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10年という歳月

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何もしなければ、何も無い 10 年になってしまう ある“和”の習い事をしている知人が、「ある程度、自分にもできるようになった、少しは分かってきた…と思えるまで 10 年かかった。」とおっしゃっていた。 10 年という年月は、何かを身に付ける為には決して長くはなく、必要な期間だと私も思う。 昔、子供の頃ピアノを 10 年間習った経験がある。子供時代に懸命に弾いた曲は、ブランクがあっても、中年になった今でも、下手なりに未だに弾ける。継続は力なり。何年もかけて体に馴染ませたものは、そう簡単には消えない。 私は不器用で飽きっぽい人間だけど、なんとか辞めずに太極拳の動きを 20 年やってきて、近頃やっと軽さ、柔らかさ、体勢によって出現する独特の体の張りを感じる日が増えてきた。振り返ると、稽古を始めて 10 年目あたりで、何か自分の動きが変わったような気がした。 20 年という経験は、決して長くはない。私はいつまでも未熟で、半世紀ほども頑張ってこられた遥か上のレベルの大先輩方に追いつくことは今後も絶対に無い。なぜなら何十年も頑張ってきた大先輩方も、更に上達を目指して日々努力を重ねていらっしゃるからである。 だから私はいつまで経ってもヒヨッコの域を出ることなく、おそらく一生到達することの無い満足な状態に少しでも近づけるよう、遠い目になりながら練習をする。だからこそ、この道を進むのは面白い。 中国武術というのは専門性に奥行きがあり、太極拳1つをとっても、学んでも学んでも決して知識が満ちることがない世界だ。 私の場合、太極拳を始めた理由は怪我のリハビリの為だったので、理論を追求したいなんて最初は微塵も考えてなかった。継続していく中でだんだん好奇心が湧き、単純に「太極拳のことをもっと知りたい」と思うようになり、そんなこんなでボチボチやってきて、ようやく 20 年経ったところだ。 簡単にできそう!…は幻想 私は道具(武器)を持たない太極拳の動きを健康法として長く続けてきたが、それとは別に、棒術(棍)も日々稽古している。 棒術の方は、真剣に稽古を始めてから数年しか経っておらず経験が浅い。おまけに恥ずかしながら稽古量が十分ではなく、苦手な型は当然のようにスムーズに行かない。棒術で新しい套路や型を学ぶときなんか、自分でも飽きれ笑ってしまうほど四苦八苦している。 実は以前、上手な先輩の棒捌きをみ

引き算の美学

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不要なモノと雑念にサヨナラする 無駄を無くすことについて、今回もまた書こうと思う。 太極拳から全く話がそれるけど、私は子供の頃から安全地帯の曲をよく聴いていた。大人になった今でも、ごくたまに玉置さんがテレビ出演される時には観るようにしている。 以前、玉置さんが出演番組で語っていらっしゃったのを聞いた。→ 若い頃は、ビブラートを思いっきりかけて高らかに歌い、「どうだ!俺って上手いだろう!」と思いながら歌った事もあった。でも年齢を重ねていろんな事を乗り越えてきてからは、過剰にビブラートをかけずシンプルな歌い方を意識し、今の自分が思う、自然で詞に合う歌い方で良いと思えるようになった、ということだった。 それから、これは別の人のエピソードで、かなり昔、ある女優さんの発言で印象に残ったものがある。 その女優さんはひと昔前、写真集を出版したり、ファッション雑誌によく出ていた。当時、いかにも高級志向で、身に付けているモノすべてが高価格帯のブランド品、愛用の化粧品も一流ブランドの高額なものを雑誌等で紹介していた記憶がある。 ところがその女優さん、派手で奇抜なファッションやメイクを一通り経験した結果、「行きついた先はナチュラルメイクだった」と語っていた。 最近はテレビ等での露出が減っているので、今どんな趣向なのか知らないけれど、とにかく派手に自分を演出し、ふんだんにお金もかけるような経験を一通りしたあと、結果的にシンプルなものの良さを痛感するというのは、誰にとっても良くある事だと思う。 たくさんのモノに囲まれて生きてきた人々が断捨離を積極的に行う様子なども、どこか似たようなものだと思う。 勿論、ファッションや音楽、インテリア等には好みがあるし、年齢層によっても楽しみ方は違うと思うので、どんなものが良いと一概には言えない。 ただ、特定の分野で一流と言われる人達をみると、玉置浩二さんのビブラートのエピソードもそうだし、それから隈研吾さんの木のぬくもりのある建築物なんかも、結局そういう事なのかな…と勝手に思っている。 鉄筋コンクリート中心の前衛的な建築物から、木材を中心としたものに回帰するというのは、スタイリッシュで目を引くカッコ良さの近代建築よりも、むしろ環境に配慮できる自然素材、シンプルさが良いと思える、人間にとっての原点回帰の思考かもしれない。 ネットサイトで隈さんのインタビュー記事

必要なものを取捨選択する

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無駄を捨てるまでの道筋 前回記事で、“軽さ”について考えた。では習練を積むと、なぜ軽くなるのか。それは「本当に必要なモノが何なのか」が分かり、無駄を削ぎ落とす事ができるから。無駄を削ぎ落とすことについては、再三このブログで書いてきた。 猫のごとく自分の気配を消すように、軸を定め、地面に足裏を付けて立ち、大袈裟な動きや馬鹿力を捨てる。無駄が無くなると、動きが軽くなり洗練される。動きの軽さを実現するには、自分が長い期間をかけて身に付けてきた過剰なもの、頑固なこだわり、無駄な力を捨てる。こういったことは何も太極拳の世界に限ったことではなく、いろんな分野で言えることだと思う。( 過去記事参照;書道のケースなど ) どんな分野でも、学びの初期~途中段階では、勉強して、練習して、たくさんのモノを吸収し、まるごと自分のものにできるよう、努力しながら多くの知識や技術を叩き込んでいく。 最初はとにかく地道な積み重ねが大切で、それには自主練など自分自身の努力が必要なのは勿論のこと、知識が豊富な先輩や専門書からも貪欲に学んでみる。いろんな事を吸収し、取り入れ、考えながら実際に動いてみる。そうやって何年もかけて学ぶ。 そして、かなりの年数が経ち「たくさんの事を得た」と思えたとき、やっと初めて、「では、本当に必要なものは何なのか?」の判断が付くようになる。 「自分にとって本当に必要なもの」の判断がつけば、「何が無駄なのか」もおのずと明確になる。 何年もかけて学び、たくさんの事を習得しなければ、「無駄を捨てる準備段階」に入ることはない。 その道で学んだ経験がない人、稽古や訓練が継続できなかった人には、「どれが無駄なのか」の細かい判断はできないということ。結果として取捨選択できず、余計なモノや、要らない考え、不要な動きが凝り固まって捨てられなくなり、センスが磨かれないまま過ごすという非常に勿体ない時間の使い方をしてしまう。 個性と癖は違う 学びの最中には、師や先輩方の言葉を素直に聞く思考の柔軟性も必要で、経験が浅く必要なものをまだ取捨選択できない人が、もし自分の知識をひけらかそうとするなら、プライドが邪魔をして伸び悩むことになる。 間違いなく言えることは、「何も学ばない先に、熟達はあり得ない」ということ。もともと持っている器用さは、最初の短期間だけしか通用しない。 どんな分野でも、柔軟な態度で学
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