過剰な期待と幻想
「人生を変えるほどの何かが必ず見つかる! 凄いものを得られるはず!」という期待
これまで私が関わってきた稽古の場へ来られた方々は、ほとんどが中高年以上で、なかには持病のある後期高齢者の方もいらっしゃった。そのような方の第1目標は、何よりも、まずは毎週、稽古の場へ足を運ぶ事。そういった方は大抵、運転免許を持っていらっしゃらないので、悪天候の時などは、出かけるのが億劫になったり、80代以上の方になると雨の中、足元が危ない為、外出自体を躊躇してしまう事もある。だから、まずは安全面に配慮しながら、稽古の場所へ向かうことが第1目標になる。
80歳を超えて太極拳にチャレンジする方々は、上達はゆっくりペースでも良いので、まず仲間と共に過ごす時間を持つ事ができれば、それだけでも素晴らしい人に会う機会になる。高齢で病弱な方であっても、可能な限り外出し、人に会う機会を作る。気の合う仲間と会い、一緒に過ごす喜びを感じる。運動や、その他趣味は、人に会う良い機会となる。
太極拳を始める中高年以上の多くは、当然ながら「心身の衰えを防ぎたい。健康な体を維持する為に運動したい。」と、健康を意識して参加されるケースがほとんど。
ただ、別の目的、きっかけがあって参加する方もいらっしゃる。例えば、たまたま太極拳の動きをテレビや雑誌で見て、憧れていたという方。そういう方が実際に稽古を参加して、動きに心地良さを感じたり、教室の雰囲気が好ましいと思えば、そのまま通い続け、みんなの仲間になってくださる。それから、他の趣味、例えばコーラスなど発声を重視する趣味がある方が「姿勢を良くし、良い声が出せるように」と、太極拳教室に参加されたケースもあった。
そのほかでは、これは稀なケースではあるけど、こんな方もいらっしゃった。あるとき、崇高な理念を持った人が体験にいらした。太極拳の動きを体験する事で、「自分を高める確かなものを得る」という目的を持っていた人だった。
その人は、自分探しの旅の途中…といった感じで、「太極拳を体験すれば、自分の何かが変わる。確かな何かが得られるはず。人生訓を得たい。」という大きな期待をもって体験にいらした。なぜ、その人の中で、太極拳が「自分探し」「自分磨き」に直結したのか、細かい事情までは知らない。とにかく太極拳の動きを1~2度体験すれば、「新たな自分の発見に繋がる。」、「違う自分を見つけられる。」、「東洋の神秘に触れれば、己の在り方に変化が訪れる。」と、なぜか信じておられた。
当人の目的が何であれ、体験に来る方をこちら側が拒む事はないので、一緒に稽古を体験していただいた。その人が自己を高めたいと願い、人格形成を目指し、崇高な理想を持って来られた事は、もちろん素晴らしいと思った。日常をダラダラと怠惰に過ごすよりも、ずっと良い事だと思う。
ただ、私が思うに、太極拳には、少しの体験で、自分探しの旅の答えが見つかるような、夢のような即効性は無い。体験して即、開眼できるような自分磨きへの効果など、なかなか得られないと思う。気分が高揚し、自分をすぐ高められる幻想的な体験など、少しの体験では難しい。
稽古を一度体験したとき、運動した爽快感なら、すぐに得られる。ゆったりした動きに、初回から魅力を感じる人も多い。太極拳を一度体験する事で、良質な運動の機会が得られ、東洋発祥の独特の雰囲気に少しばかり浸る事ならできる。そんな、ちょっとした心躍る体験なら、1回や2回の体験でも可能だ。
でも、自分の生き方を模索している人が、自分探しの旅を成就させ、自己を確立したいとか、何かを悟りたい、という場合、膨大な学習と稽古の時間が要ると思う。少なくとも太極拳の心身への効果は、お湯を入れてすぐ食べられるインスタント麺の様に、即効で現れるものではない。
世の中には様々な考えの方がいらっしゃるし、人それぞれの想いがある。だから、他人の考えをあからさまに否定する訳にはいかない。ただ、私自身には、私の過去の経験から得た自分の想いがある。私の感覚では、少しの体験で自分探しの旅への解決策は見出せないと思う。
高い目標を持ち、自分の理念を掲げる事は、とにかく素晴らしい。でも自分の現状を変えたいなら、まずは地道な土台づくりから。地味な鍛錬を続ける事で、しっかりした自分の基盤を築いていく。そんな段階をすっ飛ばして、夢のように短期間で自分探しの旅の答えを得ることは困難だろう。
積み重ねた先に、やっと微かに見えてくるものがある
太極拳の稽古を通して「自分の心身が変化した」と実感できるようになるまで、長い年数がかかる。いや、太極拳に限らず、仕事にしても、趣味にしても、人との関係にしても、自分が経験した遠い先、膨大な時間をかけて努力を重ねた先に、やっと何かが少しずつ得られるのだと私は思っている。私は不器用で、何かをモノにするのに時間がかかるタイプなので、特にそう思えるのかもしれないけれど、手っ取り早く、少しの体験で、人生を変えるほどの何かを掴むのは難しい。
どんな分野でも、深く知らなければ、最初から悟りの心境に達することは難しいと思う。王宗岳太極拳論には「多誤捨近求遠 所謂差之毫厘 謬之千里」というフレーズがある。これは、本質を得ないままに武術の技を追い求める様子を揶揄したフレーズだ。このフレーズ。ヒトの人生経験や、心の在り方などにも通じる内容だと思う。
長い時間をかけ、自分の足元の土台をしっかりと築く事がまず大切であり、それ無しに、一足飛びに、はるか遠い理想を早々に手に入れようとすれば、結果的に、かえって己の理想から千里の隔たりを生んでしまう。物事の本質を知るには、短期間でササッと夢が掴めるような近道など、無いのではないか。
いろいろ試していくうち、努力を重ねていくうちに、「コレだ!」と思えるものに偶然出会えればラッキーだろう。でも、ほんの少しのチャレンジで、自分の精神の崇高な格上げができるのか。残念ながら、焦って近道を選んで、どんな分野にチャレンジしても、すぐに思い描いた成果が得られずに落胆するのではないだろうか。
少しばかりの体験による「自分探しの旅」への即効性が無かった場合、その人は失望する羽目になってしまうだろう。そして、自分の内面に、すぐに崇高な変化が現れなかった事で、今度は、それとは違う分野の何かから「手っ取り早く活路を見出そう」と鞍替えし、結果的に、「あれも違う。これも違う。自分には合わなかった…」と、いろんな事をかじって、どれも長続きしないパターンに陥るかもしれない。
太極拳に関しては、本当に、あきれるほど地味な稽古の繰り返しなので、ちょっと体験しただけで開眼したような、悟った心境になるのは難しい。本質を掴みたいならば、覚悟の上での長い継続が必要だろう。
少なくとも私が今までに経験した中国武術の稽古では、本当に地味な動きを反復練習するだけ。できなければ、同じ型を何度も、何度も、飽きるほどにやる。その日の稽古で上手くできなければ、当然、日を変えてやる。何度もやっていくうちに、時間が長く経過してから、やっと少しずつ自分の中に微妙な変化を感じるようになる。膨大な時間が経ってから、やっと、かすかに見えてくる景色がある。
そこからが、また長い。やればやるほど「できない自分」を感じる。その繰り返し。すぐに開眼なんてとんでもない。やればやるほど、かえって迷路に迷い込んで、何カ月も、何年も、もがく。それが稽古の過程であり、成長への過程だと思う。
そして、地味な動作の繰り返しには、ワクワク感も無い。ひたすら繰り返す動きには、華やかさは無く、面白味も無く、垢ぬけてもいない。静かに動けば心は穏やかになるけれど、淡々としたものばかり。長期的に、姿勢を整えて足裏の感覚を養ったり、腕や足の配置を調整したり、動作のスピードを微調整したり…と、とにかく地味に延々と続ける。
「数回の体験で確実に何かが得られ、自分は人生を悟る事ができる」とか、「太極拳にチャレンジする事は、自分の人生に大きな意味をもたらすはず」などと期待を膨らませても、すぐには期待通りの効果は得られない。
どんな分野でも積み重ねが大切で、将来、大きな目標に到達するには、初期の段階では、目の前の地味な作業を延々と繰り返すしかない。100人に1人くらいの天才的な勘の良さを持っている人は、すぐに精神面でも開眼し、早いうちから才能を開花させるのかもしれない。並みの人間ならば、地道な訓練こそが、その人をゆっくりと、徐々に高めていく。
1~2年目に分からなかったこと、できなかったことが、3~4年すると少し理解できてきて、10年すると次第に慣れてくる。10数年経って、理解が少しは深まるけれど、深まった時点で、また新たな課題が出てくる。そこからまた何年も、何年も、ひたすら迷いながら続ける。
最初に、わずかな「点」だった理解が、10年以上経って、やっと「線」になって繋がったような感覚になる。10年以上経って、「ああ、初期の頃に学んだこの事は、こういう意味だったのか」と、だいぶ時間が経ってから、やっと理解できるようになる。
例えば私の場合、太極拳の理論面を学びはじめて年月がかなり経過した。飲み込みの遅い私は、おそまきながら、ようやく最近になって理解が深まってきて、そして今、学ぶ事がおもしろくてたまらない。学ぶことに面白味は感じるけれど、現実はどうか?と言うと、自分の実力はついて来ない。入り口に立ったばかりの状態から、なかなか抜け出せないでいる。だから、早い段階での自己の確立とか、悟る…なんてとんでもない事だと思える。
理想の自分の確立のためには、陰の努力を長年継続する
失礼ながら、私はこう思う。ある分野の事について、全くまだ解っていない段階なのに、「〇〇〇を体験してみれば、自分の意識は高い次元へ行く。何かを悟る事ができる。」と思い込んでしまっている”意識高い系”の人は、自分の置かれた環境や実力よりも、遥かに理想が高過ぎるかもしれない。自分への万能感が強いのかもしれない。上手く立ち回れない現実と、理想の自分とのバランスが取れておらず、自分自身の現状把握について、現実とかけ離れている。
そうすると往々にして、自分の思い込みのまま暴走しがちで、他人の助言も響かない。自分の固執した考えでコトを進めてしまいがちになる。物事を表面だけしか見ないで、善悪を判断しがちになる。そして、「自分の崇高な想いは、必ず早期に実現できる。しかし自分の高尚な考えは、無気力で怠惰な他人には理解してもらえない。」などと、自分が他人より遥かに高い意識を持つ人物だと思い込み、集団の中に身をおいても浮いてしまうかもしれない。
勿論、自分探し、自分の格上げにいそしむこと自体、人生の無駄にはならない。でも、まだ何も知らない段階で、安易に、「コレをやれば必ず自分を高められるはず」と決めつけ、心が高揚してしまう事に対しては、少々危うさを感じる。
理想ばかり高くなってしまう人や、自己顕示欲が強い人は、口には出さずとも、周囲の人間よりも、自分の方が「特別な存在」で、「自身は悟れる人間なのだ」と別格扱いする空気をまとってしまう。「崇高な理念を得ようとしてる自分は、並みの他人とは違う」、そんな空気感をまとう。そうなると、どんなグループに入っても浮いたり、空回りしてしまう。結果的に、自分の思い通りに「悟り」が得られなかった場合、他人や環境のせいにしがちになる。「自分の崇高な理念に、周囲の方がついて来られなかったのだ」という考えに辿り着く。
若気のいたりという言葉があるように、特に若い世代ならば、人生の経験値が低く、空回りしやすい時期があるかもしれない。経験値の低さ、若さから、自分に限界がある事を知らず、そのせいもあって、心の高ぶりや思い違い、微妙な判断ミスをしてしまいがちになる。若さとは元来、素晴らしいもの。反面、無知や経験不足からくる恥ずかしさも付いてまわる。勿論、その事が、貴重な人生経験に繋がり、失敗や失態を重ねながら成長していく事になる。
正直言うと、私自身が、かなり若い頃、そういう傾向にあった。常に「自分を高めるべき」という意識に囚われて生きていた。若かりし頃は、その思いがずっと空回りしている状態だった。若さには無限の可能性があり、その可能性を最大限に引き出すべく「自分を高めるべき!」と過剰なまでに強く思い、そして、「向上心が無ければ自分は終わってしまう」と考えた。それに、のんびりした友人や周囲の大人を見たとき、傲慢にも、「向上心が無い人は、怠惰な人だ」と心の中で決めつけていた。
何に対しても、「前進あるのみ。立ち止まってはいけない!」と、あきらめる事を怖れた。そして、何か1つの事を始めたら、「必ず確実な何かを掴まなければならない!」と思い詰めていた。まじめ過ぎたのだ。
幸い、今の私は、立派に(!)年齢を重ね、中年となり、別の意味で悟る事ができた。「自分には限界がある」と。体力、気力、知力、すべてにおいて、人間としての自分には限界がある。限界があり過ぎる。年齢を重ねた事で、嫌というほど、その現実を突きつけられる毎日となった。
だから今は、その時々で、焦り過ぎず、少しずつ積み重ねていくしかないと思っている。急に人生を悟る…なんて高尚な事はできないのだから、無理はしなくて良い。苦手な分野は手を抜いたっていい。頑張り過ぎて疲れてしまうよりも、たまには人の手を借りても良い。今はそう思える。
また、一見、怠惰に見える人でも、心の中では必死に生きる事にあがいているかもしれないと思える。他人の精神面の深いところまでは、なかなか分からないものだ。他人には他人のペースがあり、どう立ち回るかは、その人自身が決めるもの。他人の存在を尊重しなければならない。その人にはその人の、自分を知るための段階や、自己確立に辿り着くタイミングがある。自分には自分のそれがある。自分は不器用だから、瞬時に何かを得て悟る事はできない。だから継続は力なり…を励行するしかない。
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