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ゼロになること

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2024年。年上の親族の病気や死があり、改めて、死とは、老いとは…について考えた。昔、 キューブラーロスの「死ぬ瞬間」 という本を読んだ事がある。 臨死体験を単に紹介するという内容に限ったものではなく、ヒトの自然な死についても触れてあり、深く考えさせられる内容だ。 実際には、死ぬ瞬間の状態は、絶対に生きている人間には分からないはず。 臨死体験という言葉があるけど、本当にその人が死んでしまったわけではないので、やはり死ぬ瞬間がどうなのかを知っているのは、すでに亡くなった人だけだ。亡くなった人に、「死んだ瞬間、どんな感じでしたか?」とは永遠に聞けない。 死ぬ瞬間というのは、誰であっても、いつか自分の寿命が来た時にしか分からない。今年、亡くなった高齢の親族は、1年間、持病で体調が安定せず亡くなった。しかし死因は老衰という診断で、最期の日は安らかで、苦しみや痛みに悶えて最期を迎えたのではない。 今、ガザなどで子供が空爆や飢餓で苦しんだり、乳児が寒さで亡くなったりしている事を思えば、日本に居て、90近くまで生 きて、温かい蒲団で、自然に目を閉じで死を迎えられるのは良い事なのかもしれない、そう思える。 中医学では、先天の気と、後天の気があると考えられている( 過去記事参照 )。 気(气・氣 ・qi) は、気功や太極拳の分野においても、上手く活用すべき重要なも の。 先天の気に関して言うと、生まれたとき潤沢にあったものが、亡くなるときにはゼロになるのだと私は思っている。ゼロになる体…という歌詞の歌があったのを思い出す( https://amzn.asia/d/8wUYZEt / https://amzn.asia/d/brJmUE8 )。 後天の気は、生きて行くうえで、体を維持するために、体外から取り入れて補うもの。呼吸で酸素を取り込んだり、水穀、つまり食べ物や水分から、自分の生きるエネルギーを得る。それが気血となって人間活動のベースとなる。 高齢になって死が近づくと、生きるためのエネルギーの補給は、徐々に必要とされなくなっていく。そうしてゼロの状態へ近づく。 衰弱している人でも、死の前日、または当日まで、少しの食べ物を口にする事が可能な人もいる。それでも、高齢であるほど消化器官の機能は衰えてしまっており、死の直前に、数口でも食物を口から取り込んだとして、その食べた分の栄養を...

ダリ展

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今年は個人的に(親族の死去等もあって)波乱の一年ではあったのだけど、そんななかで少しの充実した時間もあった。ダリ展に行ってきた。 ダリの絵は前々から好きで、是非みておきたい展示だった。 ダリと言うと、人物は、ちょっと奇怪というか、奇をてらったような行動をした人、というイメージもある。でも実際には繊細な人だったらしい。繊細だからこそ、独自の発想、細やかな色使いの素晴らしい作品の数々を残したのだろう。家族との軋轢があったり、自分を抑えつけていた面があった人らしい。結果として、それが絵画の才能として開花した人なのだろう。 私は絵画にはあまり詳しくないのだけど、これまで様々な美術展に足を運んできて、いろんなテーマの絵画展をみてきた。どんな画家にも、異なる作風が現れる事がある。若い頃に描いていたものと、年齢を重ねてから描いたものが、全く異なる作風になる場合もある。 それはきっと熟練の技を身に付けた結果だと言えるし、1人の画家が人生を重ねながら、変化、変遷を辿っていった、という事でもあるのだろう。作風が変わるという事は、その人が、その時々で、こだわって築きあげたいと思ったものが、実力を培いながら自在に変化していった結果かもしれない。 それから、生きた時代の流行が作風に影響したケースもあるだろう。大抵は、若い頃にはこんな作風で、歳を重ねたら、こうなった…、という、若い頃と晩年、大きく2つのパターンに分かれる画家が多いように思う(美術史にそう詳しくないので勝手な感想だけど)。 ダリの初期の作品は印象派の作風だったようだ。人生で通った道筋、影響を受けた人などによって、若手時代にみられる絵の特徴は確かにあったと思う。でも、それよりも器用さというか、やっぱり天才と言われる人だと感じる。 印象派の作風でも描いていたけど、ロートレックのように広告デザインなんかも手がけ、また、舞台装置による演出までやっていて。それでいて、彼の代名詞ともいえるシュールレアリスムの代表とされるような幻想的かつ独創的なものを描いている。 そのどれもが、若い時とか、晩年だとか、人生の前半と後半という括りで、パッカリ分けて語れるものではないように思う。生きている間のどの時代にも、どんな作風にでも描ける実力と器用さを持っていた人のように思える。 その時々で、心の中にあるものを、どんなふうにでも描き出せる人だったのではない...

心に残る作品

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12月も半ばを過ぎた。2024年は、ずっと落ち着かない状態で過ごした。今年、私の近しい親族が高齢で亡くなった。持病はあったけれど、最期は苦しまずに、眠るように亡くなった。余談になるが、その高齢の親族は、過去に両膝に人工関節を入れていた。火葬後、人骨に埋もれて人工関節が2つ(両足分)出てきた。他にも、配偶者の遠縁に、今年亡くなった人がいた。その遠縁の人は60代で、早過ぎる死だった。親族は早すぎる死を悼み、残念に思っている。本人が一番無念だったと思う。 当たり前だけど、人はみんな、どんな人でも、いつかは死ぬ。自分の親族のみならず、ネットニュースなどで、俳優、歌手、政治家など有名人の訃報を目にするたびに、そんな当たり前のことを実感する( 過去に死についてふれたブログ記事 )。この数年だと、俳優の渡辺裕之さん、渡辺徹さん、シンガーなら、もんたよしのりさん、八代亜紀さん、谷村新司さんなど、自分が子供の頃からずっと観てきた人達が亡くなられた。漫画家の楳図かずおさんも。そして同世代の中山美穂さんまで…。 私は特に中山美穂さんのファンではないけど、同世代なのでヒットした昔の歌は記憶している。「 Sea Paradise -OLの反乱- 」、「 Rosa 」 、この2曲が私の印象に残っている。昔、「Sea Paradise -OLの反乱-」という曲を聞いたとき、「こんな歌も歌うんだ~」という新鮮な驚きがあった。ミディアムテンポの難しい曲。本人が作詞をしていて、歌詞が独特で印象的だった。「Rosa」という曲は、私が昔、学生時代にバイトしていた先で、ずっと有線で曲が流れていて、当時、何度も聴き過ぎて、すっかり覚えてしまった。 有名な方の死というと、さかのぼれば、今は亡き俳優さんの中に、私が幼い頃みていた昭和の名優と言えるような、味わい深い演技をされる方もおられた。例えば、随分前に亡くなられた植木等さん。「 スーダラ節 」は、たぶん私の親より上の世代が、若い頃に聴いていた曲だと思う。コミカルかつ煩悩いっぱいの歌詞。今、ネット動画でこの歌を聴いてみると、人間らしい、ちょっとだらしない歌詞がなかなか良い。人は誘惑に弱く、滑稽な生き物だ。 「人間だから、失敗する事もあるよね」、「人生には、物事の歯車が噛み合わない時期もあるよね」、「すべて完璧ではなく、みんな多少はだらしない部分もあるよね」と、他...
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