中庸について

偏らない


中庸という言葉がある(過去記事参照)。中庸とは、簡単にいうと偏らない状態。中庸は1つの単語としても存在するし、古い書物の中には「大学・中庸」のように、書物のタイトルになっているものもある。「大学・中庸」なんかは、もともと儒教の書として為政者のあり方を導く類のもの。しかし中庸という言葉は、他のいろんな分野においても大切なテーマ。伝統医学、太極拳の分野などでもポイントとなる概念。

陰陽思想や、中庸などの概念は、言わずと知れた古代中国からある概念で、万物のあり方を示す哲学的な言葉。ただ昔の北南米の文明にも、完全一致ではないけれど、陰陽思想と似たような考え方があったらしい。「宇宙も含め、すべての世界全体が1つある。そして、その1つの事象の中に、相反するものが存在している。その相反するものは、ずっと循環し、この世が成り立っている。」、そんな考え方があったのだとか。

北南米大陸の文明は、昔々、外界からほぼ遮断されて形成されていったと聞く。スペインに征服されるまで、欧米やアジア文明の影響などをあまり受けずに社会が形成されたようだ。それでも古代中国の陰陽思想と類似した考えが既にあったのならば興味深い。国境、民族、河川や山岳の様子などが違っていても、人類は似たような思考になるのかもしれない。

中庸という言葉は、人間活動すべてに関わるもので、「ほどよい、基本的な、偏らない、無理のない状態」である。医学、人生哲学、政治学など、すべての分野に当てはまる大切な概念。中庸を保ちたい場合、何事においても偏らず、「極端な方へ向かわない事」を意識する。俗な言い方をすれば、「偏らず、まともである事!」。

「偏り」というのは、精神面にも、体の状態にも存在する。自分の心身の在り方や行動自体が、ごく自然で、真っ当な状態にあるのが理想。そして「誠」(真)の状態を探った先にある「ほどよい自分の状態」が中庸。今の私には、中庸をより深く理解し、自分の言葉で説明するのが難しいが、少なくとも、中庸は「ド真ん中で硬直している状態」ではない事だけは理解しているつもりだ。太極拳に関してのみならず、人生哲学や身体論としても、中庸をもっと、徐々に、理解できるようになりたい。

中庸を理解するには、中庸ではない「極端な偏った状態はどんなものか?」を理解しておく必要があると思う。「意識、形などが、極端に偏った状態にある自分」がいる場合、自分の意識や立場を整えて、真っ当な方向へと軌道修正していくのが理想。「偏った状態にある、いびつな自分」を感覚的に知らなければ、「まとも」な中庸の状態がどんなものかも理解できない。

太極拳に必要な中庸の概念


太極拳理論を学んでいけば、「偏らない」という表現が理論書などに頻繁に出てくる。

太極拳で大切なのは、

・体のどこにも突っかかりが無く。
・精神的にも行き詰まった感じが無い。
・柔軟性のあるスムーズな状態。

心身の両面で中庸の感覚がつかめるのか? 中庸を感覚で分かるには、陰陽の概念まで意識する事が太極拳のキモと言える。

俗に、太極拳のシンボルマークなどと言われる陰陽太極図は、陰と陽に分かれている。ただし、分かれていても、全体をトータルでみれば、ほどよく均衡の取れた中庸の状態と捉える事もできる。太極図の中心部がピンポイントで中庸なのだという見方もあるし、陰陽バランスの両方を含む全体図が中庸だと捉える事もできる。

特定の要素、たとえば姿勢に特化して考えるとき、立身中正は中庸の要素と言える。でも決してコチコチに固まった状態が中正ではなく、「流動的な中で、ほどよい中正を追求する事」が必要だと思う。精神的な事にも言える。緊張したら駄目だけど、気力が萎えても駄目。体も、張り過ぎは駄目で、フニャフニャも駄目。体にも、心にも、芯はあるが、不自然に硬直してはいない。

有名な太極拳論などに「陰陽とは何か」を知る過程が重要だと記してある。太極拳では、陰陽虚実の配合バランスを「感覚でつかむ」事が大切。虚実とやらを知るには、「虚実を分かつ分岐点」の状態を感覚でつかむ必要もあるだろう。思うに、その分岐点というのは決して固定化されておらず、流動的なものなのだろう。なぜなら、体も心もずっと変化しているから。

流動的な中で、中正の要求を満たすのは難しい。変化していく陰陽バランスの中では、中庸の在り方も常に変化を伴うものだと認識する。動くときの重心移動ひとつをとっても、常に変化しており、ある意味「偏り」がある状態である。その偏りがある状態を、無理な偏りではなく、「偏っているのに偏っていない、スムーズな動作が可能となる中庸」をめざす。

変化する中庸を据えるためには、自分と周囲の状況を常に俯瞰して冷静に捉え、「全体像をみる余裕」を備えておきたい。結局は、精神面にも、身体にも、余裕が必要なのだ。余裕の構えで、中庸と陰陽虚実のバランス両方を、感覚で理解していく事が上達への道となる。

中庸と陰陽虚実は、対照的、対比されるものではなく、「共存すべき概念」だと思う。双方をどう感覚的につかみ、柔軟性をもって捉えていくかが課題となる。中庸、陰陽虚実の両者は、「感覚的、思想的な面」と「物理的な面」の両方に及ぶ概念。だから中医学や太極拳など多方面で重視される言葉となる。

精神面でも、身体面でも、「自身の心身の、あらゆるところ、ほうぼうの虚実の配合ぐあい」を理解するには、中庸がどんなものか?を感覚で理解しないと、陰から陽への移り変わり、分岐点がどこにあるかも分からない。「どうやって自分の置かれた状況を調整するべきか?」を探るとき、陰陽、中庸の事を感覚的に解らなければ、そこから成長したり進歩したりできない。

また、こういったものは、文字上で、言葉として理解できても、感覚で理解できないと意味はない。そのための鍛錬を続けるのが、太極拳のいろんな修練過程となる。極端に言えば、太極拳では動く順番を覚える事が重要なのではなく、「陰陽や中庸の概念を、体と脳、両方の感覚でつかむ事」、それこそが重要な事だと思う。これを理解したい場合、学びはずっと先、老人になっても続いていくだろう。

大袈裟だけど、太極拳について学んでいくと、多少なりとも、人生観や、日々の生活の中の心理状態に変化が出てくる。それは、動く順番を覚える事だけでは得られない。また、幅広くいろんな事にチャレンジするよりも、少ない事をとことん、しつこく何度も続ける事で、自分の微細な感覚の変化、機微が少しずつ分かるようになる。心静かに鍛錬を続けていく。何度も何度も同じ事を繰り返す。時間をかけて得られる感覚的なものを大切にする。それが太極拳の良さだと思う。

虚実は絶えず変化する。この「虚実が絶えず変化する事」と、「虚実のどちらかに極端に偏る事」とは全く違う。不偏不倚。偏らない事の大切さ。不自然に寄り掛かるような力みがないこと。硬直せず、自然でいること。

太極拳の「偏り無く…」は、本来、捨己従人を意識する大切さと繋がっている。相手と対峙する場面では、臆しても、行き過ぎても、どちらも駄目。推しすぎても、引きすぎても駄目。中庸の感覚を得ない事には失態を繰り返す。

相手の出方によって右往左往するのではなく、自分が「軽快に、千差万別の変化が可能な状態」でいられるのか。それには、自分は無駄に、極端に偏ってはいけない。不自然に寄り掛かってはいけない。身体的にも、精神的にも、緩やかな落ち着きが必要だ。瞬時に、どんなふうにでも感覚で動けるのが理想。

太極拳に限らず、対人関係、請け負っている仕事等々、すべてにおいて、何が、いつ、どう自分に向かって来ても、たとえ困難に見舞われても、「意識も体も、どうにでもスイスイ対処できる!」、そんな自分でいられたら理想だろう。捨己従人の考え方のもとでは、我先に!という精神は捨てる。だからといって、極端に引いたり、他人に譲って遅れてしまうのもよくない。絶妙な心身のバランスと柔軟性こそ、中庸を知ることで得られる感覚なのではないかと思う。
中庸


コメント

随筆太極拳 - にほんブログ村

↓ Amazonサイト《太極拳》関連商品