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そもそも ”流派” って何だろう

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流儀、作法などで枝分かれしたもの まずは、基本に立ち返って考えてみる。太極拳とは何か。ダラダラ書かずに、短く、ひとことで表わすなら「中国武術の一派」。だけどやはり、たったひとことでは物足りない。太極拳には、いろんな充実した理論が内包されているから。 私の乏しい知識と語彙力でもって、数行でまとめてみる。「中国武術の一派。中国古来の導引術や吐納法の要素を動作に併せ持ち、呼吸とともに柔らかな体の曲げ伸ばしを伴う。意をもって気を運用し、体内の勁を運ぶことで武術技法を展開する。背景の理論は、陰陽理論、道教由来の練丹術の考えなど、中国古来の哲学や医学的な見解の影響を受けている。」 数年後に、もっと自分の学びが深まったら、これら説明の言いまわしが変化するかもしれないけれど、今はこのような説明が適切かなと思える。 「太極拳とは、どんなものか」を語る上で、いったん頭の整理をするには、その歴史や、グループ分け(分類)について確認してみるのも有意義だと思う。分類となると、いわゆる流派で分ける事ができる。 太極拳は、世界中に愛好者がいる。本場中国には、かなりの数のグループがあるようだし、小規模のグループや団体ならば、中国以外でも、台湾や日本、その他アジア各国など、とにかく普及しているところには多数の集合体がある。広く認知されている伝統的な流派もあれば、認知度の低い小規模な団体まで、様々だ。 そもそも「流派」と言う言葉は、どういう定義なのか。「門派」とはどう違うのか。 武術以外の様々な分野でも、門派、流派という言葉は使われる。流派は、主に流儀や活動内容の違い。門派は、その言葉通り「入門」するところで、一門、系列をさす言葉と認識している。 他の分野の事例に当てはめてみると、例えば、企業の集合体をさす言葉として、資本の占有率や経営手法で一括りにする「ファミリー企業」という言葉がある。ファミリー企業という表現は、門派のイメージに近い感じがする。 そこから独立したり、のれん分けするなど、何らかの事情で枝分かれしたものを流派のイメージで捉えている。つまり流派は、元の門派の中身を根底に持ちながらも、活動内容、流儀などの面では、完全に母体から独立したもの。 門派が源なら、そこから派生した流派は独自性を持ち、流儀、作法、人材の登用など、様々な面で独立、細分化したものと言える。なぜ派生し、細分化するのか。その

決して親切な人アピールをしない人

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猛暑で暑い、暑い、と言っていた夏が終わったと思ったら、秋になり、暑かったり肌寒かったりを繰り返し、そうこうしているうちに11月になって、また肌寒くなり…。そして、まもなく年末が近づく。 今年は、コロナ禍も4年目となり、すでに5類に移行して久しい。今年1年、太極拳関係のイベントも、通常通り実施された。ただし 日常が戻りつつあると言っても、 感染者がいないわけではない。私が関わっている文化施設の太極拳では、講師はいまだにマスクを外すことが許可されていない。別のカルチャーセンターでは、ずっと室内のすみっこでサーキュレーターがまわっている。こんな、コロナ禍以前には無かった換気の光景も、いまは当たり前に感じる。 自分では気づきにくいけれど、2020年以降のコロナ禍のような長期的なストレスにさらされる状態は、精神疲労の蓄積になるので厄介だ。並みの生活はできるけど、あらゆる面で少しずつ周囲に気を使い、気を張り、何かを我慢し続ける。些細な気疲れも、長期間、延々と続くのはしんどい。数年に渡り、自由な感じがしない。安心感が得られない。ほかにもテレビのニュースでは連日、海外の戦闘の話題ばかりで心が痛む。 「自分は大丈夫だ」と思っている人でも、小さなストレスが積み重なって、知らず知らずのうちに、いつのまにか深刻なストレス過多の状態に陥る事もある。低温ヤケドみたいだ。なにせ低温では、ジワジワとヤケドしていても気づかない。気づかないでいるうち、皮膚の奥深くまでヤケド状態となり、気がついたときには深層部まで痛んで、治りが遅いという。長期的なストレスというのは、そんな低温ヤケドみたいな怖さがあると思う。 カエルはいきなり熱湯に入れたら飛び出すけど、水やぬるま湯から徐々に温度を上げても飛び出さない、そんな話もあった(現実では信憑性に欠ける話らしいけど!)。とにかく気づかないうちに、かなりのストレスを抱えてしまう事はある。数年間に渡るコロナ禍の影響は、そんな感じだろうか。 ストレスにもいろいろあって、一時的な強いストレスでは、ひどく疲労困憊するけど、ストレスの原因が分かりやすい。原因がハッキリしているなら、それが解決すれば何とか切り抜けられる。仕事上の大きなミス、人間関係のトラブル、一時的な体調不良、大切な人との別れによる悲しみなど。短期的な強いストレスには、そんなものがある。 人との関わりは、いつも

野村家の狂言を観て思ったこと

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今年の夏、1年ぶりに狂言の舞台を観た。野村万作さん、萬斎さん、裕基さんの親子三代と、そして他の演者さんたちも…素晴らしかった。今回も萬斎さんは、演目が始まる前に、客席に向かって解説をしてくださった。パンフレットにも簡単な演目の解説は載っているけど、萬斎さん自ら、まず説明をして下さる。その時間だけでも、毎回30分くらいかかっている。よどみなく話を続ける萬斎さんの解説は、素人にはとても分かりやすく、有難い。 今回観た演目では、剛柔に関連するテーマが出てきた。仏教の異なる宗派の2人の僧侶を描いた演目で、2人の僧侶を演じたのは萬斎さんと裕基さん。なにが剛柔かと言うと、2人の僧侶のタイプ。陰陽虚実というか、はっきりと剛柔に分けて描かれていた。 裕基さんの若くてエネルギッシュな動き、そして力強い発声には剛を感じ、その威勢に驚かされた。狂言の簡素な舞台上で、2人の演者さんがしきりに動き、目まぐるしく立ち位置が変わっていく様子。そのときの裕基さんの、軽やかに剛を表現する演じ方が素晴らしかった。私は萬斎さんが好きなのだけど、萬斎さん以外の他の演者さんにも魅かれ、感心してしまう。 当たり前だけど、舞台に上がっている皆さん、客席には一切落ち度を見せない。厳しい訓練を積んで来られたのだろう。狂言の演目は大抵、笑いを誘ったり、人間への皮肉など風刺する内容なので、客側は「日常の厳しい稽古」を想像させられると、素直に楽しんだり、笑えなくなる。 だから、観客から自然に笑いがこぼれるよう、隙を見せないよう、事前に十分な稽古を積むしかないだろう。どんな分野でも下準備は大切で、練習段階で付けた自信が足りなければ、本番で心が乱れ、ミスに繋がる。 練習量が不足したり、心身が整っていなければ、それは観る側に伝わってしまう。「生の舞台で絶対にミスをしない」、それがプロの世界で、人様からお金をとるという事だろう。甘くない世界、厳しい世界だろうけど、その「厳しさ」を観客に感じさせず、肩の力を抜き楽しめるひとときを提供する、それが素晴らしい狂言の舞台に繋がる。 歌手なんかも同様だろう。ステージで緊張しやすい人は、プロの中にもいっぱいいるだろう。でも本番で客席に緊張が伝わってしまえば、客側は歌の世界に酔いしれる事ができない。だから本番までにレッスンを繰り返し、ステージがスムーズに運ぶよう万全を期すのがプロだろう。 お客
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