言葉を発する場合

学び続ける理由

野球選手では無いのでプロもアマも無いけれど、意識の上では、太極拳を教える側は、”プロ意識”を持っておいた方が良いと思っている。プロ意識が持てなくても、せめてセミプロ意識くらいは、指導者ならば持っておきたい。

高いレベルにはない私なんかでも、稽古の場では、太極拳の指導者として、専門知識を持つ者として、皆様の前に立っている。だから、その分野について、常に勉強を続ける。

もし自分が曖昧な知識しか持たず、人に対し、学ぶべき内容をしっかり伝える事ができないなら、教える立場を継続する事なんてできない。勉強を継続せず、現状維持のまま、他人に貴重な時間を費やしてもらう事はできない。

稽古に来てくださる皆様も、年数が経てば上達していく。もし指導者が怠慢だったら、説明する言葉に説得力は無くなっていくので、レベルが上がった参加者の人達は満足できなくなる。指導者は、延々と学び、自分のレベルを上げていかなければならない。学びには終わりがなく、決して立ち止まる事はできない。

これまで私は、太極拳の分野に関わらず、様々なジャンルに属する有能な方々の話を聞く機会に恵まれた。仕事でも、何においても、膨大な量の学びを継続し、あらゆる経験を積んできた人生の先輩方から出る言葉は、やはり説得力がある。経験豊かな上に、幅広く得てきた知識を、いろんな言い回しで、ときには難題を解決してきた苦労話などを交えながら、バランス良く語る事ができる人。そういう人は、人間性においても魅力に溢れ、精神も落ち着いている。

誰かが他人に対して、何か特定の分野について語るとき、一度に話す「言葉の量」が多いか?、少ないか?、は、その人の持つ説得力には何の関係もない。現に世の中には、中身の無い事を、ただひたすらペラペラと喋り続ける人だっている。

学びが無ければ説得力のある発言はできず、薄い内容を延々と垂れ流す事になる。そういう人は、話を聞いている相手に対し、無駄な時間を過ごさせてしまい、かつ混乱させてしまい、気づかぬうちに相手に苦痛を与えてしまうが、自分ではそこに気づきにくい。

それから、たとえ何かの分野で優秀な人でも、他人の批判ばかり繰り返す人の言葉は、一瞬なら耳を傾けたとしても、だんだん聞くに堪えなくなってくる。他人の批判ばかり繰り返す人は、大体、険しくて意地悪な表情をしている。他人の批判ばかりの内容だと、聞かされる方はだんだん不快になっていくので、できれば距離を置きたいと思ってしまう。

有能かつ穏やかな人柄の方がいて、その人の口から説得力のある言葉の数々が出てくるならば、他人は耳を傾けたくなる。また、そういう人にどれだけ近づけるかで、自分自身の力量や判断力も変化していく。私自身、そんな域には遠く及ばないけれど、それでも人として、少しでも中身のある言葉が口から出てくるよう、自分の足りない部分を補いながら、細々と努力を続けるしかない。

実践と理論を学ぶ

太極拳について学ぶ場合、当然、実際に体を動かす実技、実践はとても重要で、反復練習の繰り返しによってレベルアップする。本当にレベルが高い人なんかは、言葉で多く語るよりも、体、表情から醸し出される雰囲気や、独特のたたずまいだけで語る事ができる。そんなレベルに近づくには、動作を繰り返す反復練習が絶対に欠かせない。

それに加え、机上で理論を学ぶ事も大切だ。実践だけでは足りない。理論だけでも足りない。太極拳では、実践と理論の両方を学ぶ事で、徐々にレベルアップしていく。

理論に関しては、自分が勉強していかなければ、知識が増える事はない。知識というのは泉。泉からいろんなものが湧き出てくる。学びを継続しない人の泉は、やがて枯渇する。

太極拳の理論の場合、理解を深めるヒントは古典文書から見つけられる。もし古典の理論書の中にある言葉を全く知らないと、他者に対して武術理論を上手く説明する事が難しくなるケースもある。

太極拳の理論は、基本は古典だ。新しい切り口で、現代風の例を挙げながら理論面の説明する人は多いけれど、その新しい切り口の源泉は、元を辿れば古典だ。古典を学べば、武術の攻防の理解が深まる事はある。健康法としてやっていても、動作のコツを知るには、古典文書に多く出てくる攻防理論は必要な知識といえる。

指導者の場合、知識が深まらなければ、薄っぺらい表面を語ってしまう羽目になってしまう。自信のない解釈のまま、人に説明しても伝わらない。だから教える立場になったら、動きの実践と古典理論の両方を学び続けるべきだと私は思う。

実は古典理論というのは、如何様にも解釈できる面がある。昔の人が書いたり話したりしたものを、現代の人間が解き明かすとき、専門的な知識を持っている人の中でも、各々、見解が異なる事はある。

見解が分かれるような、解釈が微妙に難しい事を追求する場合、すべての人が真理を100%解き明かすところまでは到達できない。それでも、学ぶ事で、先人の大切な教えに少しばかり近づく事ならできる。まったく何も学ばない人は、1ミリも近づく事はできない。学びが全く無く、ただ何かをぼんやり眺めていても、前進はしない。

例えば、難解な言い回しに出会ったら。そこにある1つの言葉だけをジッと眺めるだけでは、理解は深まらない。その表現の出典元の古典文書をみて、その文字や文節が、全文の流れの中でどんなふうに出てくるのか、それを調べてみるのも良い。

前後の文脈を少しずつ読み取りながら、その言葉の意味を、少しでも理解できるようにする。いろいろ調べていくうちに、あぁ、こんな事なんだと、少しづつ理解は深まる。そして本当の理想は、要訣文だけを学びっぱなしにするのではなく、分かり得た事を、自分の中で消化し、シッカリと実践に結び付けること。要訣文には世間で公表されていないものも多いが、これは仕方がない事なので、せめて閲覧可能なもので学ぶ事くらいはやっていきたいもの。

「考えるな、感じろ」という名言があるけど、考えないで感覚だけで難なく活動できる人は、世の中のいろんな分野に沢山いらっしゃる。ただ、そういった人達も、最初からそうだったわけではない。長い年月を費やし、膨大な鍛錬を経たレベルの高い人だけが、鋭い感覚としなやかさを手に入れ、自在に自己を操る事が可能となる。

未だ高みに行けない人間は、最初はまず、とことん学び、とことん練習し、とことん、どんどん考えてみるべき。それを長期間、繰り返し、思考を整理しながら鍛錬を続けるしかない。勿論、私も、しかり。まだまだ「とことん考えろ自分!」の段階にいる。

気づき


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