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大脳の休息

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小脳で感覚的なものを養う 以前、脳についてこのブログで触れたことがある。 https://zuihitsu-taikyokuken.blogspot.com/2022/01/nounokasosei.html https://zuihitsu-taikyokuken.blogspot.com/2022/06/ongakukyoku.html 私は脳については素人だけど、もう少し自分なりに掘り下げてみたい。 脳の働きについて。「音楽を聴く」という行為に限っていえば、同じ1曲の中でも「主旋律のメロディ部分」と「リズムを刻む音」を聞く場合、脳内では、主だって働く箇所が微妙に違うらしい。 もちろん、いろんな脳の部位は連携して音を聞き分けているから、そんなに単純な話ではないのだけど、ざっくり大きく分けるとメロディ、和音、リズムなどは脳内で処理する場所が違い、音の選別をして聞き分けているとか。 素人なりに更に言えば、たとえばバンド系の音楽であれば、ボーカルが歌っている主旋律の部分と、ドラムやベース等のリズムを刻む部分とでは、音を振動として耳で受け取ったあと、聞き取る処理を行う脳内の器官が違っており、小脳はリズム系の音を振動として耳から受け取って感知しているらしい。 昔、私自身がピアノを弾いていた頃のことを思い出してみる。ピアノの練習曲でありがちなのは、左手がリズムを刻み、右手はメロディを奏でるという典型的なパターン。当時は考えた事もなかったけど、脳内ではリズム系とメロディが別々に処理されていたという事だろうか。 ピアノを弾くことはかなり複雑な作業で、当時はよく沢山の曲を、次々と練習していたものだと今になって実感する。目では、楽譜のおたまじゃくしを素早く追いかける。しかも左右の手、それぞれが奏でる音階は、二重、三重の和音になったりもする。それをすべて一瞬にして目で読み取り、ほぼ同時に流れるように手先を動かさなければならない。 左手は主としてリズムを刻んで動き続ける。でも、ときには左手が主旋律に変わったり、また曲によっては、左右の手をクロスして弾いてみたりもする。右手のメロディなんか、曲によっては鍵盤上を幅広く移動する。テンポの速い曲だと、とにかく動く動く! 常に動き回ってメロディを刻む。 「ピアノはすごい脳トレだった」と今改めて思う。 では太極拳はどうか。太極拳だって

久しぶりの狂言の舞台

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延々と多忙な日が続き、ブログを更新しないまま、軽く二カ月以上が経過してしまった。何だか忙しい一年だった。 でも、そんな忙しい合間をぬって、今年は楽しい事もあった。今年、久しぶりに野村萬斎さんの狂言の舞台をみたのだ。3年前にコロナ禍になってから、あらゆる音楽会や演劇などに出向いていなかったので、実に3年ぶりの舞台鑑賞だった。 やはり狂言の舞台は、舞台装置も簡素で気持ちが良いほどスッキリしていた。演者さん達の無駄をそぎ落としているけど縮こまらない優雅な動き。過剰な演技や装飾はない。ジャンルは違うのに、やはり今回も、太極拳と重ね合わせながら観てしまった。( 過去記事でも萬斎さんのことを書いています ) 萬斎さんの動きは相変わらず整って安定した体幹、足さばき、肩と首あたりのスッキリした感じ、幼い頃からの何十年もの稽古の蓄積が醸し出す独特の立ち姿、特有の存在感。今年 56 歳であるという年齢をまったく感じさせない、スルスルと滑るように動く体。 鑑賞した舞台では、萬斎さんの御父様、人間国宝である野村万作さんも出演されていた。円熟味を増した演技をみせてくださった。 91 歳の現在も舞台に立ち続けるという凄さ。多少かすれ気味だけど声も通る。日々の相当な努力と、厳重な体のケアが必要だろう。並大抵の努力ではないと思う。 一方、萬斎さんの御長男の裕基さんも出演されていた。「親子3代、現役で同じ舞台に立つとは凄いことだな。」と改めて思った。 以前(コロナ禍になる前にも)、親子三代の舞台をみた。そのときの裕基さんは若くて初々しい感じがしたけど、今年の舞台では、軽快な動きの中にも大人の男性の色気のようなものが感じられ、成長を感じた。他の演者さんよりも裕基さんは若いので、やはり体の軽やかさと安定感は凄い。 円熟味が感じられる万作さん、そして大成された感じの萬斎さん。それぞれ素晴らしいのだけど、裕基さんを見ていると、やはり単純に「若さっていいな。」と思う。体の動きに関しては、やはり若い方が動くに決まっているのだから。 新作披露では、萬斎さんと裕基さんの親子共演で、お二人とも、それはそれは軽やかな動きだった。太極拳風に言うとすれば、軽霊が実現した動き…とでも表現したくなる。終盤の裕基さんの足の動きは、特に軽やかだった。 私は素人だから狂言の詳しいことは知らない。過去に萬斎さんの著書を数冊読んで、それ

10年という歳月

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何もしなければ、何も無い 10 年になってしまう ある“和”の習い事をしている知人が、「ある程度、自分にもできるようになった、少しは分かってきた…と思えるまで 10 年かかった。」とおっしゃっていた。 10 年という年月は、何かを身に付ける為には決して長くはなく、必要な期間だと私も思う。 昔、子供の頃ピアノを 10 年間習った経験がある。子供時代に懸命に弾いた曲は、ブランクがあっても、中年になった今でも、下手なりに未だに弾ける。継続は力なり。何年もかけて体に馴染ませたものは、そう簡単には消えない。 私は不器用で飽きっぽい人間だけど、なんとか辞めずに太極拳の動きを 20 年やってきて、近頃やっと軽さ、柔らかさ、体勢によって出現する独特の体の張りを感じる日が増えてきた。振り返ると、稽古を始めて 10 年目あたりで、何か自分の動きが変わったような気がした。 20 年という経験は、決して長くはない。私はいつまでも未熟で、半世紀ほども頑張ってこられた遥か上のレベルの大先輩方に追いつくことは今後も絶対に無い。なぜなら何十年も頑張ってきた大先輩方も、更に上達を目指して日々努力を重ねていらっしゃるからである。 だから私はいつまで経ってもヒヨッコの域を出ることなく、おそらく一生到達することの無い満足な状態に少しでも近づけるよう、遠い目になりながら練習をする。だからこそ、この道を進むのは面白い。 中国武術というのは専門性に奥行きがあり、太極拳1つをとっても、学んでも学んでも決して知識が満ちることがない世界だ。 私の場合、太極拳を始めた理由は怪我のリハビリの為だったので、理論を追求したいなんて最初は微塵も考えてなかった。継続していく中でだんだん好奇心が湧き、単純に「太極拳のことをもっと知りたい」と思うようになり、そんなこんなでボチボチやってきて、ようやく 20 年経ったところだ。 簡単にできそう!…は幻想 私は道具(武器)を持たない太極拳の動きを健康法として長く続けてきたが、それとは別に、棒術(棍)も日々稽古している。 棒術の方は、真剣に稽古を始めてから数年しか経っておらず経験が浅い。おまけに恥ずかしながら稽古量が十分ではなく、苦手な型は当然のようにスムーズに行かない。棒術で新しい套路や型を学ぶときなんか、自分でも飽きれ笑ってしまうほど四苦八苦している。 実は以前、上手な先輩の棒捌きをみ
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