まず別の人物を引き合いに出し、コテンパンにその人を批判し、そのあと自己を正当化する流れに話を持っていく人。

そのようなタイプの人は、いったん他人を落としてからでないと、自分の考えの正当性を主張できないわけで、話術としては子供じみている。きちんとした大人で、自分なりに何かを積み上げて揺るぎない信念を身につけた人は、最初に他人を落とす事をしなくても、人の心を納得させる力を持っていると思う。

雰囲気にのまれず冷静に判断したい

昔からよくある事で、国レベルでも、企業などでも、小規模な自治会などのグループでも、もし独裁的な人がいたら、その人が「自分が属する種ではない、仲間ではない」と判断したものを除外したり、迫害したりしがちだ。

自分の政敵を追い出す事そのものが目的の場合もあるだろう。また、心の中の劣等感や猜疑心が強いせいで、「気にいらないものを排除する」という行為が生み出される事もある。特定の人を批判する事でしか、自分を正当化できない場合、その人にとって脅威となるものや、自分の優位性を少しでも揺るがしそうなものは、とにかく批判して排除する方向へ持っていく。

本当に実力があり徳のある人は、もっと別のやり方でコトを運ぶだろう。まるごと周囲の人を受け入れ、適材適所うまく配置し、良い状態でチームワークを組んで、全体で仕事を進める。難しい事ではあるけれど、見せかけの強さではなく真の強さと信念を持っている人は、大勢の敵を作る事なく、周囲の理解が得られやすい。

テレビドラマの時代劇なら、民が年貢をおさめるのがしんどい、または生活上で困る面が出てくると、「お代官様~、おねげ~しますだ~」と懇願するシーンになる。昔も今も、政治家や官僚は、庶民の生活で困難な事象が起こると、懇願されたり批判される立場にまわるもの。汚職があれば、なおのこと批判が激しくなる。

でも、すべての官僚=悪、政治家=悪ではない。なかには本当に国の将来を憂いて、精一杯がんばって仕事をしている各分野の担当者もいる。だから、人を思想や職業でグループ分けしたとき、全てをひとくくりにし、「このジャンルの人は絶対こうだ!」、「やっぱり○○○○○ってこうだよね!」と決めつけないようにしたい。何かの分野に携わる人をひとまとめにし、勝手な思い込みで、そのグループ全体が善だ、悪だ、と極端に決めつけないようにしたい。

例えば、もし「今どきの若いもんは…」とか、「これだから年寄りは…」と言う人が周囲にいたとしても、自分がよく知りもしない事なら安易に同調しない。

若い人の中には、確かに、人生経験が乏しく、未熟な人もいるだろう。でも、それが若いという事。若い時分に何かが足りなくても、先の人生でいろんな経験をして学んでいけば、将来は大きく飛躍する。それが若者だと思う。最初から完成された人間などいない。若者は人生のスタート地点に立ったばかりなので、最初は未熟でも、将来、何者にでもなれる可能性を秘めている。

それに若者の中にも、未熟どころか、中高年顔負けの立派な志を持っている人、心優しく他者を思いやる心の広い人は大勢いる。だから「今どきの若いもんは…」と十把一絡げに決めつけず、その人の考え方や行動をきちんと見るべきだと思う。

高齢者の方についても同様に思う。なかには、年を重ねる程に我儘になってしまう人は確かにいるだろう。老化により若い頃より脳が萎縮し、判断力が乏しくなる人もいるだろう。でも、逆に徳を積んでいく人も大勢おられるのだ。年を重ねながら精神の修養を積み、勤勉で、謙虚で、優しく穏やかな人は大勢いらっしゃる。

「まだ若いから」とか、「お年寄りだから」などと、一概に決めつけない方がいい。相手の事をよく知らない状態で、最初から表面的な条件のみで、その人の人格まで決めつけてしまうのは良くない。

強引さより協調の方が、良い結果に繋がる

詭弁を連発する人がいる場合、それに簡単に流されることなく、聞く側の冷静な判断が求められる。何を判断するにしても、結局は、個人の裁量に寄るところが大きい。

例えば、自ら組織や人間関係の分断を引き起こしてきた人が、したり顔で分断というものを否定したとき、詭弁に騙されず、その人の行動を冷静に見て判断できるかどうか。

判断力、思考力は、長年の訓練でしか養えない。他人の独断的な言葉に惑わされて善悪が分からなくなるのは、長年の思考訓練の不足に寄るところが大きい。身を置く環境は大切だ。

また睡眠不足や疲労が重なった状態では、判断力が鈍る事もある。健全な心身を保ちつつ、物事を見る目を養う事、その為に学習を重ね、脳を適度に活性化しておく事が大切と思う。

過去の仕事や地域の付き合いなどを通じて、沢山の方々と交流してきた。そんななかで、稀なタイプではあるけど自己主張が強すぎて、他人の意見を頑として受け入れない人物もいた。

その人物は常に「自分こそが正しい!」という考えだった。他人と話をする時、視線をせわしなく動かし、大きな声で、他人を威嚇するような様子だった。物事の表面だけを捉え、自分以外の人は間違っていると決めつけ、自信たっぷりに物事を断言してしまう人。普段なかなか自分の意見を言えないタイプの人は、その人物の勢いに圧倒されてしまう。

強い口調に惑わされず冷静に話を聞けば、その人物がすべて正しいとは限らない事が分かる。ひたすら強い口調で他人を萎縮させ、何かと豪語する人物の意見は、よくよく冷静に聞いた方が良い。そうすると、その人物がハッタリというか、聞きかじったことを中途半端な理解のまま断言しているパターンがあると分かる。

そういう人物は大抵、勢いで物事を判断するから、他人から深く追求されたり、具体的な説明を求められれば、途端にしどろもどろになり、まともな議論ができなくなってしまう。単に誰かを論破したいとか、人より優位に立ちたいだけの人物とは、深い議論には発展しない。

その人にどれだけの引き出しがあるのか。ヒトは、自分のキャパ以上のものを引き出すことは到底できない。だから結局は、他人の知恵や意見を受容できる謙虚さが必要だと思う。

捨己従人」(舎己従人)という言葉がある。太極拳理論を学んでいると、よく出会う言葉だ。この言葉は元々太極拳の専門用語だった訳ではなく、孟子の中で既出の表現だ。これは、単に「己を捨てて」、「盲目的に人に従う」という意味ではない。

謙虚に、他人の良い部分を認めて参考にする。そうすることが良い結果を生む。相手に合わせ、同調し、付随していく事が、結果的に自己実現や、理想の社会、理想の環境づくりになる、そんな主旨の表現だ。

反目、反発ばかりしていても、虚勢を張っていても、何も生まれない。周囲との協調や、他人から謙虚に学ぶ事こそが前進に繋がる。自分の事も、他人の事も、全体を冷静に見渡して、他者と協調して行動できるのか。人間には、他のどんな生き物よりも、その能力があるはず。

虚勢



生き物の中で、人間だけが、国や地方などというものを作って、勝手に地球の中に沢山のボーダーを引き、その中で「いかに儲けるか」、「いかに人を従わせるか」に躍起になっている。

人間とは、脳が発達し、知能が高く、有能でもあり、その反面、地球上で一番、我儘で滑稽な生き物だ。建物で雨風は凌げるし、生活は便利だ。でも本当の意味で心が満たされ、世の中は快適なのか。

現代の人間社会は、厄介事や心配事などの不安が増殖している。戦争や紛争はその最たるもの。ヒトとは案外、粗野な生き物で、その中で個人はどうやって人としての品性を保つべきか、考えさせられる時代だ。

例えば環境問題について、真剣に考えることは確かに大切だと思う。でも環境問題を熱く訴える行為が、世界の名画にスープをぶっかける!という身勝手な行動に繋がる事には矛盾しか感じない。極論に走り、意図が歪められるのは、明らかに行き過ぎている。

今夏、パリでオリンピックが始まった。応援したいアスリートもいるし、テレビで視聴するのが楽しみな競技もある。でも、心の中でふと思う。華やかな祭典が行われる一方で、特定の国やエリアでは、紛争や戦争状態が続き、何の罪もない子供達が苦しんでいる。毎回のオリンピックにかかる何百億円、何千億円以上もの予算を、そんな子供達の為にぜんぶ使えたら良いのに!と思ってしまう。

日本国内でも、政治活動に莫大なお金をかけたり、大規模イベントや箱物に庶民が驚くような大金をつぎ込むよりも、豪雨や地震で被災したエリアの復興に、より多くの予算を使って欲しい。


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