ゼロになること
先天の気に関して言うと、生まれたとき潤沢にあったものが、亡くなるときにはゼロになるのだと私は思っている。ゼロになる体…という歌詞の歌があったのを思い出す(https://amzn.asia/d/8wUYZEt / https://amzn.asia/d/brJmUE8)。
後天の気は、生きて行くうえで、体を維持するために、体外から取り入れて補うもの。呼吸で酸素を取り込んだり、水穀、つまり食べ物や水分から、自分の生きるエネルギーを得る。それが気血となって人間活動のベースとなる。
高齢になって死が近づくと、生きるためのエネルギーの補給は、徐々に必要とされなくなっていく。そうしてゼロの状態へ近づく。
衰弱している人でも、死の前日、または当日まで、少しの食べ物を口にする事が可能な人もいる。それでも、高齢であるほど消化器官の機能は衰えてしまっており、死の直前に、数口でも食物を口から取り込んだとして、その食べた分の栄養を十分に体内の栄養として吸収し利用できるとは限らない。
子供の頃は、みんな体が大きくなって成長するし、基礎代謝も活発で、積極的に栄養を取り込んでエネルギーにどんどん変換される。若いと代謝力があり、細胞も元気に生まれ変わっていく。
しかし老いて死の間際にある人は、栄養をたくさん必要としていない。食が細くなり、最後には食べられなくなる。この世での生命活動の終盤になってゼロに近づくという事は、代謝力が弱まり、気血を巡らす要素が減っていくという事。活発に気血を巡らす必要は無くなってしまう。
今年亡くなった高齢の親族は、死の数日前、軽めに御飯を食べていた。亡くなる日、死の数時間前は、お茶を飲んだ。もっと前。死の数ヵ月前を思い起こすと、家族も心配し、「体力つけさせたいから、食べさせなきゃ」とか、本人に向かって「頑張って一日3食、ちゃんと食べなさいよ」と言う事もあった。
でも、本人が食べ物をあまり受け付けなくなっていたのだから、結局どうやっても、十分な量の食べ物は、口に入らなくなっていった。最後の方は、本人も、家族も、もう栄養価の事をあまり考慮せず、本人が「口に入れてみよう」という気持ちになる食べ物だけを、ほんの少しだけ食べていた。
ところで、知人の親戚の高齢者が胃ろうをやっていると聞いた。家族が会いに行っても、本人の意識は無いらしく、何の反応もないという。勿論、胃ろうをする、しないは、人それぞれで、家族単位でも考え方が違う。ただ、人間の尊厳とか、生きながらえる意味とは、どこにあるのだろう。
病気は治療しなければならない。でも、生物として死に向かおうとする時期、本当は何が本人にとって良いのか、よく分からない。「死にたくない、何としても生きたい」という強い気持ち。または、「自然に任せ、衰弱していくままに死を受け入れる」という気持ち。そのどちらも人間らしく、どちらも理解できる気はする。本人が意思表示できない場合、家族が決めなければならない。非常に難しい決断になる。
野生の生き物なら、衰弱して徐々に食べられなくなり、狩りもできなくなり、横たわって死を迎えるのだろう。でも先進国の人間には、高度な医療がある。いろんな病に対し、良い特効薬がどんどん開発される。そういう、生きながらえる手段がある。病気になっても治療ができるのだから、ヒトは幸せな生き物だ。
でも、自然の摂理に逆らっているようにも思う。本当は何が体と心にとって良いのか、生き物としての人間にとって、どんな晩年が1番幸せなのだろう。野生動物には無いこと、つまり治療を受ける、薬を飲む、手術をする等。人間やペット以外の生き物には無い選択肢がある。それが本当に幸せなのか、よく分からない。
私は健康で長生きしたいので、これから先、どこか不調が現れれば、積極的に医師のお世話になりたい。ただ、医学の進歩、治療法の選択肢の広がりはすさまじく、将来、晩年を迎える時にはどうだろう。自分がいつか最晩年を迎えるとき、自由な意思で、自然の摂理にのっとって医療を利用できるのか、全く未知数だ。もしかしたら、将来はかなりの医師不足になり、AI先生が自分の死に様を決める、なんて事になりかねない時代だと思う。
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