投稿

太極拳は最強の滋養強壮剤

イメージ
前回のブログ記事で、その頃、猛暑にまいっていた私は、中年の悲哀をダラダラと綴ってしまった。悲しいかな、それが本来の自分でもある。 人は常にポジティブでいられない。おそらく私の教室へ通って下さっている方は、私の事を、きっと「いつも張り切って指導している」と思って下さっているだろう。それは、自分が学んできた事を人へ伝えていくに際して、「きちんとしなければ…」という想いがあるから。参加者の皆様が、わざわざ足を運んで下さるのだから、当然、私の責務として、指導する立場のときは気を抜かない様にしている。 また、参加者の中には難聴気味の高齢の方もおられるので、教室では小声でボソボソしゃべらず、できるだけ部屋中に通る声で説明するように意識している。そのせいで、他人から見れば、張り切って、室内中に通る声で、颯爽と指導している人に見えるかもしれない。 でも普段の私は真逆で、本当は、かなり陰寄りのキャラクターだ。面白いことは好きだけど、どんちゃん騒ぎは苦手。普段は、できるだけ人に会わず、引き籠っていたい。できる限り1人で過ごしたい。おまけに、いつも血圧が低い。 そんな自分の陰な部分を少しでも上昇気流に乗せるためには、社会的な役割を失わず、何らかの活動を継続しなければならない。私のような陰のキャラクターの人間は、日々の任務が無いと、無気力になって衰えてしまう。何とか快活に生きていくために、社会性を失わないよう気を付けようと思う。要はバランスだ。 陰寄りな自分は、日々の無気力な感覚や不調を跳ね除け、気を養うためにも、太極拳や気功などを継続している。健康法として太極拳を継続している人は、私がそうである様に、案外、疲れやすい人が多く、気力増進のためにやっている人は多いだろう。 私の中で太極拳というのは、弱い自分の心と体を、何とか健やかに保つための滋養強壮剤のようなものだ。これから先、老いが待っている人生をどうやって過ごすか。そこに太極拳という最強の滋養強壮剤がある。そう思えば、なかなか心強い。 中国で有名な昔の武術家の中にも、体力と気力を養うためにスタートした人はいらっしゃるようだ。元々虚弱体質だったとか、若い頃、重い病気にかかってしまい、健康回復のために太極拳などの中国武術を始め、長く継続して、結果的に健康を回復して長生きしたとか、そういう人はいらっしゃる。 私の場合、当然のことながら、昔の達...

駄目な自分…ダラける自分…言い訳する自分。…それも自分。

イメージ
心を整えて太極拳の動作を無心になるほどやっていけば、やはり気持ちが良い。とはいえ、私も人間なので、いつも同じテンションをキープできない。時にはダラけたり、逆に、やる気が出て欲張りになったりと、その時々によって心持ちはいろいろだ。 欲張りになるというのは、妙にやる気が出るとき。例えば、棒術でレベルの高い人の素晴らしい動きをみた後に、「自分も、ああいう事をやってみたい!」、「ああいう套路を格好良くやってみたいな。」、「あんな技を綺麗にやってみたい。」と、欲にかられる瞬間がある。 逆に、ダラける瞬間というのは、最近のような酷暑が続くとき、何もしたくなくなるとか、他の事で忙しい時期に、稽古の場所へ向かう事がちょっと億劫になる…等。普通に生活していれば、1年中やる気に満ちている…なんて事はなく、テンションが下がり気味のときもある。 実際には稽古は好きだから、猛暑で稽古の場へ向かうまでが億劫なだけで、現場へ行き、みんなで体を動かせばスッキリする。そして、「来て良かった~」と思う。でも、そこに至る前の段階で、どうしても億劫に感じるときはある。 悲しいかな、とにかく中年になって痛感しているのは、若い頃よりも体力や処理能力が落ちているという事実。昔の自分は、1日のなかで聖徳太子ばりに複数のことを同時並行でやってのけた。短時間で複数の事を、次々と涼しい顔でやってのけたものだった。会社員時代は、連日、猛烈に仕事を頑張る事もできた。 でも今は、中年になって疲れやすくなり、いつも「いかに手を抜いて楽をするか」という事ばかり考えてしまう。家事の手抜きは勿論のこと、今現在、請け負っている作業についても、若い頃の自分ならば「もっと時間をかけて内容を追求するぞ!」という感じだったのに。 最近は「まぁ、今回はこのくらいにしとこうかな。疲れてきて頭が回らなくなってきた…」という具合。「落としどころを早く決めて、早く終わらせたい」と、終わらせて楽になる事ばかり考えてしまう。 これが中年の悲哀というか、老年期に入る前段階の、疲れが抜けにくくなった人間の現実なのだろう。 思えば、私は少し前から、スケジュールの濃密さを避けるようになった。そして、どんな事に対しても、かける時間をなるべく短くしたいと思うようになった。以前は連日、何かしらの予定でスケジュールがいっぱいに埋まっていたのだけど、最近はスケジュールがパン...

気沈丹田を意識する利点は何だろう?(Part.2)

イメージ
貯蔵した気は、軽快に動くための動力源 太極拳の攻防の動きは、相手と接している前提のものであり、1人で套路をやっていても、それは相手との攻防をシミュレーションしているに過ぎない。本来、相手と対峙するとき、興奮状態にあってはならない。興奮状態にある人は、全身が強張って力がみなぎり、繊細な感覚が鈍る。相手と自分の状態を冷静に察する事ができない。 丹田に気を下ろす意識を持つことで、心身の安定感が保たれ、頭に血が上るような、のぼせた状態は避けられる。相手との攻防など一切意識せず、健康法として套路のみを励行する人も、興奮状態で動けば気持ちよく運動できない。興奮と緊張で硬い動きになれば、血圧も上がり、筋肉疲労も溜まり、体内の老廃物を上手く流せない。 気の概念からすると、 臍下丹田あたりは気が満ちている場所(気海) であり、スムーズに動く為には、満ちた気をそこから全身に運ぶイメージを持つと良い。そうすると筋肉に無駄な力が入りにくく、心が 落ち着く。 さらに太極拳の分野では、気を「旗振り役」とみなす事がある。温存している人体内の気を、意識を集中しながら、必要に応じて人体の中で巡らす。そうする事で、気はヒトの活動を促す為の「旗振り役」となり、太極拳の攻防において勁の誘導役となる。ちなみに太極拳に関連する昔の理論書の中には、「氣為旗(気は旗をなす)」という味わい深い言い回しがある。 太極拳に関わる昔々の理論書をいろいろ読んでいくと、おもしろい表現によく出くわす。気が沸き立つ…とか、気が鼓蕩する…等々。 十三勢行功歌という、武術の鍛錬の要領についてうたった古くからの歌訣がある。この歌訣は、現在、我々太極拳愛好家の学びとなるバイブルの中の1つでもある。 十三勢行功歌の中に、 「刻刻留心在腰間 腹内鬆静気騰然」 というフレーズがある。大雑把ではあるが自分なりに意訳してみると、大体こんな感じ。「随時、腰のあたりに心を留めて、 腹内を力ませずに柔軟にし(鬆静)、腹内にある気が沸き巡るようになる(氣騰然)」。 ただし、 太極拳の攻防において、気はいったん背骨あたりに収める…という考え方がある。むやみに沸き立たせて気を方々へ散らしては勁を誘導できないわけで、攻防の技に気を活用するには、浪費せずに大切に収めて上手く運行させる必要があるだろう。太極拳初心者の方がこのイメージを体現できるか?と言われれば、で...
随筆太極拳 - にほんブログ村

↓ Amazonサイト《太極拳》関連商品