投稿

便利か、不便か

イメージ
何が必要かは、人それぞれ ずっと前に、このブログで書いた「 象の足裏は重要な感覚器 」。 今回また、 私の脳内で渦巻いている「便利な物に囲まれた生活」に対する考えについて書いてみたい。 だいぶ前の事。テレビに一般家庭の食 事風景が映った。その御家庭では、配膳ロボットを使っていた。正直言うと、一般家庭を配膳ロボットが這いまわる光景は、奇妙に見えた。 失礼ながら、そう広くない一般家庭。ご家族全員が若い世代で、足も悪くなく、機敏に動ける健康体。少し手を伸ばせば、何でも手に届く範囲にある御家庭だった。 人が配膳しても、わずか数歩の移動距離しかないのに、「座ったまま楽に過ごせる」という理由で、ほんの数十センチの距離を配膳ロボットに移動させていた。こういうのは個人の自由なので、その人達が便利に使えれば良いのだけど、私はそれを観て、自分で動こうよ~、と思ってしまった。 思えば、この30年程のあいだ、電子機器の進歩は本当に目まぐるしかった。便利な事がいっぱい増えた。最近の飲食店では、人手不足もあり、ロボットが配膳するところがある。数十年前には無かった光景だ。 他にも、人間をサポートしてくれるロボットは、いろいろあるようだ。介護の現場や、体の一部が不自由な方々にとっても、サポートしてくれる機能性の高い機器の存在は心強いだろう。1人暮らしの高齢者の見守りも、もう何年も前からネット経由のモニタリングで可能らしい。 便利なものが増え、良かった点は沢山あるけれど、私自身は、最近なんだか脳が休まらない気がしている。情報を得る媒体、情報量は、昔より増えている。常に情報の渦の中に、自分がどっぷり浸かっている気がする。 それならネット環境を数日間、絶てばいいのだけど、でも請け負っている作業に必要でもあるし…などと思いつつ、結局アクセスしてしまう。 ところで、ネット経由で文字のやり取りができる現代の環境は、とてもありがたい。私は電話が苦手なので、文字メッセージによる交流の方が気が楽だ。 電話が苦手な理由はいろいろある。昔、知人で、早朝や夜遅い時間帯に電話してくる人がいた。そういう人には、相手の時間を奪っているという意識は無い。一方的な愚痴など、長話をしたがる知人もいた。 暇なのか、いろんな人に電話をかけまくる人もいた。そういう人は、常に他人にかまって欲しくて、相手の都合をあまり考えないようだ。自分の不...

先の先。どこまで考えるか?

イメージ
長く続いてきた伝統的なもの 私が最初に茶道の稽古をしたのは、はるか昔、中学生の頃だった。当時、感じた事がある。御点前のとき、または客側の作法でも、時折、滑稽と思えた所作がある。 中学生当時、習いたての頃、先生が飲み切る際に「ズズッ!」と音をたてた事に驚き、初めは笑ってしまった。勿論、そのとき先生からは、きちんと説明を受けた。これは飲み切ったことを亭主に知らせてるのだ、ちゃんと意味がある行動なのだと。 でも、なにせ中学生だったから、行動の意味よりも何よりも、表面的な事が気になった。心の中では、「お茶の稽古って上品なものだと思ってたけど、最後にズズッ!は無いよなぁ~」と思った。 中学生だった私は「ズズッ!」と音をたてて飲み切る行為にどうしても抵抗があり、自分が頂く側のときは、極力控えめに「しゅ…」と軽く吸って誤魔化した。 客側が飲み終えて茶碗を拝見するとき、丸めた掌に茶碗をのせ、殊更、深く感心したように拝見する。これも中学生の私には馴染めなかった。ときに先生が演技するかの如く(当時の私にはそう思えた)、まじまじと茶碗の裏側を眺めたりして、何となくわざとらしい感じがして奇妙に思えた。 私はいったん、高校~大学時代に、茶道から離れた。そして20代半ばで、中学の頃と別の先生について、また稽古を再開した。再開後、数年間、稽古を重ねた。 所作に慣れていくと、中学時代には全く理解できなかった良さを少しは感じた。「ズズッ!」は相変わらず苦手だったけど、御道具を拝見する行為には、さほど抵抗が無くなった。 御点前の手順というのは、美しく合理的にできており、無駄なく構成されている。道具を大切に扱う精神も、大人になってから少しは理解できた。 20代の頃の自分は、とにかく仕事が激務だったので、疲れが溜まりがちだった。週末の茶道の稽古のときは、日常の激務をしばし忘れる事ができた。静かな場に身を置き、御点前を繰り返し、先生から手順、所作に関して指導を受けつつ、もちろん茶道具は粗雑に扱わないよう注意した。 次第に御点前に対する見方は変化し、「伝統あるものって良いな」と思えるようになった。「伝統を人が繋いできた事」の素晴らしさが少しずつ理解できた。今現在はもう、茶道から離れて随分長い年月が経ってしまった。今でも、自宅で茶をたてて飲むけれど、作法の手順は無視して簡単にしている。 日常生活では、茶道の経験...

動きを身に付けるそれぞれの目的

イメージ
太極拳を学ぶ場合の個人の目的について、以前、ブログで少し触れた事があった。今回もう少し掘り下げ、頭の整理をしてみたい。 今、多くの太極拳愛好者が国内外にいて、個人の目的でジャンル分けする事ができる。個人が学ぶ目的別では、ざっくり大きく3つに分類されるケースがある。その3つとは、伝統武術としての太極拳、スポーツ競技化された部類、健身(健康)目的で体操化された類のもの。 動きを極める長い道のりが、健康体を得る事に繋がる 私は昔、”怪我のリハビリ”のため、つまり健身目的で太極拳を始めた。稽古を続け、理論の中身を知るにつれ、やはり武術の攻防にも興味が出て、途中から推手を学んでみたり、中国武術繋がりで棒術の稽古もしてみた。ほかにも感覚を養うための気功法などをやってきた。 20年の歳月のなかで、並行して数種の事にチャレンジしてきた。頭を切り替えられるなら、複数のことを同時進行でやるのも悪くない。ただし、一度に沢山の事をやり過ぎない方がいい。もし欲張って、あれもこれも…と手を出し過ぎると、どれも中途半端になったり、気分的に落ち着かなくなる。 私が良いと思うのは、どれか1つだけを主軸として、あと1~2つのものを補足的に学んでいく事。同時進行でやっていく事が少なければ、脳内はそこまで混乱しない。気分転換にもなるし、学びの相乗効果も期待できる。 私の場合、健康目的で太極拳を生活に取り入れる一方で、「護身術としてなら、どう使えるか…」、そんな意識を持つ事もある。学び方は人それぞれで、時間を有効に使いながら、できる事を可能な範囲でやっていけば良いと思う。 太極拳は奥深く、面白く、そして裾野が広がっている。太極拳は中国武術であり、それから良質な運動でもあり、少しばかり難解な学習でもある。私のように怪我のリハビリで始めた人間にとっては当然、健康法としての意味合いが強い。 ただし、手足を規則正しいリズムで「いっちにぃさん!」と動かすような一般的な体操のイメージとは違う。健康番組で紹介されるようなストレッチ体操とも違う。動くとき意で気を運ぶなど、その理論には特有の要素が有る。 過去に、「太極拳は武術か、健康法か」という議論をしている人がいらっしゃった。当然、武術である。しかし、得られる効果を考慮すれば、健康法とも言える。姿勢や呼吸を整え、体の様々な筋肉や関節を連動させながら柔軟に動かしていく、その...
随筆★太極拳 - にほんブログ村

↓ Amazonサイト《太極拳》関連商品