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思考はグレーゾーンで

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実は、グレーゾーンって大切なのではないかと思う。昔、金利の話でグレーゾーンってよく聞いたものだけど、金利の話ではなく、人の思考に関してのグレーゾーンの事だ。 自分の周りの人を見ても、そして私自身の過去の言動を振り返っても、極端な二元論的な考え方をすると、大体、物事を進めるときに失敗したり、人間関係が危うくなる事が多かったように思う。 「絶対にこうでなければならない」、そして、「それ以外のやり方は絶対に駄目」、そういう考え方は、自分の事も、他者の事も、追い詰めてしまうからだ。 1つの事に関して、「取り組む方法が、コレか、正反対のアレしかない!」と思い込む事で、正反対の中間にあるものを見落とす。そうして自分の活動や思考の範囲を狭めてしまう。また、他人のアドバイスも受け付けなくなりやすい。 育ってきた家庭環境も少しは影響しているかもしれないし、また、幼少期や学生時代に大人から受けた指導や教育によって、「絶対こうじゃなければいけない!」という答えを延々と求められ、その結果、そのような思考に染まりやすくなった人も多くいると思う。 そういう思考に陥りやすいという事は、「絶対に1つの回答しか受け付けない!」という環境にあった可能性は大きく、思考の癖のようなものが抜けないケースはあるだろう。 もし、「ああしなさい。こうしなさい。答えはこれしかダメなんだよ!」、そんな強引な環境下で長い間、過ごしてしまったら、思考の転換はかなり難しくなる。強引で一辺倒な指導や指導や教育しか受けられなかった場合、ヒトは常に、「間違えたら、どうしよう!」という恐怖と戦いながら過ごす。 そして、常に”お利口さん”でいなければと思い込んで、白か黒かハッキリした答えだけを出さねば!と思い詰める。もし極端で危うい考えが導き出されたとしても、それしかない!と思い込み、柔軟に発想を切り替える事もできず、白か黒かの分かりやすいものに飛びついて選択してしまう。 学習、勉強というものは、結果はもちろん大事なのだけど、「結果を見出すまでの過程」もすごく大切だ。どういう過程を辿るかによって、人は思案し、工夫し、その過程を経て成長する。 例えば、思うような成果が得られない事があったとしても、物事を作り上げる過程そのもので、思考訓練ができ、成長する。そして、心が豊かになったり、物事を多方面から考える訓練となる。そうすると、発想に柔...

隙間時間を使う

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忙しい人の中には、業務で多忙な人、それ以外の生活面、例えば親の介護、子育て中の人、遠方に親がいて頻繁に様子を見に行っている人…等々、いろいろな方がいらっしゃる。太極拳仲間の中で、会社員生活を送っている方などは、稽古に十分な時間が取れない人も多い。 本来、太極拳などは、対面でジックリ指導者と向き合って稽古を重ねる事が望ましい。しかし業務多忙などの事情がある場合は、稽古を隙間時間に行う事もできる。 ヘビーな仕事を抱えている人がいたとして、仕事の合間のちょっとした時間にできる稽古メニューは結構ある。立つ訓練もできる。長い時間をかけて頻繁に深く学べたら、それが一番良い。だけど、忙しい日常の、忙しい仕事の合間に、一回あたりは短時間でも、隙間時間を使っての鍛錬を怠らないようにする。その姿勢があれば、その人は積み重ねていけるし、それこそ功夫だと思う。 どんな分野でも、誰もが発展途上であり、人によって到達点が深いか、浅いかの違いはある。自分の学びの過程を決めるのは、その人自身だ。他人が強く指図したり講釈する類のものではない。人には、それぞれの生活がある。みんな暇じゃない。日々、その人ができる事を、その人が選択するレベルで続けていくしかない。 私の知人の中にも、昼間は毎日フルタイムで仕事を頑張って、夜は家族の為に時間を費やし、週末のちょっとした時間にやっと武術の稽古ができる、そんな人がいらっしゃる。大事な自分の時間を、いろんな事にバランス良く調整し、頑張っておられる。 スケジュール管理は大変だろう。そんな人に対して、「週末に少しばかり稽古したって無駄さ」なんて厳しい事を言う人がもしいたら、それはどうなのだろう。相手の立場や家庭環境を熟知していない人からそんな事を言われたら、社会で忙しく活躍している人などは続けられなくなってしまう。 「自分は時間が取れない。限界だ。やめるしかない…」、なんて事になり、時間的にも気分的にも追い詰められる。 忙しい中でも、時間を少しずつ捻出して対応する、そんな人達がたくさんいて、好きな事の稽古を頑張る。日によっては短時間でも、時間を調整し、稽古の時間を捻出する事は、本当に素晴らしい事だ。 人それぞれ抱えているものがあり、日々の多忙な中での暮らしがある。そんななかで、好きな事ならば、忙しくても継続できる。時間ができたとき、集中して頑張る事ができる。隙間時間を...

若いからできる!?

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自分に制限をかけてしまう「〇〇だからできない」の心 もうずっと前から、私が稽古を初めた頃から今に至るまで、御高齢の人生の先輩方から何度も言われてきた言葉がある。「あなたは若いからできるのよ」、「若いからいいよね…」「若いから…、若いから…」。 世間的には、私はどっぷり中年世代に浸かっていて、ぜんぜん若くはない。それでも高齢者層の年上の人からみると、私は親子ほど年の差があるので若いと言われる。 後期高齢者の方などは、確かに体力的な限界はある。私自身は、年齢的に高齢者の仲間に入ってはいない。でも年々、疲れが溜まりやすくなり、たまに関節が痛い~という時もある。 日々、適度な運動を励行しているけど、自分の5年前~10年前と比べれば、体の状態はまるで違っていて衰えを感じる。 だから、人生の先輩方が、年下の私を見て、「若いから良いよね」、「若いからできるんだよね」と言いたくなるのも、半分は理解できる。しかし、半分は納得できない。 納得できない理由は2つある。 1つは、「若いからできる」、「高齢だとできない」という決めつけが、何ともむなしい気がしてしまうから。決めつける事で、ネガティブな方向に生きる姿勢を向けてしまっていると思える。年を追うごとに衰えるのは確かだけど、私は過去に、高齢でも向上心の塊だった自分の太極拳の先生をみてきた。ほかにも80代、90代で絶えまなく、いろんな分野で向上している人達をみてきた。だから、単純に「若いから」「年だから」とくくって、年齢を言い訳にしてしまう事は、何となく残念に思える。 「年だからできない。」、「〇〇だからできない。」、この言葉は、自分に制限をかけてしまう。 年齢を重ねるほど疲労が取れにくく、頭の整理も難しくなるけど、だからといって、「若いから、できる」、「年を取っているから、できない」という決めつけ方はむなしい。人生一度きり。駄目だ、駄目だ、と思い込み、最初から自分の道を閉ざしてしまっては、もったいない。 太極拳なんかは、高齢からのスタートでも、熱心な方は必ず成長できる。その人ができるところまで継続し、向上し続ける事が可能な分野だ。 新たなチャレンジを続ける後期高齢者の方は、たくさんいらっしゃる。80代から新しい事にチャレンジして、前進し続ける人は多い。逆に50~60代でも、「もう年だから…」と、自分の成長を諦めてしまう人もいる。誰しも体...

ニセモノは無いが、正しくない事はある

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悪い癖と良い癖 太極拳の動作について言うと、それぞれの指導者の癖が出る事はある。また、理論内容の受け止め方にも、指導者によって解釈に微妙な違いはある。指導者の習熟レベルによっても、いろんな解釈、受け取り方に差異が出る。 こういうのは太極拳に限った事ではなく、きっと、どんな分野にも言える事だろう。 太極拳では、どう動くか、どう手足を配置するかといった事の中に、隠れた理屈がある。もし動作に人の個性が表れた場合、その個性が滅茶苦茶で粗っぽいものなら、他人にとって参考にならない。 もし個性ある動きの中に、きちんと裏付けとなる教えが隠されているなら、その場合は参考になる。癖があるようでも、実は理にかなった動きであれば良い。少しばかりその人の持ち味が出てしまっても、理屈に叶った教えを踏襲している動きなら、他者からみて見習うべき面は多いだろう。 単に荒々しく、理屈や教えを完全に無視している場合、それはただの悪い癖となる。大切な要素を無視した変な癖は、容認せずに正しい方向へ修正しなければならない。 遥かにレベルが高いベテランの指導者がおられる場合、その人の動作に出る個性には、積み重ねた経験から来る独特の風格、重厚さが見て取れる。それは、長年の稽古と苦学の末に醸し出されるものだ。自分勝手に動く変な癖とは全然違う。 「足をこっちに向けますよ」、「手はこの形にして、こっちへ出しますよ」というのは、初心者の方が学ぶときは重要な事。しかし、既に専門性をそこそこ身に着け、指導者の域に足を突っ込んだ人の場合、当然それだけでは足りない。 「なぜ、そうなるのだろう」、「なぜこういう動きをするのか」、それを少しずつでも理解していきたいもの。丁寧に人に説明できるよう、勉強を重ねていく。そうすることで、指導する側にも、指導を受ける側にも、信頼感や安心感が生まれ、稽古内容は充実する。 指導者側は、アウトプットによって頭の整理が徐々にできるようになる。指導を受ける側は、頻繁に、そういうことか!と閃きを感じ、充実した中身に触れる事ができるようになる。 指導者の場合、当たり前に、考えや根拠を丁寧に説明できる事が理想だと思う。しかし、それは大変難しいので、その為の努力を怠ってはならない。 難しい分野なら迷いはゼロにならないけど、よく学べば迷いは徐々に減っていく。理解する努力を続ければ、だんだん適切な判断や解釈を導く...

優しかった父

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私は、小学校低学年の頃、あるアイドルデュオに憧れていた。当時の私の将来の夢は、そのアイドルデュオそのものになる事だった。小学生で、しかも低学年の子供が考えるような事だから、今思うと、幼稚な夢だったと思う。憧れのアイドルデュオに本気でなろうと思っていたのだから、いかにも子供らしく単純だった。 その当時、ある日、私は父に話してみた。好きなアイドルデュオに、将来、自分もなりたいと思っている事。なりたいのだけど、もし、その職業に就けたとしても、「果たして世の中の人の役に立つ仕事なのか?」という疑問を持っている事。 父は、決して私の幼い夢を馬鹿にする事なく、私に対して、こう言った。「世の中の人の役に立つ職業だと思うよ。楽しく踊ったり歌ったりする姿を人に見せる事で、人を喜ばせたり、幸せな気持ちにさせる事ができる仕事だからね。」、そんなふうに言ってくれた。 なぜか、そのときの私は、意外と心の中は冷静で、自分が将来、本当にそのアイドルデュオになれると芯から思ってなかった。それより、当時、嬉しかったのは、父が、私の夢を否定しなかった事だ。 私の母は逆のタイプで、私が幼少期から、何か言うたびに、否定したり、からかったりした。母は、なかなか私の意見を快く認めてはくれなかった。 父は、そんなことは無く、いつも私の存在や意見を尊重し、肯定してくれた。私の父は、もう随分前に、亡くなっている。この世に父がいなくなって長い時間が経ってはいるけれど、父が生前、ずっと私の存在を肯定してくれていたお陰で、私は今、生きられる。 中年になっても迷いが多く、自分に自信が無くなったときや、不安でいっぱいになったとき。深刻に考え込んでも、次第に開き直り、「もう、このままで良いか」、「大丈夫かも!」と、不安を拭い去り、少しずつ前進できるのは、昔、父が私をいつも肯定してくれていたお陰だと感じる。 亡くなった父のお陰で、私が今、生きていく上での迷いが減っている気がする。父をずっと前に失っていてもなお、父の私への気持ちは、私の中で大切な意味を持ち続けている。 父を亡くして久しいが、私はいつも、いまだに他人から様々な事を与えられ、教えられている。人生の先輩から、生き方、考え方などを常に学ばせていただいている。 いろいろな人と接していれば、当然、稀に、到底、生きる姿勢が参考にならない、粗雑で意地悪なタイプの人に出会う事もある...

今日は、ユネスコが設定した「国際太極拳の日」

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今日は国際太極拳の日…、という事で、改めて、太極拳の魅力について語ろうと思う。 昔の武術家の残した文献などをみれば、深い哲学的なワードに触れる事ができるので、太極拳はただの運動ではなく、「生物としての生き方そのものを学ぶ学習」とも言える。学んでいく事に、大いに楽しめる要素がある。 実際に相手と組んでいない場合でも、例えば理論を学んだり、1人で動く套路の中にも、学びの意義は見出せる。特有の感覚をもって継続する事は楽しく、また奥が深く、学びの底なし沼にはまって抜け出せなくなる。 夢中になって動いていれば、日常の嫌な事をかなり忘れる。理論を学べば、それが古代の哲学や、伝統医学、道教などの分野について少しばかり知る事に繋がり、興味は薄れる事が無い。 そういうところ、全てひっくるめて、すべてが太極拳の魅力。推手には推手で得られる感覚があり、套路には套路で感じられる心と体の安定や感覚があり、そして理論の勉強には、ヒトの感性を磨く要素がいっぱいだ。 中医学や哲学のような、独特の古来からの教えが太極拳理論には内包されているので、そこを、「どうやって理解していくのか?」、「言葉の解釈はどうやったら良いか?」、「自分の動きと、それが、どうリンクするか?」、そんな事を考えれば、やはり難しい事もあるので、果てしなく自分が小さく見える。そこがまた深くて面白い。 様々な武術理論には、そういう諸々の中身、教えが表現されている。ちょっとした生きるヒントにも繋がるから面白い。理論を味わう事で、太極拳そのものの事だけではなく、自分の日常生活や、体の中を意識する事に対し、いろんな気づきがある。 日常生活の中で、 ・自分は「緊張し、こわばった状態」で生活していないだろうか? ・人間関係を築くときに、過剰に気を張って、常に目をギラつかせて異様な戦闘態勢に入っていないだろうか? ・心に余裕が無くなり、ストレスを溜め、最適なパフォーマンスを発揮できていないのではないか? ・できる事を勝手に「できない判定」して、日々の積み重ねをサボってないか? …等々。太極拳の理論を学ぶと、そういう事にも気づかせてもらえる。 相手のみならず、自分自身を知る為に必要な事は、動きの訓練だけでは無い。太極拳の背景にある理論を学び、読み解き、知る事も重要だと思っている。太極拳は、中国の悠久の歴史の中から育まれたもの。 太極拳の動きを継続...

站樁功

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姿勢を繊細に整えていく 太極拳の初心者の方が、もし指導者の動きを見るのみ、みようみまねだけで套路の順番を覚えてしまえば、細やかな姿勢の要領などは掴めず、沈勢なども意識されず、妙な踊りみたいな誤った動きになりがち。やはり、指導者から詳しい説明と手ほどきを受け、動きを整えていく方が良い。勿論、動画やリモートではなく、そばで指導を受ける方が断然良い。 どんな分野でも、始めはまずシンプルな基礎訓練をやって、その後、長年の経験を経て、年月が経過してから、自然にその人の持ち味が滲み出てくる。まずは個性を消す。地味に基礎訓練に集中した方が良い。 書道なら、最初は、縦線、横線、はらい、止めなどを何度も、そればかり練習する。ピアノも、簡単で単調な曲や、指の基礎練習から始め、年数が経って慣れてきたら、徐々に難しい曲にチャレンジする。 太極拳の場合、まず大切なのは、地味に立つだけの訓練を続ける事。こういった分野を学んでいる人には必須であり、また周知の基礎訓練で、「站樁功」、または「立禅」とも言う。ちなみに 樁の 漢字は間違いやすい 。(椿ではない。) 「站樁功」、または「立禅」。両者の要領は似ているけれど、厳密には違う。立禅は和製の感が強く、站樁功と同様のものと見なすケースもあるけど、全くイコールでは無い。類似点をあげるとすれば、いずれも正しい姿勢と精神状態で続ける事ができれば、心が澄み、やや入静状態となり、己の心身を深く理解する手立てになる。 滅茶苦茶ダラけた姿勢で行っては無意味であり、繊細に姿勢を整えてから行うもの。関節の緩め加減や、骨盤の据え方、胴体や両手足の配置なども、整えてから行う。 なかには、「何も細かい事を調整せず、ただ単に立ち続ける」というやり方もある。しかし、行う各武術などに適した心の状態や姿勢をつくる、という意味では、整えるべき箇所は複数に及ぶ。繊細さも求められる。 もし不自然な姿勢で、ぞんざいに姿勢を整えずに立てば、無駄な力みが出て、自分の内外の調整には繋がらない。 稽古開始から間もない慣れない人は、この「杭のように立ち続ける姿勢」に、しんどさを感じてしまう。でも要領をきちんと学び、姿勢を整え、何度も取り組んで慣れていけば、疲れなくなるし、立ち続ける時間が心地良くなってくる。 初心者の方は、やはり指導者に細かい姿勢の要領を見てもらう方が良い。慣れてくると、 心身とも...

”推し”は李亦畲(心に残る先人のエピソード)

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私みたいな、何においても大成してない人間であっても、李亦畲の武術研究への姿勢には大いに共感する。また、大いに感銘を受ける。李亦畲は、昔々の武術家であり、探求心が強くて有能な武術研究者でもあった人。 彼は、武禹襄の弟子だ。武禹襄は、太極拳愛好者ならよく耳にする名前で、太極拳理論の大家とも言える人。その武禹襄の弟子(甥でもある)が李亦畲だ。現代の太極拳の分野では、あまりにも武禹襄がメジャーなので、武禹襄の名声の陰に隠れて李亦畲の名は霞んでしまいがち。太極拳愛好者でも、この人物を知らない人がいるかもしれない。太極拳に縁のない人なら、なおのこと聞いた事も無い名だろう。 現在の太極拳理論の分野で有名な武禹襄の影には必ず李亦畲がおり、彼がいなければ武禹襄の功績が明るみになる事はなかったと言える。今現在の太極拳の分野では、王宗岳と武禹襄は理論の権威とも言える目立つ存在で、論述においては二大巨頭みたいなもの。しかし、やはり武禹襄の存在だけでは成し得なかった事を李亦畲はやっていたと思う。彼がいなければ、彼の残した記録がなければ、有名な王宗岳太極拳論も、武禹襄太極拳論も、私達の目に触れる事はなかったかもしれない。 だから、この李亦畲という人こそが、私達のような太極拳愛好者が学ぶ理論のベースを築いてくれたと言っても過言ではない、私はそう思う。彼は、師匠の武禹襄と並んで、太極拳理論を語る上では欠かせない重要人物だ。 武禹襄も李亦畲も、功績を残そうとして技の研究を行っていたわけではない。純粋に好きな武術の技を突き詰めながら過ごし、また王宗岳の理論に影響を受け、理論と実践をひたすら追求してきた人達だ。 ネットなんかで、王宗岳が自分で太極拳論を公開し、王宗岳が太極拳を普及させた、という記述を見た事があるけど、そうではない。太極拳普及の裏には、過去、様々な人がいて、その中の一人が楊露禅であったり、彼の息子達であったり、それから武禹襄、李亦畲、李亦畲から学んだ郝為真など武式門派から出た人々の存在も大きい。 過去の武禹襄や李亦畲の理論を記録したものは、もともと弟子や親族に託されたものであり、武禹襄と李亦畲が世間に向けて公開した事などない。二人とも、後世の太極拳の分野に名を残そうとか、偉くなろうとか、大きな功績を残そうとなどと考えていたわけではない。 ただ一緒に、武術の技の研究に邁進していた。純粋に好き...

「分かるようで分からない」が延々と続く

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難しいから飽きる事なく学べる 太極拳套路も、推手も、それぞれの面白味があり、どちらも真剣に学べば難しい。だから飽きる事なく、その気があれば一生続けていける。 套路も、推手も、皮膚感覚や脳内の感覚など、体中のすべてを総動員し、繊細に機能させて動く。套路における独特の丸みをおびた動きの中にも一線の流れがある。套路の中の攻防の原理を直接、相手に触れて体感できるのが推手訓練で、これまた難しく、学びは延々と尽きない。また、推手と言っても、私は経験ないけれど競技用や表演向けのものもある。愛好する人によって、その方法はいろいろだ。 套路については、健康法として行う高齢者の方は多い。その人達も難しさを感じておられる。最初はまったく自分の動きが制御できないからだ。それでも1年以上経つと、徐々に良い変化が表れる。高年齢でスタートした方も、動きに慣れていけば、しなやかな良い動きへと徐々に変化していく。 太極拳は中国武術なので、当然、攻防の原理がそこに存在していて、相手と接触している中で攻防が展開される。やはり特徴的なのは、まろやかな円の動き。相手に貼りつく感覚と、互いの円の動きの中で動作は展開する。 攻撃と防御の「直線的な境界線」が分かりづらく、相手が体勢を崩せば自分の攻撃が成された事となる。推手では、ヒヨッコの私には、ただ動くこと自体も難しい。本当にレベルが高い先輩達の中には、計算づくで、感覚的に、思いのままに動く事ができる人もいる。ヒヨッコレベルの私などは、はるかに高いレベルの先輩方の自在なコントロールを見れば、素直に、おぉ~凄い!と思う。 対錬の場合、相手が押してきたときは自分の防御のときだけど、そんな単純な図式ばかりでは無く、防御と攻撃がほぼ混在して展開するような瞬間もあるわけで…。結局「いつ」が「何の瞬間」なのか分かりづらい。接触して動いていく中で、「ここが起点」、「ここが終着点」「どこまでが攻撃」、「どこまでが防御」という、線や点のクッキリした境目が見えない。 円動作で連なり、相手に延々と粘着して動いていくのが太極拳の動き。まろやかな円の動きの中に、いつのまにか線状の流れが現れたりする。そのような単純明快過ぎないところが奥深くて興味深い。 当たり前だけど、相手がいれば自分本位で動けず、体のコントロールが難しい。套路は良くも悪くも、自分本位で動こうと思えば、どんなふうにでも動け...

言葉を発する場合

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学び続ける理由 野球選手では無いのでプロもアマも無いけれど、意識の上では、太極拳を教える側は、”プロ意識”を持っておいた方が良いと思っている。プロ意識が持てなくても、せめてセミプロ意識くらいは、指導者ならば持っておきたい。 高いレベルにはない私なんかでも、稽古の場では、太極拳の指導者として、専門知識を持つ者として、皆様の前に立っている。だから、その分野について、常に勉強を続ける。 もし自分が曖昧な知識しか持たず、人に対し、学ぶべき内容をしっかり伝える事ができないなら、教える立場を継続する事なんてできない。勉強を継続せず、現状維持のまま、他人に貴重な時間を費やしてもらう事はできない。 稽古に来てくださる皆様も、年数が経てば上達していく。もし指導者が怠慢だったら、説明する言葉に説得力は無くなっていくので、レベルが上がった参加者の人達は満足できなくなる。指導者は、延々と学び、自分のレベルを上げていかなければならない。学びには終わりがなく、決して立ち止まる事はできない。 これまで私は、太極拳の分野に関わらず、 様々なジャンルに属する有能な方々の話を聞く機会に恵まれた 。仕事でも、何においても、膨大な量の学びを継続し、あらゆる経験を積んできた人生の先輩方から出る言葉は、やはり説得力がある。経験豊かな上に、幅広く得てきた知識を、いろんな言い回しで、ときには難題を解決してきた苦労話などを交えながら、バランス良く語る事ができる人。そういう人は、人間性においても魅力に溢れ、精神も落ち着いている。 誰かが他人に対して、何か特定の分野について語るとき、一度に話す「言葉の量」が多いか?、少ないか?、は、その人の持つ説得力には何の関係もない。現に世の中には、中身の無い事を、ただひたすらペラペラと喋り続ける人だっている。 学びが無ければ説得力のある発言はできず、薄い内容を延々と垂れ流す事になる。そういう人は、話を聞いている相手に対し、無駄な時間を過ごさせてしまい、かつ混乱させてしまい、気づかぬうちに相手に苦痛を与えてしまうが、自分ではそこに気づきにくい。 それから、たとえ何かの分野で優秀な人でも、他人の批判ばかり繰り返す人の言葉は、一瞬なら耳を傾けたとしても、だんだん聞くに堪えなくなってくる。他人の批判ばかり繰り返す人は、大体、険しくて意地悪な表情をしている。他人の批判ばかりの内容だと、聞かさ...

体が楽になり、心もこだわりが無くなっていく

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年度末が近づいてきた。やはり3月は、抱えている事がますます忙しくなる。しかし…、やる事がいろいろあるというのに、こんなふうにブログを書いている自分。実は、忙しくなるほど、ブログを書きたくなる事がある。 いろいろ書いていく事で、心を落ち着ける効果があるので、必要な時間に思える。忙しいのに緊急性の無いブログ記事を書くのは、まるで受験生が勉強よりも掃除をしたくなるのと似ているかも? でも忙しい時こそ、自分が好きな事を考える時間を持ちたい。頭を切り替えて、没頭できたら良いと思う 。 勿論、ブログを書く事と同様、体を動かす太極拳の稽古も、繁忙な日々には特に必要だと思っている。心身をリセットする癒しの時間だ。 自分の体を支えるのが楽になっていく 太極拳の良さや面白味を感じ、良い意味で、動く事に対して一種の中毒になっている感じが、もう何年も続いている。良さ、面白味をどこに感じるかは、人それぞれだと思う。 太極拳の中身には、いろんな要素がある。ひとつの良さといえば、静寂の中で動く心地良さというのがある。昔、初心者の域にある頃は、なかなか感じられなかった感覚。長く稽古を継続しなければ、動いているとき特有の「水中散歩」、はたまた「空中遊泳」のようなフワリとした感覚は味わえない。 初心者の場合、誰でも無駄な力が入ってしまう。長く稽古を重ね、苦手な動作を何度も反復し、精神の乱れ無くし、力まずに動ける段階になったら遊泳の感覚がやってくる。 入静状態とでも言うような、何とも言えない心の落ち着きの中へ入り込む。やはり座禅を経験したときの感覚と似ている。 何年も継続していくと、本当に自分の体が浮いたような感覚になる。勿論、わざと上に飛び上るのでは無い。心を静め、自分の重さを静かに床に落とし、無理なく地面に沈むような感覚で立つ。そうすると必死に立たなくても安定する。 地面側が、自分をしっかり支えてくれているのを感じる。地面から力を受け取る感覚になると、自分の足で体重を支える事が、すごく楽になってくる。 そうして、心と体の両方が、とても軽くなる。雑念がますます遠のく。 まるで、起きているときと寝ているときの中間のような感覚。雲の中で動いているようで、静かな心になる。軽やかに、無心に体を動かす遊泳の感覚は、年々深まる。 水中散歩の感覚になるとき、決して重心が安定してないわけでは無く、軸がブレているわけで...

カルチャーセンター等で活動してきた事について

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私は過去に、カルチャーセンター等で講師を勤めた事がある。主に、太極拳動作を指導する講座で…。このようなケースでは、カルチャーセンターや、関わる施設と契約を交わし、実際の指導後に大抵、謝金という名目の報酬を得る事になる。余計なお世話と言われそうだけど、これから講師を務める予定の方に申し上げておきたいのは、こういう分野の講師は、悲しいかな、大した収入にはならない。人に伝えながら、自分の成長の為に、常に自己投資もしていかなければならない。 「ただ、好きだからやる」、それ以上でも、それ以下でも無い。お金儲けには決してならない。だから「お金を得たい」という気持ちが強い人は、こういう分野の講師はやめておいた方が良い。他に、バイトやパートで稼ぐ方がずっと良い。 私は、太極拳の動きや、その他の養生法を人にお伝えしているので、ささやかではあるけど多少なりとも社会の役に立つ側面はあるかなぁ?…という事と、それから、人に伝えながら自分も好きな分野に没頭できるから、そのあたりに一挙両得感があり、また、胸を張って行動できる面はある。ただ、私は著名な武術家でも何でもないので、当然ながら、決して高額は頂かない。施設と契約する場合、参加者の金銭的負担が大きくならないよう、施設側と料金設定は吟味してきた。 金銭面に関して、私以外の関係者、知り合いの稽古場の傾向も含め、分かる範囲でザッと語ってみると、仲間の教室等によって、やり方は違うので、一概に言えないところはある。 健康養生法を教える教室、あるいは武術の技を指南をする教室など、指導内容が様々だし、施設の利用料も各所で違う。施設の利用料については、参加者みんなで出し合ったりする。月謝制のところについては、料金設定がそれぞれの稽古内容などによって違う。貸しビルなどを借りて自前の道場を持っているグループなら、賃貸料のせいで、ある程度のまとまった金額を参加者からいただかないと、やっていけないだろう。 私は過去に、契約している施設から、指導後に報酬を得る事について感じた事がある。昔、カルチャーセンターで私が指導を始めた初期の頃、指導者として未だ自信が無かった私は、「こんな私が報酬を頂戴していいのだろうか?」という弱気な意識が大きかった。 しかし指導者として独り立ちする前に、既に10年以上も積み重ねてきた知識はそこそこあったわけで、その積み重ねたものを素直に出...

それ正解!…と思うとき

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「太極拳の動きって、やればやるほど難しくなります~!」、教室に来てくださる方から時折、そんな言葉を聞いたとき、私はちょっと嬉しい。そうなんです、そうなんですよね~!、と応える。心の中ですごく共感し、それ正解!…と思ってしまう。 難しくなっていくと感じるのは、その人の成長の証でもある。稽古を始めたばかりの、「ワケの分からない状態で、やみくもに動いている段階」から脱したという事だから。 誰だって、慣れないうちは、ああでもない、こうでもない、と悩みながら、先生や先輩の動きをまねて動いてみる。それを続けていけば、徐々に上達するのだけど、本人の感覚としては、上達するどころか、「できない!」と思える部分は増えていって、だんだん難しくなる。 難しくなる理由は、具体的に「自分のどんなところが上手くいってないのか?」が、やればやるほど鮮明になるから。 逆に言えば、いくらやっても「徐々に難しくなっていかない人」は、残念ながら、なかなか伸びないもの。 過去には、こんな方もいらっしゃった。初期の経験段階だったのにも関わらず、「この動き。何度かやっただけで、もう完璧にできました!」と言った人がおられた。私は驚いてしまい、心の中で、そんなはずが無い…と思った。しかし、あからさまに相手を否定すれば、その人のやる気を削いだり、自尊心を傷つける事になるので、ダイレクトに「違う、そんなものではないよ」とは、相手に告げなかった。あくまでも、その人の、その時の感覚でおっしゃった事でもあるのだから。 私自身が実体験で言える事といえば、誰もが10年以上かかって、動きや精神状態を繊細に整えていく分野なのに、半年や1年で”完璧”にできるわけがないという事。 「動作の順番を追う事はできる」、それは完璧という事ではない。姿勢にしても、体のすべての筋肉の力の入れ加減にしても、心の持ち様にしても、どれをとっても難しく、たとえ稽古を10年近くやってきた人でも、微妙なさじ加減は上手くいかない。 こういうのも、 書道に似ている と思っている。例えば、筆で漢字の「二」を書くとき。上手く書くには、何十枚も、何百枚も、同じ線を繰り返して書く。 漢字の「二」の1つの線を書くとき、最初と最後の筆の運び、腕の傾き具合などには、技術が必要だ。 単純で簡単な、画数の少ない文字ほど、如実に実力が現れるもの。 下の線を書くとき、最後に半紙から筆が...

リアルと幻の狭間

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自分の体を目ではなく感覚でみる 自分の目で普段、見ているものはクリアではなく、外界の100%リアルな景色ではない。よく言われるのは、特に緑内障などの視覚の病を持っている人の場合、片方の目の見えづらい部分を、もう片方の目の見え方でカバーする事がある。もう片方の目というより、脳が、より視界がクリアに見えるよう、景色を補正してくれるという。 病ではなくても視力の問題などの面から、多かれ少なかれ、こういう現象はあるようだ。現実に自分が目で見ているものと、実際のリアルは別物。自分の体の内側だけが見えないのではなく、自分の体の表面も、そして自分を取り囲んでいる物や景色も、実際には100%正しく見えていないのかもしれない。 ところで、”だまし絵”などは、ヒトの錯覚を上手く利用してあるなと感心する。現実そのものでは無い状態に見えてしまう。絵に限らず、現実には有り得ない構造の物が、まるで実態ある物のように見えてしまう事がある。また、見ている対象物と自分との距離や角度、周囲の物体との位置関係によっても、補正する機能が働いて、見え方に微妙な誤差や変化が起こる事もある。 それから、これは別次元の話になるけれど、病によって幻覚が見える人もいて、誰もいないのに誰かが見えたり、そこに無いはずのものが見えたり、という事があるらしい。これも目の問題ではなく、脳の伝達物質が関係して起こる現象だそうだ。 ところで、過去に 本ブログの別記事 で、こんな事を書いた。 → 【人が、目視だけで何かを正確に覚えるのには限界がある。初心者の方が多い稽古場では、よくこんな事が起こる。その場にいる全員が、同じものを参考に見て、同時に同じ動作をしても、Aさんの腕は少々上がり過ぎ、Bさんの腕は横に張りだし気味になってしまう…等々。目で見たことを、寸分たがわず再現できる人など、滅多にいないのだ。だから指導者がそばにいて、体に触れ、説明を加えながら手直しすることが必要になる。】 …これは、太極拳の稽古あるあるだ。 全員が、手本になる同じ人の動作を見て、いわゆる見取り稽古をしても、再現する動きは人によって微妙に違う。つまり、多くのヒトは、他人の動作を参考に真似ても、瞬時に100%正確には捉えられず、自分の動きを制御できない事がある。 リアルとは違う”誤差”が出る理由は様々だろう。前述した脳の補正機能のせいかもしれない。あるいは、...

「年齢的なものですねぇ~」を受け入れる

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久しぶりの眼科受診 どんなに運動をして健康維持に努めても、歯と眼には代替品が無い。いや、歯に関してはインプラントや入れ歯がある。目玉に関しては、取り出して丸ごと取り替えるわけにはいかない。将来は、医療技術が発展し、眼球の機能すべてが完全な形で再生され、「目玉交換・日帰り手術可」みたいな事になるのかもしれないけど…。 私は 、これまで眼に関しては大きな病気がなく、近眼はあるけど矯正などもせず、普通に生活できている。ただ、昔から飛蚊症がある。飛蚊症歴は長いので、空を見たり、白い壁を見たときに黒いモヤモヤが少し横切って見える。 今年に入ってから、何だか黒いモヤモヤが増えたような気がした。重病でもないし大丈夫だろう…と思いつつ、「いや待てよ。もし緑内障の始まりとかだったら怖いな…」と思い、今年、何年かぶりに眼科に行った。 久々の眼科受診だったので、一通り、検査を受けた。眼圧検査もしてもらった。空気をふぁっと吹きかけられ、一瞬で終わる検査。一瞬でよく検査できるなぁ、と拍子抜けする感じだった。病院では、「視力もそう悪くなっていないし、問題ないです」と言われた。 気になる飛蚊症の悪化について、医師によく相談したところ、瞳孔を開くための目薬をした後、私の眼をよく診てくださった。先生が私の眼に光を当てて、何やら覗き込んでいた。診察結果は、「大丈夫。全く問題ないですよ。飛蚊症が気になるかもしれないけど、これは年齢的なものです。」で終わった。 重大な病気が無く、緑内障でも無く、とりあえず良かった!と思いつつ、「年齢的なもの」という言葉が心に残った。40歳を過ぎたあたりから、健康診断などで言われるようになった言葉だ。 以前、乳がん検診を受けたときも言われた。「加齢と共に、こういう画像になるんですよ」と。乳腺組織の密度が年齢とともに変わっていくらしいので、乳腺の画像診断では、若い世代と中年以上とで見え方が変わるらしい。 私は今、中年世代で、未だ高齢者に達していないので、「加齢のせい」と言われる事に抵抗感がある。心の中で、「いや~、まだ加齢と言われるほどの年齢では~…」と、ささやかな抵抗を感じる。でも、現実に若くはない。健康診断などの際に、「はぁ、そうですか。大きな病気は無く、年のせいなんですね…」と大人しく納得して帰るしかない。やはり、そういう年齢になったんだなぁ、と思う。 中途半端な世代と...
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