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いつでも戻って来られる場所へ

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今年、私の身近なところで、2人の方の ” 太極拳カムバック ” があった。 まず、「コロナ禍で、太極拳教室や、他のすべての趣味から3年間、ずっと離れていた」という、70代の方の稽古再開。 それから別の60代の方も、3年ぶりに稽古を再開された。60代の方は、親御さんのお世話(介護)で稽古から遠のいていたけど、今年に入って親を亡くされ、見送り、そのあと少し自分の時間ができたとの事で、「稽古を再開したい」と言って復帰された。 仲間内で「お帰りなさい」の気持ちで受け入れ、みんなで再会を喜び合った。ブランクはあっても、以前経験されているので、稽古再開後も割とスムーズに動いていらっしゃる。やはり体に一度、覚えさせた動きは、感覚として残っているのだろう。 指導する側にいると、このように、いろんな人達の ” 出入り ” に対面することがある。1つの稽古場が長く存在すれば、長期的にみると、当たり前に人の出入りがある。 特に、中高年以上の人に多いケースは、親の介護、配偶者の入院などで休会を余儀なくされる人。それから仕事の再雇用で、いったん稽古を休会する人など。勿論、その他の理由で辞めていく人もいれば、新しく入って来る人もいる。いろいろだ。 そんな入れ替わりがある中でも、長きに渡って、ずっと変わらず、 もう何年も御一緒している人達がいる。何年間も御一緒している皆様とは、仲間意識も出て、少しずつ親しくなり、大切な友人や家族のように思えてくる。 ときには、仲間の御家族(親御さん等)の体調不良をみんなで心配したり、またときには、初孫ができた人がいて、みんなで喜び合ったりもした。 稽古に関して、とにかく言えることは、その人ができるタイミングで稽古の場へ来て、継続できるのが一番。家族の事情でやむを得ず休会しても、また時間に余裕ができたら戻ってくればいい。 勿論、辞めて去って行く人がいても、それはそれで致し方ない。人それぞれだから。以前もブログで書いた事があるけど、私は、辞める人は追わないようにしている。名残惜しんで引き留めるような発言は決してせず、ただ、けじめとして、みんなで楽しく時間を共有し、お世話になったお礼の御挨拶をする。 辞める人には、いろんな事情がある。介護など生活面の事情で辞めていく人。稽古の内容が想像していたのと違い、その人がやりたかった内容とは異なると判断して去っていった人。なかに

そもそも ”流派” って何だろう

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流儀、作法などで枝分かれしたもの まずは、基本に立ち返って考えてみる。太極拳とは何か。ダラダラ書かずに、短く、ひとことで表わすなら「中国武術の一派」。だけどやはり、たったひとことでは物足りない。太極拳には、いろんな充実した理論が内包されているから。 私の乏しい知識と語彙力でもって、数行でまとめてみる。「中国武術の一派。中国古来の導引術や吐納法の要素を動作に併せ持ち、呼吸とともに柔らかな体の曲げ伸ばしを伴う。意をもって気を運用し、体内の勁を運ぶことで武術技法を展開する。背景の理論は、陰陽理論、道教由来の練丹術の考えなど、中国古来の哲学や医学的な見解の影響を受けている。」 数年後に、もっと自分の学びが深まったら、これら説明の言いまわしが変化するかもしれないけれど、今はこのような説明が適切かなと思える。 「太極拳とは、どんなものか」を語る上で、いったん頭の整理をするには、その歴史や、グループ分け(分類)について確認してみるのも有意義だと思う。分類となると、いわゆる流派で分ける事ができる。 太極拳は、世界中に愛好者がいる。本場中国には、かなりの数のグループがあるようだし、小規模のグループや団体ならば、中国以外でも、台湾や日本、その他アジア各国など、とにかく普及しているところには多数の集合体がある。広く認知されている伝統的な流派もあれば、認知度の低い小規模な団体まで、様々だ。 そもそも「流派」と言う言葉は、どういう定義なのか。「門派」とはどう違うのか。 武術以外の様々な分野でも、門派、流派という言葉は使われる。流派は、主に流儀や活動内容の違い。門派は、その言葉通り「入門」するところで、一門、系列をさす言葉と認識している。 他の分野の事例に当てはめてみると、例えば、企業の集合体をさす言葉として、資本の占有率や経営手法で一括りにする「ファミリー企業」という言葉がある。ファミリー企業という表現は、門派のイメージに近い感じがする。 そこから独立したり、のれん分けするなど、何らかの事情で枝分かれしたものを流派のイメージで捉えている。つまり流派は、元の門派の中身を根底に持ちながらも、活動内容、流儀などの面では、完全に母体から独立したもの。 門派が源なら、そこから派生した流派は独自性を持ち、流儀、作法、人材の登用など、様々な面で独立、細分化したものと言える。なぜ派生し、細分化するのか。その

決して親切な人アピールをしない人

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猛暑で暑い、暑い、と言っていた夏が終わったと思ったら、秋になり、暑かったり肌寒かったりを繰り返し、そうこうしているうちに11月になって、また肌寒くなり…。そして、まもなく年末が近づく。 今年は、コロナ禍も4年目となり、すでに5類に移行して久しい。今年1年、太極拳関係のイベントも、通常通り実施された。ただし 日常が戻りつつあると言っても、 感染者がいないわけではない。私が関わっている文化施設の太極拳では、講師はいまだにマスクを外すことが許可されていない。別のカルチャーセンターでは、ずっと室内のすみっこでサーキュレーターがまわっている。こんな、コロナ禍以前には無かった換気の光景も、いまは当たり前に感じる。 自分では気づきにくいけれど、2020年以降のコロナ禍のような長期的なストレスにさらされる状態は、精神疲労の蓄積になるので厄介だ。並みの生活はできるけど、あらゆる面で少しずつ周囲に気を使い、気を張り、何かを我慢し続ける。些細な気疲れも、長期間、延々と続くのはしんどい。数年に渡り、自由な感じがしない。安心感が得られない。ほかにもテレビのニュースでは連日、海外の戦闘の話題ばかりで心が痛む。 「自分は大丈夫だ」と思っている人でも、小さなストレスが積み重なって、知らず知らずのうちに、いつのまにか深刻なストレス過多の状態に陥る事もある。低温ヤケドみたいだ。なにせ低温では、ジワジワとヤケドしていても気づかない。気づかないでいるうち、皮膚の奥深くまでヤケド状態となり、気がついたときには深層部まで痛んで、治りが遅いという。長期的なストレスというのは、そんな低温ヤケドみたいな怖さがあると思う。 カエルはいきなり熱湯に入れたら飛び出すけど、水やぬるま湯から徐々に温度を上げても飛び出さない、そんな話もあった(現実では信憑性に欠ける話らしいけど!)。とにかく気づかないうちに、かなりのストレスを抱えてしまう事はある。数年間に渡るコロナ禍の影響は、そんな感じだろうか。 ストレスにもいろいろあって、一時的な強いストレスでは、ひどく疲労困憊するけど、ストレスの原因が分かりやすい。原因がハッキリしているなら、それが解決すれば何とか切り抜けられる。仕事上の大きなミス、人間関係のトラブル、一時的な体調不良、大切な人との別れによる悲しみなど。短期的な強いストレスには、そんなものがある。 人との関わりは、いつも
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