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祖父のこと ~終戦の日に寄せて~

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今年も終戦記念日が近づいた。私は、終戦後ずいぶん経ってから生まれた世代なので、もちろん“戦争を知らない世代”である。日本が平和になって生まれ、平和ボケしたまま過ごしてきた。生まれた頃から日本は豊かで、物質的に満たされて育ち、食べたいものを食べ、買いたい物を買い、行きたいところに旅行してきた。 ただ、新聞やテレビ番組などで、戦争体験を語る元兵士の証言などを、食い入るように見て、毎年心が痛む。私の母方の祖父は、海軍の将校だった。私の母が3才のとき、マニラで戦死した。 だから、戦争を知らない世代の私であっても、“おじいちゃん”が戦死したことで、身近な話題に感じるのだ。祖父は33才で戦死したと母から聞いている。“おじいちゃん”が、もし、実際よりも数年早く亡くなっていたら、私の母はこの世に生まれていなかった。そうなると当然、私自身の存在も、今この世に無かった。 私の伯父、母、叔母が生まれたあと、祖父は、祖国に妻と3人の子供を残して戦死したのだ。以降、祖父が繋いでくれた命は、私のきょうだい、私、イトコ、そしてその子供達にまで、今は繋がっている。 かなり前に私の伯父は亡くなった。今はイトコの自宅に仏壇がある。戦死した祖父のお骨は戻ってきていない。マニラのどこかの土壌に今も眠っているだろう。勲章と軍刀だけがイトコの家に残された。 私の母には、父親の記憶がまったく無い。3歳の頃に父親を亡くしたのだから、覚えていないのは当たり前だろう。当時の日本や、他の参戦国にも、そういう人は山ほどいただろう。 そういえば、母が唯一、父親に関わることで脳裏に浮かぶシーンがあるらしい。祖父がマニラで戦死する前、一時期、台湾にいたことがあり、家族で台湾に会いに行ったらしい。その時が、私の母にとって父親との最後の再会だったのだ。残念ながら母の記憶には、父親の姿は全く残っておらず、覚えていた事といえば、船に乗り込んだ、かすかな記憶だけだった。 私の祖母(戦死した祖父の妻)も、随分前に亡くなった。祖父が戦死した当時、祖母は、1才、 3才、5才の子供らを抱え、悲しみに暮れたことだろう。救いだったのは、恩給があり金銭面の苦労は無かったようだ。 それでも夫が戦死した悲しみと、3人の幼子を1人で育てていく心細さで、不安でいっぱいの毎日を過ごしただろう。気が張ったまま、心の休まらぬ日々を過ごしただろう。 戦争は往々に

人は軽くなる part.2

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以前書いた記事、【人は軽くなる】↓ https://zuihitsu-taikyokuken.blogspot.com/2022/08/keirei.html これに続き、久々に、また軽さを感じる感覚について書きたい。 小学生の頃 の想い出ばなしをし てみる。ある日、 私は家の近くの 階段を 下っていた。そのとき、 三 段 とばして一気に ポーンと 降りた。一瞬フワッと体が 浮いた。 ちょうど風が吹いて、小学生の軽い体 が あおられたのかもしれない。でも 、 あのとき確かに自分は 飛んだ。 「鳥のように空を飛んだ」感覚になった。人生のなかで「 空を 飛 んだ! 」 感覚になった のは、後にも先にも 、 あの時だけだ。 大人になり、 太極拳 の同じ 型を 何年もかけて、何度も何度もやっていたら、体が空に浮いたような、あのときの感覚が 少し 蘇った。 稽古を 何年も継続していると「 空中散歩 」している感覚が出てくる。 ふ わふわと浮いた感覚になる まで に、 のみ込みの悪い 私の場合、10 年近くかかった と思う 。 もちろん「体が軽く、浮いた感覚になる」といっても、上へ上へとわざと浮き上がる訳ではない。自分で上にジャンプしてはいけない。ただ、無駄な力を抜いて「自然に任せる意識」を持つと良い。 「重力に素直に従う」感覚を持てば、体は軽く感じられる。 床と友達になること。 自分がまとっているものは床にたらす。 でも、ただいたずらに沈むのではなく、頭部や頸部は上方へ緩やかに向かう。そうすると背骨まわりは潰れないで、ゆとりがある。 太極拳の動きでは、軸足の足裏を、床にシールの様に貼りつける感覚で、両足の重心移動を交互に行う。無理に上に伸び上がったりせず、踏実を実現する。そして緩やかに重心移動をする。 全身のりきみを無くし、雲が流れるように動く。その動きを何年も続けていくと、最初はぎこちなかった人でも、だんだん「なんと気持ちよいのだろう」と自分を軽く感じられるようになる。 床に沈むような感じが体全体で上手く表現できたら、そのことで鳥になった感覚になる。幽体離脱とまでは行かないけれど、無心になって練習していると、自分の何十キロかある体重は、あまり感じられなくなり、自分が空間の中に浮かんでいるようで足の運びは軽やかになる。 参考に「五勁等級(李雅軒)」について触れてみる。「五

冒険家の心意気

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ちょうど去年のこと。テレビのニュースをみて驚いたことがあった。それは、冒険家の堀江謙一さんが、 80 代なのにヨットでの冒険を決行し、太平洋横断を見事に成し遂げたニュースだった。それをみたとき、自分が高校生だった頃の記憶が蘇った。 そもそも私は、過去の細かい出来事を大抵、忘れている。友人や家族と話しているとき、人によっては何十年も前の学生時代の試験問題について、「こんな問題が出た」と具体的に覚えている人がいる。私には、そういう記憶は無い。授業や試験のことは、昔すぎて記憶にない。部活動で印象に残ったことや、特別なイベントの事ならば、さすがに少しは記憶している。 この堀江謙一さんという冒険家の方は、昔々、私が高校生だった頃、通っていた高校に講演に来て下さったことがあったのだ。去年のニュースをみたとき、“あの堀江謙一さん”が、いまだに現役であることに驚いた。登山家の三浦雄一郎さんもすごいと思うけど、堀江さんもすごい。 高齢者の中にも、お元気な方はいっぱいいらっしゃる。お元気とはいえ若者とは違うので、体のメンテナンスを怠らず、いろんな面で気を付けていらっしゃるのだろう。 つい最近、ネットで堀江さんのインタビュー記事を見たら、そこには、ギブアップしたくないとか、チャレンジという言葉が並んでいた。スーパーおじいちゃんとでも言おうか。いや、堀江さんは私の親世代だけど、“おじいちゃん”という表現は似合わない。 去年、映像で見た 84 歳の堀江さんは、昔々私の高校時代に見た姿よりも、むしろ今の方が断然、精悍でカッコよく、まるで若返っているかのように姿勢が良かった。高齢であっても、何かに夢中になって取り組んでいる前向きな人は、大抵、姿勢が良い。 私が高校生の頃、講演で聞いた堀江さんの体験談について、細かいことは正直、覚えていない。でも、いまだにはっきりと私の頭の中に記憶している堀江さんの言葉がある。それは「思い過ごし」という言葉だ。 堀江さんは、ヨットで世界を航行し、自然の脅威の中で生命の危機に直面しても、臨機応変に対応して凌ぎ、「(もうダメだと感じたが、それは)思い過ごしだった」とおっしゃっていた。私が覚えているのは、堀江さんが講演中、「思い過ごし」という言葉を複数回使っておられた事だ。 もしかしたら御本人からは、ただ何となく出た言葉だったのかもしれない。でも高校生だった私には、とて
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