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動画サイトで太極拳の動きを学ぶ事(Part.2)

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溢れる動画の中から良質なものを見極められるか 私はヒヨッコだけど、学び始めてから年月だけは経っているので、太極拳理論や、気功などの分野についての関連動画の良し悪しが、多少は理解できる。過去に目にした動画の中には、「動きや解説が素晴らしい!」と、動画投稿者の高い熟練度合いを感じたものもあった。その一方で、「あのような事を断言してしまって大丈夫?」と内容に不安を感じたものもあった。 動画サイトへの投稿は、経験値の程度に関わらず、誰でも思い立ったとき、すぐにできる。 立場や習得レベルが異なる方々の、いろいろな動画があれば、視聴者側が比較して参照できるという利点もある。観る側の立場からすると 、好きな時に観て、学びたい事をいつでも学べる良い媒体だと思う。 その反面、動画というのは、どんな人でも簡単に、時には広告収入目当てで大量の動画を量産できるという点で、無法地帯と化している面も否めない。 溢れる数多くの動画の中には、誇張、ハッタリの内容が紛れ込んでいる可能性もある。 視聴者が、本質を見極められるなら問題はない。しかし、視聴者がその分野の事をよく知らないまま検索する事もある。検索であがってきた太極拳関連の動画を観たとき、不完全な動き、あやうい解説であっても、太極拳のことを有能に語っている動画だと信じてしまう人がいるかもしれない。 また、太極拳は学ぶ目的が人それぞれで( 参考:過去記事 )、流派、ジャンルなどが枝分かれしている。 個々の動画は、どういった層をターゲットにしているのか。初心者向けに簡単な動きを紹介する動画もあれば、武術の使い手として技の功法を解説するような動画もある。観る側が、 自分の求める方向性が定まらないまま検索し、目的にそぐわないものを観てしまう事もあるかもしれない。 事情があって教室に通えない人が「動画で学びたい」と思えば、できれば同じ種の複数のものを見比べて、「より動きが丁寧で、解説が明確で分かりやすい」と判断できた方を参考にするしかない。太極拳経験者の知人がいれば、お勧めの動画を聞いてみるのも良いと思う。 背伸びしない誠実さは安心感を生む 動画投稿者が、指導者の域に達している人であっても、学びの深さ、習得レベルは、人によって様々だ。 ✦歴史や成立過程を含め、そもそも太極拳とはどんなものか。 ✦動きには、どんな特徴があるのか。 ✦自分がやっている習練は

動画サイトで太極拳の動きを学ぶ事(Part.1)

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肌感覚と空間力を養えるのが「リアル」の良さ 以前、ある施設で、私が受け持つ太極拳講座の参加者の方から、こんな言葉をいただいた。「先生はyoutubeなどに動画をあげないんですか? それをみて家で復習しようかと思って~」と言ってくださった。自宅で復習なんて前向きで嬉しい言葉をいただき、「動画をアップする意味って、やはりあるんだなぁ…」と思った。 ただ、動画サイトへの投稿に関しては、私自身いろいろと思うところあって実行していない。ネット社会の中で暮らしているのだから、この先、状況によって臨機応変に対応する必要がある、とは思う。 限定公開であげても良いわけだし…。または、動画サイトにあげなくても、稽古中に私の動作を携帯で撮っていただく、という方法もある。しかし、その施設の講座は撮影禁止なので実現していない。 私はSNSのアカウントにも、このブログにも、自分の稽古中の動画をあげた事がない。そもそも世間様にお見せするほどの容姿でもないので(苦笑)、積極的に自分の姿を公開する気もしない。 そんな私でも、あるサイトには画像があがっている。講師契約している施設のウェブサイトの、太極拳講座の案内ページだ。そこには私の姿とコメントがアップされている。この発信自体、施設側が行ったもので、私自身は発信者ではない。 実は、コロナ禍になった2020年に、ある教室の皆様に向けて、私の動画を限定公開で送った事がある。2020年は、国や自治体から不要不急の外出禁止令が出ていたため、稽古の休止期間があった。そこで短い動画を撮り、youtubeにあげて、「今は外出できないので、これを見て一緒に運動して下さいね」という意図でURLを皆様へ送信した。それ以来、自分の動画は一切あげていない。 私が指導する側にまわるとき、心がけている事がある。それは、同じ空間で、みんなで一緒にその場の空気を肌で感じ、心の静寂までも全員で共有する事。日々の生活におけるストレス、脳疲労を緩和し、心の落ち着きを取り戻す時間を仲間と一緒に過ごす。 「ゆっくり動く時、その場の静けさ、雰囲気を、どうやって肌感覚で感じるか」は大切な要素で、動画の視聴だけでは得難い感覚だ。視線の流れる様子、肢体の指先まで意識下に置いた独特の動き、雰囲気、息づかいなどは、PCやスマホの画面上では分かりづらい。 動画だけでは、太極拳の繊細な動きを学ぶことは難しい

「捨己従人」という言葉の本来の意味

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人間には強引で滑稽な面がある 新聞やテレビの報道で、アメリカ大統領選の話題を見て思ったこと。二大政党のどちらが政権を取るかによって、日本も貿易、軍事など多方面で影響を受ける。でも私個人的には、どっち寄りとか、候補者の誰を推すとか、さして強い希望は無い。 選挙演説について思う。アメリカ大統領選に限らず、日本国内の選挙の時にもよくある事だけど、候補者の演説が、対抗馬との悪口合戦みたいになってしまう事がある。それで選挙戦が盛り上がるのならば悪口合戦は必要悪で、選挙の風物詩みたいなものかもしれない。 しかし本来、選挙はショービジネスのごとく盛り上がる為にやっているのではなく、自分の代弁者を吟味して選ぶ為のもの。だからショービジネス化する必要はない。でも実際には”政治ショー”をやった方が商魂たくましい人達が盛り上がり、マーケットまで大きく動く事がある。 街頭演説をテレビ報道などで見聞きしたとき、ライバルの人格批判ばかり、がなり立てるような演説は品がないと思える。人格を批判するよりも、対抗馬の政治信条を挙げて、「自分とは考え方が違う」とか、「自分は別のやり方で、世の中をこうしたい」と分かりやすく語れば良いのにと思う。俗っぽい表現での批判ばかりの演説は、言った本人の品格を下げるだけの行為に思える。 聴衆の中には、悪口でも何でも良いから、強い口調で何かを主張する候補者を、盲目的に敬愛してしまう人がいるのかもしれない。ちょっと過激な発言とか、そういうのを望んでいる人はいるだろう。でも、他者の批判ばかりを繰り返す人に、世の中を変える程のリーダーシップがあるとは限らない。 (たとえ悪口でも)大きな声で強さを演出する候補者の雰囲気に、聴衆側がのまれてしまうなら、それは強い口調で話す人の術にはまっているだけだ。人間は今も昔も、簡単にプロパガンダ的なものに影響される。 とにかく選挙の街頭演説で、がなり立てるように大声を張り上げ、眉間に青筋立てて他者の批判ばかり続ける人の話は、やはり聞く気が失せる。そういう人は、仮に当選したら実際には何をするのだろう。もし語れるようなシッカリした政治信条があるのなら、自分の理念、実現したい事を、紳士的に丁寧に語るほうが説得力が増すわけで、他者の批判に時間を費やす暇はないはず。 私が聞きたいと思えるのは、聴衆に向かって分かりやすく、「私達はこのような方向に進んでい
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