特定のグループ内で複数の人達と過ごす時間(part.1)~教室を立ち上げて以降、考えてきた事~

私が太極拳の講師として初めて自分で教室を立ち上げてから、もう何年も経った。そうは言っても、たくさんの熟練の先輩方と比べたら、太極拳を学ぶ者としても、指導する立場としても、私は学ぶべきことが山積みの未熟者で、試行錯誤の日々である。

太極拳の教室では、これまで沢山の出会いがあった。

教室の参加メンバーになって下さった方々、それから出入りさせていただいているカルチャーセンターの職員さん達…。個性ある楽しい皆様方とご一緒するうち、「習い事の教室を運営していく為に大切なことは何か」、これまで様々なことを考えてきた。

「みんなで楽しみながらレベルアップしていく事について」、「人間関係を円滑に保ちつつ、全員が朗らかでいる為には何が必要か」…等々。

仲間と一緒に有意義に過ごす時間について、いま思うところを書いてみたい。


<1>
技術の向上目的オンリーでは上手くいかない


習い事というのは、人生において必須ではない。はっきり言って、習い事が無くても生活は成立する。だけど人は、精神面や体力面を補完したり、特定の分野で良い資質を得て自己を高める為に習い事に通う。

生活の中に習い事があることで、人生の豊かさは変わってくる。この2年間のコロナ禍で、私はそれを痛感している。

コロナ禍以前のように、当たり前にみんなと過ごす日々は、感染拡大によって度々休止となった。コロナ禍では、普通のことが普通にできないもどかしさがある。

たくさんの人々にとって、習い事は生き甲斐に繋がる。仕事面で隠居された御高齢の方、子供が実家を出て巣立った後の中高年の御夫婦、気晴らししたい若い世代の人、何かを学んで自分を向上させたい人、体力をつけたい人、そんな人達の単調な日々の中に習い事が1つ加わるだけで、生活に潤いや刺激が加わる。

今は、オンライン動画、リモートレッスンでも習い事が完結する時代である。しかし人は、コロナ禍で外出を控えたり、他者との会話も十分楽しめない状況が続くと、無性に人恋しくなる。生身の人間同士で交流したくなる。単独行動を好む私でさえ、さすがに3年目に突入したコロナ禍には辟易している。

どんな人でも、誰かと「共感し合いたい」と思うもの。何でもいいから「ああ、そうだね。」、「うん、うん!わかるよ~。」と、楽しく誰かと会話したい。

習い事の教室というのは、共通の趣味や目的を持つ人々が集い、共感し合える「場」を提供してくれる。

人に会う、話す、共感する、そんな他人との接触は、ヒトの脳に良い刺激を与える。他人とのふれあいで孤独感が癒えて精神が安定すれば、オキシトシンやセロトニンなど、体調を調整する物質が体内で供給される



仲間



元来、習い事というのは、「そのものの内容を知りたい」、「技術的に向上したい」と願って始めるもの。だけど技術の向上だけでは味気ない。

人間同士の楽しいコミュニケーションの場として、習い事というのは大きな役割を果たす。習い事は、社会参加への小さな手段となる。



<2>
立場に関わらず、人と人が互いを重んじる


実は、習い事の場で「偉い人」は先生(講師)ではない。習いに来られる参加者(受講者)の皆様の方が「偉い」のである。なぜなら、参加者が1人も来なければ、先生は先生として成り立たないから。

私が運営している教室でもそう。太極拳を習いに来て下さる1人1人の参加者が主役であり、私は脇役に過ぎない。講師側はいろんなことを説明しなければならないので、当然ずっとしゃべってはいる。でも主役はあくまでも、熱心に指導内容に耳を傾けて下さる参加者の方々である。

カルチャーセンターでも、講師が講師として存在できるのは、受講者の皆様が来て下さるからに他ならない。受講者の方々に講座内容を伝える事で、講師という仕事が成り立ち、講師側も教えながら人として成長させていただいている。

だから、指導する立場に立っている人間は、威張ってはいけない。常に謙虚であるべき。初心忘るべからず。

講師はへりくだれという意味ではない。教えている内容に自信を持つことは大切なこと。ただし、間違っても「自分が教えてやってるのだ」なんて勘違いをしてはいけない。

講師はただ単に、習い事の中身を受講者よりも先に勉強しただけのこと。自分が先に得た知識や技術を、ひたすら丁寧に伝えることが責務である。

特に私の場合、健康目的で太極拳を習いに来る高齢層の方も多く、参加者の方々は私よりも年上が多い。私の親と同い年の方もいらっしゃる。私なんかより、ずっと人生経験を積んできた人達なのだから、相手をリスペクトすることを忘れてはならない。

また、自分よりも年下の人に対しては、「自分も通って来た道なんだ」ということを忘れてはならない。「私も若かった。私も未熟だった。でも頑張ればもっと上手く、もっと楽しくなるよ。」、言葉で押しつけるのではなく、態度や自然なオーラとして伝えられたらベストだと思う。

教える立場、教わる立場、そんなものに拘らず、まずは互いに人として認め合い、人として敬うこと。これが人が集まる場では大切だと思う。

習い事の教室では、特定の人が威張ったりしないように気をつけるべき。指導する側は、伝えたことを懸命に聞いて下さる参加者の皆様に感謝する。参加者側は、1回の稽古で何かを掴み向上しながら、他のメンバーと共に過ごせた時間に感謝する。

そんな思いで過ごせば、稽古終わりには、みんなの心は軽く清々しいものとなる。

教える側の人間が勘違いをして横柄に振舞ったり、参加者同士で誰かをいじめたり、特定の人が威張ったりするなど、もってのほかである。もし、そんな残念な事がどこかで起こっているとすれば、「一体何の為に始めた習い事なのか!?」、基本に立ち返って考え直すべきだろう。

それぞれが他人の話をきちんと聞き、仲間からの苦言を受け入れる心のゆとりも欲しい。

次回記事へ続く


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