ニセモノは無いが、正しくない事はある
悪い癖と良い癖
太極拳の動作について言うと、それぞれの指導者の癖が出る事はある。また、理論内容の受け止め方にも、指導者によって解釈に微妙な違いはある。指導者の習熟レベルによっても、いろんな解釈、受け取り方に差異が出る事がある。こういうのは太極拳に限った事ではなく、きっと、どんな分野にも言える事だろう。
太極拳では、どう動くか、どう手足を配置するかといった事の中に、隠れた理屈がある。もし動作に人の個性が表れた場合、その個性が滅茶苦茶で粗っぽいものなら、他人にとっては何の参考にもならない。
もし個性ある動きの中に、きちんと裏付けとなる教えが隠されているなら、その場合は参考になる。癖があるようでも、実はきちんとした理にかなった動きであれば良い。少しばかりその人の持ち味が出てしまっても、理屈に叶った教えを踏襲している動きなら、他者からみて見習うべき面は多いだろう。
ただ単に荒々しく、理屈や教えを完全に無視している場合、それはただの悪い癖となる。大切な要素を無視した変な癖は、容認せずに正しい方向へ修正しなければならない。
遥かにレベルが高いベテランの指導者がおられる場合、その人の動作に出る個性には、積み重ねた経験から来る独特の風格、重厚さが見て取れる。それは、長年の稽古と苦学の末に醸し出されるものだ。自分勝手に動く変な癖とは全然違う。
「足をこっちに向けますよ」、「手はこの形にして、こっちへ出しますよ」というのは、初心者の方が学ぶとき、とても重要な事だと思う。しかし、既に専門性をそこそこ身に着け、指導者の域に足を突っ込んだ人の場合、当然それだけでは足りない。
「なぜ、そうなるのだろう」、「なぜこういう動きをしているのか」、それを少しずつでも理解していきたいものだ。丁寧に人に説明できるよう、勉強を重ねていく。そうすれば、そこの稽古場では、指導する側にも、指導を受ける側にも、信頼感や安心感が生まれ、稽古内容が充実する。
指導者側は、アウトプットによって頭の整理が徐々にできるようになる。指導を受ける側は、頻繁に、そういうことか!と閃きを感じ、充実した中身に触れる事ができるようになる。
指導者の場合、当たり前に、考えや根拠を丁寧に説明できる事が理想だと思う。しかし、それは大変難しく、その為の努力を怠ってはならない。難しい分野なら、迷いはゼロにならない。ゼロにはならないけれど、よく学べば、迷いは徐々に減っていく。理解する努力を続ければ、だんだん適切な判断や解釈を導く事が可能になってくる。
ある人にとって最適、最善のものは
その人にとってのホンモノ
動きについて、それが「本物であるかどうか」というのは、実は誰にも判断できない。なぜなら「ホンモノがどういうものか」という価値基準は、人によって違うからだ。
人によって判断が違うのなら、ホンモノ、ニセモノなんて、ほぼ無いとも言える。指導者や愛好団体の存在に関しては、ニセモノ、ホンモノなど無いようなもの。誰かがニセモノと思うものでも、他の誰かにとってはホンモノと思える事があるからだ。
「どこまで学ぶか」、「どこまで深めるか」、「どれを信じて、どの分野にチャレンジするか」は、それぞれの個人や団体の自由であり、その人が信じるものを選択すれば良い。第三者が騙したり強迫でもしない限り、他人がとやかく言う問題ではない。その人が打ち込んで懸命に取り組めば、その人にとってのホンモノに近づいていく。
ホンモノ、ニセモノは無いと言えるけど、「無理な動きをしたら膝を傷める」というような、明らかな身体操作の過ちのケースはある。そのような観点で言うと、確実に「正しいか、正しくないか」というのは現実にある。太極拳について言うと、膝や腰を痛めるような誤った動作は正しいとは言えず、避けるべき。
また、健康法として行っている場合でも元は武術なのだから、人と対峙する際に「どう動いて、自分有利な展開を導くか」という大切な動きの要素はついてまわる。套路は、ただ動けば良いというものではなくイメージも大切で、まるで相手がいるようにイメージして動けば上手くなる。
実際に相手と対峙するという事に関しては、万人に共通する100%の正攻法が探りづらい。なぜなら、体格、性格、筋力、癖、すばしこさ、鍛錬を重ねた年数など、人によってバラバラだからだ。
誰にでも共通する大切なセオリーは確かに存在するけれど、100%画一的な正攻法は無いに等しく、体格、気質など個性によって微妙な違いは出る。小柄の人の戦法が、大柄の人のそれにピッタリ当てはまらない事もあるだろう。
護身術として技を使うにしても、筋肉量の少ない女性の体と、ムキムキの男性とでは、たとえ正しい理屈が前提にあるとしても、細部は繊細に変わる。それから、案外、考えなしに、滅茶苦茶な感じでワーッと焦って動いた人が、熟練の技を持つ人を打ち負かす事だって現実にはある。
もし達人を自称する人が、華麗で繊細な技を追求し、高いレベルになったとしても、その人が、自分とは強さの基準が全く違う相手と対峙すれば、戦いづらくなり翻弄されてしまうかもしれない。
真の強さと高いテクニックをもってしても、そして、たとえ自称ホンモノであっても、他の誰かにとってはニセモノと判断されてしまう事だってあるかもしれない。
昔々、私がテニスをやっていた頃のこと。テニス仲間の中にそこそこ強い人がいて、その人はスピードストローク勝負に強く、試合でも負け知らず!という勢いがあった。
でも、ある試合で、やたら回転の効いた深いボールを、何度も、何度も、しつこく打ってくる相手に当たってしまい、仲間は得意とする要素、テンポを見事に崩され、その相手に負けてしまった。
仲間は、スピードや足腰の強さでは相手に勝っていたけど、あまりにも戦い方の違う選手に出会ってしまったのだ。腰や腕でボールをしっかり捉えて回転をかけるのが抜群に上手い選手に、翻弄されてしまった。仲間はその時まで、自分と同じようなスピード勝負が得意な選手向けの対策は練っていたが、異なる戦い方を得意とする相手への対応の術を養えていなかったのだろう。
そんなふうにタイプの違う相手に出会ってしまえば、自分の新たな課題が見つかる。そして、新たな課題克服のために、たゆまぬ努力を続けていくしかない。
そうこう考えてみると、どんな分野においても、誰にでも当てはまる100%有効な正攻法、100%有利な展開というのは無い気がする。テニスうんぬん、武術うんぬんの問題だけでは無く。他のどんな分野でも、そういう事は言えそうだ。
人の生活や仕事に関しても、同様の事は言えると思う。資格を有する職業や御稽古事はあまたあるけど、「資格があるからホンモノ」、「資格がなければニセモノ」とは言い難い面がある。特定の分野で、無資格の人の方が、有資格者よりも実力が勝っているケースは現実としてある。変なたとえだけど、家庭料理と、ミシュラン格付けを得た有名シェフの料理は、どちらも素晴らしく美味しく、比べようがない。
そういえば、かなり昔に読んだ渡辺淳一さんの小説にあったストーリーで、医師免許を持っていない、いわゆる偽医師がいるという設定の話があった。その偽医師がとてつもなく手先が器用で、ことごとく難しい手術を成功させる凄腕の偽医者という設定だった。渡辺淳一さんご自身が医師だったので、こういう医療もののストーリーは本当に読み応えがあったと記憶している。
よく考えたら、古い時代は、国家資格の医師免許なんて無かったはず。資格や免許というのは、あくまでも成熟社会になって設定されたもの。大昔は、師匠に医術を学んだ人のうち、腕が良い人は口コミで評判を呼び、そこへ患者がこぞって治療に行っていたはず。
今の成熟した人間社会では”免許無しの偽医師”はあってはならないし、怪しいマガイモノを排除する為には、免許・資格制度は重要なもの。しかし免許や資格を取得する前の段階で、すでに深い学びを経て、高い技術や能力を身につけている見習いの人はいる。また、有資格者のすべてが、一心に、懸命に、高い技術を提供しているかどうかも別問題だろう。
私は過去に、どうしようもなく手先が不器用な歯科医師に遭遇した事がある。普段診てもらっている女性の歯科医師が産休をとっておられたとき、一時的に代替で入った歯科医師に診てもらったのだ。この替わりの歯科医師は、ひどく手先が不器用だった。説明もおぼつかなく曖昧だったし、歯科医師なのに手先が不器用とくれば、患者は自分の歯を任せる事がひどく不安になるものだ。
資格や免許制度が存在する分野については、それらを保有している事が最低限の活動の為の条件であり、免許や資格の有無は、サービス等を受ける側の安心材料になる。しかし、有資格者にもレベルの違いや、親身になってくれるかどうかの人格の違いなどはある。
同じ資格を持っている人が複数いても、それぞれ活動する際のスタンスが違い、受け取る側からの印象も変わる。受け取る側のコンディションによって印象が変わる事もある。
いろんな条件、背景の違いから、「誰かにとってニセモノ」と思うものが、「他の誰かにとってホンモノ」と感じる事はあるし、逆もある。自分の状態、相手の状態、置かれた環境、利用するものや学ぶ内容によって、受け取り方は変わる。
誰かにとって「浅いレベルのニセモノ」と判断されたものでも、全く別の人がそれに触れたとき、「今までになかったホンモノに出会えた」と思う事もあるだろう。主観となる人の立場によって、ホンモノとニセモノが入れ替わる事はあり得る。だから、世の中に絶対的なホンモノ、絶対的なニセモノは無いと言える。ただ、明らかに「正しくない事」については、やはり修正していくしかない。

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