気沈丹田を意識する利点は何だろう?(Part.2)
貯蔵した気は、軽快に動くための動力源
太極拳の攻防の動きは、相手と接している前提のものであり、1人で套路をやっていても、それは相手との攻防をシミュレーションしているに過ぎない。本来、相手と対峙するとき、興奮状態にあってはならない。興奮状態にある人は、全身が強張って力がみなぎり、繊細な感覚が鈍る。相手と自分の状態を冷静に察する事ができない。
丹田に気を下ろす意識を持つことで、心身の安定感が保たれ、頭に血が上るような、のぼせた状態は避けられる。相手との攻防など一切意識せず、健康法として套路のみを励行する人も、興奮状態で動けば気持ちよく運動できない。興奮と緊張で硬い動きになれば、血圧も上がり、筋肉疲労も溜まり、体内の老廃物を上手く流せない。
気の概念からすると、臍下丹田あたりは気が満ちている場所(気海)であり、スムーズに動く為には、満ちた気をそこから全身に運ぶイメージを持つと良い。そうすると筋肉に無駄な力が入りにくく、心が落ち着く。
さらに太極拳の分野では、気を「旗振り役」とみなす事がある。温存している人体内の気を、意識を集中しながら、必要に応じて人体の中で巡らす。そうする事で、気はヒトの活動を促す為の「旗振り役」となり、太極拳の攻防において勁の誘導役となる。ちなみに太極拳に関連する昔の理論書の中には、「氣為旗(気は旗をなす)」という味わい深い言い回しがある。
太極拳に関わる昔々の理論書をいろいろ読んでいくと、おもしろい表現によく出くわす。気が沸き立つ…とか、気が鼓蕩する…等々。
十三勢行功歌という、武術の鍛錬の要領についてうたった古くからの歌訣がある。この歌訣は、現在、我々太極拳愛好家の学びとなるバイブルの中の1つでもある。
十三勢行功歌の中に、「刻刻留心在腰間 腹内鬆静気騰然」というフレーズがある。大雑把ではあるが自分なりに意訳してみると、大体こんな感じ。「随時、腰のあたりに心を留めて、 腹内を力ませずに柔軟にし(鬆静)、腹内にある気が沸き巡るようになる(氣騰然)」。
ただし、太極拳の攻防において、気はいったん背骨あたりに収める…という考え方がある。むやみに沸き立たせて気を方々へ散らしては勁を誘導できないわけで、攻防の技に気を活用するには、浪費せずに大切に収めて上手く運行させる必要があるだろう。太極拳初心者の方がこのイメージを体現できるか?と言われれば、できないし、私のような指導者の端くれも、ヒヨッコゆえ、かすかなイメージしか湧かず、当然、高度な運用などできっこない。体内での運用はおろか、解説するだけでも難しい。それでも自分の学びの今の段階と立ち位置にて、分かる範囲、可能な範囲で、言葉を選びながら説明を試みるしかない。
専門書の中には、気は運行時に上から下げるのだ…と記載されているものがある。沸いて巡る…というとイメージ的に下から上では?と思うけれど、体内を絶えず循環しているのだから、下がってから経路を辿って上がるのだと言える。
腰部には命門の経穴がある。小周天では、命門を通過した後の気のエネルギーは督脈などを通過しながらグングン巡り、気海丹田へとおりて、また巡る。「刻刻留心在腰間 腹内鬆静気騰然」というフレーズは、気沈丹田をイメージさせる。
過去記事でも何度か触れた事がある通り、「気(qi)」には、先天の気と、後天の気がある。先天の気は、両親から受け継いだ先天的なもので、自分の腹内に宿して生まれてくる。臍下丹田あたりの気海は、先天の気が満ちている気の海のような、気の貯蔵庫と見なされる部分。
先天の気と後天の気は、共に常にヒトの体内に在り、ヒトが活動するときは、両方を活用する。先天の気も、後天の気も、目には見えない。とはいえ体内には、神経伝達を含め、自分で目視できないものが確かに存在する。気が巡る概念と、スムーズな神経伝達は、完全一致では無いが、類似したものとも受け取れる。
人の神経伝達は、電気信号を利用して運行するという見方がある。体を硬直させると気血の巡りを阻害し、神経を圧迫し、心身の連携が上手くいかず、体全体が思い通りにコントロールできなくなる。
精神的に高揚し過ぎたり、怒ったりすれば、一時的に電気信号が活発に行き交うらしいが、それは健全な巡りでは無い。過剰な興奮のせいで、安定した制御ができなくなっているだけだ。興奮状態だと体全体の筋肉が固くなり、バランス感覚も鈍る。滞りのない軽快な動きに繋げるには、心の静寂と、体の柔軟さが必要となる。
人が何の苦悩もなく軽快に活動している時というのは、体が硬直せず、自分の体内に貯蔵している気を安定的にエネルギー源に変えて消費できるイメージで、気沈丹田を意識し、腹内を経由して巡る「氣騰然」に繋げる。別に、体内で沸き立った気が、リアルで湯気のように目視できるわけでは無い。それでも心身が安定している場合、気血がグングン巡り、体は軽快に動き続けられる。
中国の気功養生法でも、気沈丹田を意識する。一連の功法で柔軟に動いた後、収功では、外見上の動きばかりに意識を向けないで、体中に巡った気を丹田にしっかり収めて終わる意識を持つ。大切な気を、また貯蔵しておくイメージ。
太極拳で動くとき、腹内に収まっている気が沸き立って小周天で循環する。体内の硬直を取り去り、精神は穏やかな状態で放鬆を実現すれば、体内エネルギーの循環は良くなり、軽快な動きに繋がる。
気海、命門の経穴の周辺を硬直させず、全身の筋肉も柔軟に保つ。そして脊椎を自然に立てて、胴体内を圧迫させず、グラグラするブレを起こさない。腹内が硬直せず柔らかい中にも、体芯には安定感を持たせる。
太極拳で御法度なのは、踏ん張って、青筋立てて、懸命に力んで、ガチガチに筋肉に力を入れて向かっていく事。必死で怪力を出せば、体内の巡りは当然悪くなり、自らの体性感覚は大いに鈍ってしまう。
心の乱れは、体のバランスの乱れに繋がりやすいので、脳内でどんなイメージを持って動くかは、とても大切な事。片足が浮くとき、頭の中で「片足だけ上げなくては!!」と必死になれば、焦りと心の乱れでバランス感覚が鈍る。
足の先っぽに意識を集中するのでは無く、臍下丹田に静かに意識を向け、体軸がブレない状態で動く方が良い。足先の勢いで、体全体の動作を導いてはならない。体幹を安定させた上で、股関節、太もも、膝などが緩やかに動き、足先は他の部位と連動してしなやかに動く。
不安定を安定に変えられるか
太極拳の初心者の方がよくおっしゃるのは、「動作がゆっくりなので、すぐ自分にもできると思ったけど、実際にやってみたら意外と難しかった!」という事。思うに、初心者の方の最初の難関は、1つは、動きをすぐに覚えられない事。そしてもう1つは、「不安定を安定に変える」事だと思う。
太極拳では、ひとたび動き出せば、常に「不安定な状態」を「安定」に変えながら動いていく。稽古を重ねてバランス感覚が磨かれれば、安定感が出てくる。
バランス感覚を養いながら、力まずに動く為の教えとして、太極拳の分野には様々なキーワードがあり、その中の1つが気沈丹田とも言える。勿論、それ1つだけを意識すれば良いという訳では無いけれど、気沈丹田は最重要項目と言っていい。
太極拳では、足元を含め、常に体中の虚実が入れ替わりながら動き続ける。套路でも、対練でも、いったん動き出せば、終わるまでは、途中で両足を地面にドッシリ付けて固まって仁王立ちする事は無い。
動作時の不安定さを何とか取り去るには、「重心が安定している事」が必須条件となる。重心が安定するというのは、体がガッチリ固定して微動だにしない、という意味では無い。
動き続ける中にあって、不安定なものを安定させる為に、重心を偏りのない中正に保ちながら、全体を安定させる。それには足裏の安定感も必要だし、軸の意識も必要。そして「重心が体のどのあたりにあるか」を感覚的に分かる事も大切だ。
自分の体の中心部に「重り」があると想像してみる。重り以外の体の部位や、体内の血液などの流動物は、ずっと絶え間なく動いている。しかし中心部の重りそのものは、周りの影響を受けず、心柱のようにブレず、動じず、重力に従う。動じない部分というのが、まさに臍下丹田あたり。
重りは、いつも自然に地面の方向、つまり真下へ垂れる。気沈丹田を意識してこそ、重りの安定感が出てくる。臍下丹田~仙骨などのお腹の奥は、体の中心である。この中心部が安定し、偏らず、横ブレしないようにする。地面に対し、斜めに傾いてバランスを崩せば、つんのめってしまう。
軸がブレてバランスを崩し、勢いで斜めにヒョイッ!と向かえば、高齢の方などは転倒しかねない。だから、ひっきりなしに動いていても、その内部には、基準点と成り得るような、簡単には動じない重りの様な部分が存在するのが理想だと思う。ただ、太極拳で動くときは、自分の中心軸とともに、二軸も意識する。ヒトの体には、肩が2つ、腕も2つ、脚は2本ある。この二軸のバランスを取りつつ、中心部も安定して動く必要がある。

不安定な自転車に乗るがごとく…
気沈丹田と言っても、気も、丹田も、実体が無いのだから、太極拳の初心者の方はイメージするのが難しいと思う。気沈丹田は、バランス感覚を養う為に大切な要素で、一輪車なんかを想像すれば分かりやすいと思う。
イメージするのは、一輪車でも、二輪車でも良いし、昔、小学校などに置いてあった旧式の一輪リヤカーでも良い。とにかく、「前進するにも、後退するにも、不安定なもの」をまず想像してみる。
幼い頃、誰かに協力してもらい、二輪の自転車に乗る練習をした人は多いと思う。幼児が補助輪なしで一発で乗れる事は、ほぼ無いと思う。最初は、親きょうだいに自転車の後ろを掴んでもらい、バランス感覚を磨きながら、ときには転びながら練習する。何度も練習して、やっと補助輪なしで乗れるようになる。

コツを掴んで乗れるようになった後は、どこへでも軽快にスイスイ行く。スイスイと自転車を漕いで行くとき、腹部や骨盤は横ブレせず、体全体の力みも無く、安定している。
もし脚がペダルを踏む上下の動きに合わせて骨盤が横ブレしたら、不意に転倒してしまうかもしれない。もともと安定感の無い二輪車を、まるで補助輪が付いているかのように安定させるコツは、太極拳で力まずに軽快に動く要領と似ている。
臍まわりの安定は必須だ。自転車のサドルに跨って、力まずに、絶妙なバランスでスイスイ進むとき、ヒトは重力に逆らわず、真下の方向へ自分の重さを落としている。
二輪の自転車に乗るとき、股関節を柔らかく折り込んだ状態でサドルに体を預ける。股関節をしなやかに折り込み、臀部は後方へプリッと突き出さず、腰からお尻のラインは硬直せず丸みを帯びた状態で、自然にサドルに乗せる。
ヒトが二輪の自転車にバランスよく乗って進んでいるとき、足裏がペダルに貼りつく感覚で動く。そして、腰、臍、頭などの傾斜具合を絶妙に立てて調整しながら、体全体の安定を保つ。太極拳の動作も、そんなふうにできれば良い。
気沈丹田を実現し、しなやかに動くとき、お腹の奥深い内部や会陰周辺は、二輪の自転車に跨っているときと同様、少しばかり引き締まった感覚になる。自分で無理に反らせたりして力を込めなくとも、腹内や会陰部は、適度に締まって充実した感覚となる。
体の中の状態は、外側に表面化する
これまで私は、長く太極拳の稽古を積んでこられた高齢者の皆様の動きを、たくさん見てきた。筋肉量が減っている80代後半の方でも、長く継続した人は安定感があり、腰まわりの動揺は無い。力まず、しかし緩み過ぎず、床に対して胴体をバランス良く立てて動いておられる。しかも、そういう人達は表情も穏やかだ。
よいバランスで硬直せずに動くには、やはり精神の安定も必要で、興奮気味になると上手くいかない。頭に血が上るような感覚になり、体のどこかに圧迫感が出てくれば、動作がぎこちなく、突っかかった感じになる。交感神経優位になり、血管が収縮して血圧が上がり、一時的に気血の巡りが阻害される。
そのような状態では、日常生活においても、そして太極拳の動作をする上でも、放鬆が実現できず、気持ちよく伸びやかに動けない。ヒトの体内には、いろいろなものが流れている。血液、リンパ液、その他の体液、そして電気信号を利用した神経伝達の巡り。心が乱れたり、興奮すれば、筋肉は硬くなり、体中の巡っているものが滞り、健康を害する。
精神が安定し、神経伝達がスムーズな体、それが健康体へと繋がる。卵が先か、ニワトリが先か…という話になってしまうけど、運動などで気血の巡りがスムーズになると、心は安定する。逆もしかりで、心が安定すると、気血の巡りも動作もスムーズになる。
「虚領頂勁 気沈丹田 不偏不倚…」、これらは王宗岳太極拳論の一節。また、別の文書「打手要言」の中には、「虚領頂劤 気沈丹田 不偏不倚 所謂尾閭正中神貫頂 満身軽利頂頭懸也。」とある。
こういった文章については、専門家の中でもいろんな解釈があるようだ。拙くも自分なりに解釈すれば、「虚領頂勁 気沈丹田 これらを実現する。そして尾閭を正中にし、神は頭頂を貫く状態にする。全身を軽やかにするために頭頂をかかげ垂らす様にする。」、このような事が書かれている。
要は、「姿勢をどう保つか」という事と、「意識をどう保つか」、この両面が整わないと、軽快には動けないという事。
緊張して筋肉や腱を硬直させてしまえば、臍下に温存した自分の気を上手く巡らす事ができなくなる。生きる為に、軽快に活動する為に、体の隅々まで気を巡らせる事で、思いのままに動く心地よい感覚が得られる。
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