投稿

「年齢的なものですねぇ~」を受け入れる

イメージ
久しぶりの眼科受診 どんなに運動をして健康維持に努めても、歯と眼には代替品が無い。いや、歯に関してはインプラントや入れ歯がある。目玉に関しては、取り出して丸ごと取り替えるわけにはいかない。将来は、医療技術が発展し、眼球の機能すべてが完全な形で再生され、「目玉交換・日帰り手術可」みたいな事になるのかもしれないけど…。 私は 、これまで眼に関しては大きな病気がなく、近眼はあるけど矯正などもせず、普通に生活できている。ただ、昔から飛蚊症がある。飛蚊症歴は長いので、空を見たり、白い壁を見たときに黒いモヤモヤが少し横切って見える。 今年に入ってから、何だか黒いモヤモヤが増えたような気がした。重病でもないし大丈夫だろう…と思いつつ、「いや待てよ。もし緑内障の始まりとかだったら怖いな…」と思い、今年、何年かぶりに眼科に行った。 久々の眼科受診だったので、一通り、検査を受けた。眼圧検査もしてもらった。空気をふぁっと吹きかけられ、一瞬で終わる検査。一瞬でよく検査できるなぁ、と拍子抜けする感じだった。病院では、「視力もそう悪くなっていないし、問題ないです」と言われた。 気になる飛蚊症の悪化について、医師によく相談したところ、瞳孔を開くための目薬をした後、私の眼をよく診てくださった。先生が私の眼に光を当てて、何やら覗き込んでいた。診察結果は、「大丈夫。全く問題ないですよ。飛蚊症が気になるかもしれないけど、これは年齢的なものです。」で終わった。 重大な病気が無く、緑内障でも無く、とりあえず良かった!と思いつつ、「年齢的なもの」という言葉が心に残った。40歳を過ぎたあたりから、健康診断などで言われるようになった言葉だ。 以前、乳がん検診を受けたときも言われた。「加齢と共に、こういう画像になるんですよ」と。乳腺組織の密度が年齢とともに変わっていくらしいので、乳腺の画像診断では、若い世代と中年以上とで見え方が変わるらしい。 私は今、中年世代で、未だ高齢者に達していないので、「加齢のせい」と言われる事に抵抗感がある。心の中で、「いや~、まだ加齢と言われるほどの年齢では~…」と、ささやかな抵抗を感じる。でも、現実に若くはない。健康診断などの際に、「はぁ、そうですか。大きな病気は無く、年のせいなんですね…」と大人しく納得して帰るしかない。やはり、そういう年齢になったんだなぁ、と思う。 中途半端な世代と...

太極拳は最強の滋養強壮剤

イメージ
前回のブログ記事で、その頃、猛暑にまいっていた私は、中年の悲哀をダラダラと綴ってしまった。悲しいかな、それが本来の自分でもある。 人は常にポジティブでいられない。おそらく私の教室へ通って下さっている方は、私の事を、きっと「いつも張り切って指導している」と思って下さっているだろう。それは、自分が学んできた事を人へ伝えていくに際して、「きちんとしなければ…」という想いがあるから。参加者の皆様が、わざわざ足を運んで下さるのだから、当然、私の責務として、指導する立場のときは気を抜かない様にしている。 また、参加者の中には難聴気味の高齢の方もおられるので、教室では小声でボソボソしゃべらず、できるだけ部屋中に通る声で説明するように意識している。そのせいで、他人から見れば、張り切って、室内中に通る声で、颯爽と指導している人に見えるかもしれない。 でも普段の私は真逆で、本当は、かなり陰寄りのキャラクターだ。面白いことは好きだけど、どんちゃん騒ぎは苦手。普段は、できるだけ人に会わず、引き籠っていたい。できる限り1人で過ごしたい。おまけに、いつも血圧が低い。 そんな自分の陰な部分を少しでも上昇気流に乗せるためには、社会的な役割を失わず、何らかの活動を継続しなければならない。私のような陰のキャラクターの人間は、日々の任務が無いと、無気力になって衰えてしまう。何とか快活に生きていくために、社会性を失わないよう気を付けようと思う。要はバランスだ。 陰寄りな自分は、日々の無気力な感覚や不調を跳ね除け、気を養うためにも、太極拳や気功などを継続している。健康法として太極拳を継続している人は、私がそうである様に、案外、疲れやすい人が多く、気力増進のためにやっている人は多いだろう。 私の中で太極拳というのは、弱い自分の心と体を、何とか健やかに保つための滋養強壮剤のようなものだ。これから先、老いが待っている人生をどうやって過ごすか。そこに太極拳という最強の滋養強壮剤がある。そう思えば、なかなか心強い。 中国で有名な昔の武術家の中にも、体力と気力を養うためにスタートした人はいらっしゃるようだ。元々虚弱体質だったとか、若い頃、重い病気にかかってしまい、健康回復のために太極拳などの中国武術を始め、長く継続して、結果的に健康を回復して長生きしたとか、そういう人はいらっしゃる。 私の場合、当然のことながら、昔の達...

駄目な自分…ダラける自分…言い訳する自分。…それも自分。

イメージ
心を整えて太極拳の動作を無心になるほどやっていけば、やはり気持ちが良い。とはいえ、私も人間なので、いつも同じテンションをキープできない。時にはダラけたり、逆に、やる気が出て欲張りになったりと、その時々によって心持ちはいろいろだ。 欲張りになるというのは、妙にやる気が出るとき。例えば、棒術でレベルの高い人の素晴らしい動きをみた後に、「自分も、ああいう事をやってみたい!」、「ああいう套路を格好良くやってみたいな。」、「あんな技を綺麗にやってみたい。」と、欲にかられる瞬間がある。 逆に、ダラける瞬間というのは、最近のような酷暑が続くとき、何もしたくなくなるとか、他の事で忙しい時期に、稽古の場所へ向かう事がちょっと億劫になる…等。普通に生活していれば、1年中やる気に満ちている…なんて事はなく、テンションが下がり気味のときもある。 実際には稽古は好きだから、猛暑で稽古の場へ向かうまでが億劫なだけで、現場へ行き、みんなで体を動かせばスッキリする。そして、「来て良かった~」と思う。でも、そこに至る前の段階で、どうしても億劫に感じるときはある。 悲しいかな、とにかく中年になって痛感しているのは、若い頃よりも体力や処理能力が落ちているという事実。昔の自分は、1日のなかで聖徳太子ばりに複数のことを同時並行でやってのけた。短時間で複数の事を、次々と涼しい顔でやってのけたものだった。会社員時代は、連日、猛烈に仕事を頑張る事もできた。 でも今は、中年になって疲れやすくなり、いつも「いかに手を抜いて楽をするか」という事ばかり考えてしまう。家事の手抜きは勿論のこと、今現在、請け負っている作業についても、若い頃の自分ならば「もっと時間をかけて内容を追求するぞ!」という感じだったのに。 最近は「まぁ、今回はこのくらいにしとこうかな。疲れてきて頭が回らなくなってきた…」という具合。「落としどころを早く決めて、早く終わらせたい」と、終わらせて楽になる事ばかり考えてしまう。 これが中年の悲哀というか、老年期に入る前段階の、疲れが抜けにくくなった人間の現実なのだろう。 思えば、私は少し前から、スケジュールの濃密さを避けるようになった。そして、どんな事に対しても、かける時間をなるべく短くしたいと思うようになった。以前は連日、何かしらの予定でスケジュールがいっぱいに埋まっていたのだけど、最近はスケジュールがパン...

気沈丹田を意識する利点は何だろう?(Part.2)

イメージ
貯蔵した気は、軽快に動くための動力源 太極拳の攻防の動きは、相手と接している前提のものであり、1人で套路をやっていても、それは相手との攻防をシミュレーションしているに過ぎない。本来、相手と対峙するとき、興奮状態にあってはならない。興奮状態にある人は、全身が強張って力がみなぎり、繊細な感覚が鈍る。相手と自分の状態を冷静に察する事ができない。 丹田に気を下ろす意識を持つことで、心身の安定感が保たれ、頭に血が上るような、のぼせた状態は避けられる。相手との攻防など一切意識せず、健康法として套路のみを励行する人も、興奮状態で動けば気持ちよく運動できない。興奮と緊張で硬い動きになれば、血圧も上がり、筋肉疲労も溜まり、体内の老廃物を上手く流せない。 気の概念からすると、 臍下丹田あたりは気が満ちている場所(気海) であり、スムーズに動く為には、満ちた気をそこから全身に運ぶイメージを持つと良い。そうすると筋肉に無駄な力が入りにくく、心が 落ち着く。 さらに太極拳の分野では、気を「旗振り役」とみなす事がある。温存している人体内の気を、意識を集中しながら、必要に応じて人体の中で巡らす。そうする事で、気はヒトの活動を促す為の「旗振り役」となり、太極拳の攻防において勁の誘導役となる。ちなみに太極拳に関連する昔の理論書の中には、「氣為旗(気は旗をなす)」という味わい深い言い回しがある。 太極拳に関わる昔々の理論書をいろいろ読んでいくと、おもしろい表現によく出くわす。気が沸き立つ…とか、気が鼓蕩する…等々。 十三勢行功歌という、武術の鍛錬の要領についてうたった古くからの歌訣がある。この歌訣は、現在、我々太極拳愛好家の学びとなるバイブルの中の1つでもある。 十三勢行功歌の中に、 「刻刻留心在腰間 腹内鬆静気騰然」 というフレーズがある。大雑把ではあるが自分なりに意訳してみると、大体こんな感じ。「随時、腰のあたりに心を留めて、 腹内を力ませずに柔軟にし(鬆静)、腹内にある気が沸き巡るようになる(氣騰然)」。 ただし、 太極拳の攻防において、気はいったん背骨あたりに収める…という考え方がある。むやみに沸き立たせて気を方々へ散らしては勁を誘導できないわけで、攻防の技に気を活用するには、浪費せずに大切に収めて上手く運行させる必要があるだろう。太極拳初心者の方がこのイメージを体現できるか?と言われれば、で...

気沈丹田を意識する利点は何だろう?(Part.1)

イメージ
いろんな太極拳流派はあれど、「気沈丹田」という言葉は、多くの太極拳愛好者が念頭に置いて稽古するものだと思う。丹田とは実体が無く、概念でしかないが、人体に3箇所あると考えられている。上丹田は頭部。中丹田は胸部にある。そして下丹田は臍の下で、臍下丹田と言われる。臍の下は、気沈丹田で気を沈めるところ( 過去記事参照 )。 丹田は、物体としては存在しないけれど、あたかも実体あるものの様にイメージすれば、動作時のバランスが整い、心も落ち着く。太極拳のほかにも、いろんな武道などで、気を臍下丹田あたりに沈める意識を持つ事はあると思う。拙いながら、気沈丹田について、今の自分なりに考えた事などを書いてみようと思う。 気沈丹田は、健康に寄与する 呼吸法が体に良い事は、一般的に知られている。白隠禅師は、丹田呼吸法で心身を整え、禅病を克服した( 過去記事参照 )。 「白隠禅師—健康法と逸話(直木公彦著)」 という書籍がある。そこには「気海丹田式の呼吸」とか、「元気を下腹部に満たす」などのフレーズが出てくるので興味深い。白隠禅師は、丹田呼吸法を実践し、健康を回復したという。 ただし丹田呼吸法については、現在、呼吸法を実践するグループ、人によって、解釈や方法が微妙に異なっている。「単に丹田を意識して深い呼吸をする事」をそう呼ぶ人もいるし、「丹田の周辺を柔軟にして気を巡らせ、逆複式呼吸をする事」をそのように呼ぶ人もいる。 呼吸法にもいろいろあり、息を止めずに吸ったり吐いたりする方法もあれば、吸ったあと数秒間止めてから吐く、という方法もある。白隠さんは、いったん止めて吐くやり方を実践していたようだ。どんな呼吸法も、無理せず、リラックスして深い呼吸をする事で、横隔膜の可動域は拡がり、気血の巡りが促され、内臓マッサージ効果が得られる。 もし胴体内のインナーマッスルに硬直があり、いわゆる呼吸筋が伸びやかに動かない場合、浅い呼吸になり、内臓を宿す腹腔内の循環が悪くなる。横隔膜の動きは妨げられ、充分に効率的なガス交換ができなくなり、内臓マッサージ効果も薄れる。 胴体内の筋肉に深い呼吸を促す柔軟性があれば、体中の巡りは良くなり、流動的なエネルギー変換が可能となる。太極拳の稽古では、首や胴まわりを含む体内の筋肉をすべて硬直させず、柔軟に保つ。そして気沈丹田を意識し、心身を安定させ、ゆっくり呼吸しながら動く。太極...

自分の事を分かっているか

イメージ
自分の事を、人はどれほど理解しているだろう。自分に似合う色と、好きな色が同じとは限らないし、子供の頃に憧れていた職業が、自分に向いてるとは限らない。自分はこんな人間だ、と思っていても、他者からみれば別人かもしれない。 姿勢はどうだろう。 私は、健康法としての運動の講師を続けているので、人の姿勢がやはり気になる。もちろん自分の姿勢にも、なるべく気をつけるようにしている。正直言うと、私自身、携帯やPCに向かうときなど、油断したら、すぐに姿勢が崩れてしまう。教室では、「体を立てて~」と人に何度も伝えているのに。 ただ、健康法を指導する立場に立たせていただいているお蔭で、やはり稽古がある日は、稽古場に入るとすぐに太極拳や気功の指導者モードになり、姿勢をスッと正す事はできる。稽古のとき、もし私が変な姿勢で過ごしてしまえば、何の説得力も無くなってしまうので、稽古のときは特に、極力シャンとして過ごす。 太極拳の「シャンとする」は、「気を付け!」のピーン!、シャキーン!とした姿勢では無く、あくまでも無理なく自然に、体中の関節を緩めた上で真っすぐ立つ。 世間には、80代でもシャンとして颯爽と、明るい雰囲気で歩く人もいれば、40~50代でも猫背で歩幅も狭く、一見、高齢者のように見えてしまう人もいる。 中高年以上の人の中には、常に姿勢が微妙に前かがみになっている人もいる。理由は、 人によって様々だろう。 運動不足、病気や怪我のせい、足裏への体重の乗り方が悪い、骨粗鬆症で体の一部が歪んでしまっている等々…。 人間の体は、もともと100%左右対称ではないし、数ミリ程度のズレなら、誰でもある。私自身も、過去に右足を痛めた経験があるので、左右の足の形が微妙に違う。 中年以上になれば、誰だって、何かしらあるだろう。 そのような体の特徴が、姿勢の維持に影響してしまう場合もある。 一方、病気や怪我では無く、明らかに運動不足で、見た目でハッキリ分かるほど姿勢が悪い人、異様にしんどそうに立っている人もいる。ご本人が、しんどそうに立っている自分に、全く気づいてない事もある。 稽古に来る初心者の高齢の方の中には、足裏への体重のかけ方のバランスが悪い人もいらっしゃる。そういう方は、最初に来られたとき、酷く姿勢が前傾しているケースがある。 常に そんな状態で生活してきた方は、姿勢が悪い状態が当たり前になっており、...

スタート時点では、誰もが伸びしろのある新人

イメージ
人を小馬鹿にするような人は、狭量な人 これまでの人生において、友人関係、親族との関係、職場での人間関係、趣味仲間との関係など、様々な人達と交流してきた。当然ながら、いろいろな個性の方がいらっしゃった。思いやりのある温かい人も、たくさんおられたし、逆に、人をさげすんだり、小馬鹿にする人もいた。 何かに長けている人、1つの分野で成功した人がいたとしても、その人が、他者への優しさと配慮に欠けていたら、やはり尊敬できない。驕り高ぶる人には、冷たい印象を受ける。 人に優しくできて、徳があって、実力も兼ね備えている人は尊敬できる。立派で、徳があって、心に余裕がある人は、他人が必死に頑張っている姿を認める度量があり、他人を責めることに時間を費やしたりしない。 何かに長けている人でも、自分が他人より優位に立っていると強く思い込んで人を小馬鹿にしたり、他人を見下す人は、本当のところ、寂しい人なのではないかと思う。本人が気づいているかどうかは別として、他人を非難する事でしか自分を上げる事ができない、周囲の賞賛を浴びたくてたまらない寂しい人。 自分に自信を持つのは良いとして、「自分はこんなに凄い事をやってるのに(他の人は)レベルが低い」とか、「あいつは全く分かってない」などと、頑張っている他人を素直に応援できない人は、心が狭いように感じる。 幸い、私の太極拳仲間は良い人が多く、皆様と接していると、楽しくて温かな気持ちになる事が多い。ただ過去には、ちょっと意地悪な人に遭遇した事がある( 過去記事 )。その人は、他人と自分を常に比較し、優劣をつけたがる傾向にあった。自分より経験年数が少ない後輩に対し、やたらと非難し、長い目で成長を見守る事ができないようだった。自分の物差しでしか物事を見る事ができていないようだった。 もし自分より稽古年数が短くて、上手く動けない人がいたとしても、自分とは別の人間であり、そこに費やした時間も違うのだから、非難しても仕方がない。人によっては、会社員などをしながら、忙しい合間をぬって稽古を続けている人もいる。介護をしてる人だっている。そういう人と、過去にたっぷり時間をかけて稽古した自分とを比較しても意味はない。 人には人の都合があり、その人の段階がある。その人が、その時できる範囲で取り組んでいる、それで良い。 例えば、高度な技を持つ達人に長期間、指導を受ければ、誰も...

益寿延年不老春

イメージ
「益寿延年不老春」という言葉がある。太極拳の理論を学んでいると出会うフレーズだ。 このフレーズが出てくる歌訣。それは、太極拳の源流なる武術の動きや、 姿勢を維持する際の注意点などについて、様々な要領をうたってあるもの。 この歌訣の内容は、冒頭からずっと、延々と、動作上の注意点について散々、あれが大事、これが大事、と、いろんな文言を用いて説いてある。 それが後半になって、唐突に「益寿延年不老春」のフレーズが出てくる。終盤に、ほんとうに唐突に出てくる。この言葉は何を主張しているか。 動作や姿勢の大切な要領を守って習練を重ねれば、「健康長寿に繋がる」と示唆している。真面目に鍛錬を継続すれば、不老春、つまりは長寿に繋がるのだ…、老いない春を謳歌できるのだ…、という事をここでうたっている。 太極拳に関して言うと、長い鍛錬の道を進めば、繊細な感覚が身に付く。体の深部感覚にも良い刺激を与え、心と体の両方に深く働きかける養生法となる。現代のように物事が複雑化したストレス社会においては、特に健康法として重視されやすい。 2020年にユネスコの世界無形文化遺産に太極拳が選ばれた背景には、奥深い哲学的理論を内包した伝統拳として、また華やかな競技種目としても世界で栄えていること、そしてさらに体質強化に繋がる健康養生法としても効能が見込める、といった事情がある。それぞれ、多方面での興隆と効能などが認められたことが大きいだろう。 初心者の段階でも得られやすい効果としては、バランス感覚が磨かれる事や、インナーマッスルの強化がある。さらに稽古を積み、軽やかで緩慢な動きが可能になれば、リンパ流と血流は促され、柔軟に動く筋肉からは健全なホルモン物質が多く放出され、体内の神経伝達もスムーズになっていく。 リラックス効果も高まり、脳への血流もますます増える。太極拳の動きが脳へ働きかける効果、脳機能を活性化する効果は、太極拳歴が長いベテランになるほど高まるという。

硬直した心身を癒す場所

イメージ
誰にでも訪れる、人生で大変な時期 少し前に、嬉しく思える出来事があった。稽古に来て下さっている、ある方のエピソード。 この方は、普段ご自宅で、御高齢の家族の介護をしているそう。やはり、その御家族から、なかなか目が離せない為、家庭内で気が休まらず、精神的なストレスが続いているそうだ。その方は、訪問介護の日に、僅かな自分の自由時間ができ、その時間を活かして、可能な日があれば、太極拳の稽古へ来て下さる。 その方曰く、 【稽古に参加して体を動かしている時間帯だけは、日々の大変な現実から気持ちをそらす事ができる。縛られない自分だけの時間を確保して、みんなと運動する事ができる。稽古に参加しているときが、慌ただしい生活の事を忘れられる唯一の時間帯に思える。】 …このようにおっしゃった。 そして、その方は、私に向かって恐縮しながら、こうもおっしゃった。 【稽古に通っているのに、動作の順番がなかなか覚えられない。上達が遅くて申し訳ないです…】 私は、その方に対して、以下のような内容の事をお伝えした。 【家庭の事や仕事などでストレスを抱えている方に、気持ちをリセットする時間を作っていただく為に、私は活動している面があります。介護は本当に大変で、毎日いっぱいいっぱいだと思うので、稽古の日まで気を張って、焦って動作を覚えなくて良いです。参加できた日は、緊張を取り払って、ただ、みんなと一緒に気持ちよく運動して帰る、それで良いと思います。大変な中、通って下さって嬉しく思います。】 綺麗事でも何でも無く、心からそう思えたから、こちらも素直に気持ちをお伝えした。 会話というのは本当に味わい深いもので、相手がこちらへ素敵な言葉を投げかけて下されば、こちらも嬉しくなり、素直に感謝の気持ちを伝えたくなる。 誰にでも大変な時期というのは、人生の中で数回は訪れるもの。私自身も、過去に親族が闘病したり、昨年は親族の死去があり、結構大変だった。そんな折、合間をぬって稽古に行けば、仲間と運動する時間を確保できて精神的に救われた。 家族の病気の事だけを、悶々と考える日々は辛すぎる。だから、ひとときの、皆様との楽しい運動の時間は貴重だ。 みんな、いろいろある。嬉しい事も、苦難も。それが生きるという事だと思う。 苦難に陥ったとき、人によっては、自分の周りの人を恨んでしまい、「自分の苦難はアイツのせいだ。アイツのせいで、...

過剰な期待と幻想

イメージ
「人生を変えるほどの何かが必ず見つかる! 凄いものを得られるはず!」という期待 これまで私が関わってきた稽古の場へ来られた方々は、ほとんどが中高年以上で、なかには持病のある後期高齢者の方もいらっしゃった。そのような方の第1目標は、何よりも、まずは毎週、稽古の場へ足を運ぶ事。そういった方は大抵、運転免許を持っていらっしゃらないので、悪天候の時などは、出かけるのが億劫になったり、80代以上の方になると雨の中、足元が危ない為、外出自体を躊躇してしまう事もある。だから、まずは安全面に配慮しながら、稽古の場所へ向かうことが第1目標になる。 80歳を超えて太極拳にチャレンジする方々は、上達はゆっくりペースでも良いので、まず仲間と共に過ごす時間を持つ事ができれば、それだけでも素晴らしい人に会う機会になる。高齢で病弱な方であっても、可能な限り外出し、人に会う機会を作る。気の合う仲間と会い、一緒に過ごす喜びを感じる。運動や、その他趣味は、人に会う良い機会となる。 太極拳を始める中高年以上の多くは、当然ながら「心身の衰えを防ぎたい。健康な体を維持する為に運動したい。」と、健康を意識して参加されるケースがほとんど。 ただ、別の目的、きっかけがあって参加する方もいらっしゃる。例えば、たまたま太極拳の動きをテレビや雑誌で見て、憧れていたという方。そういう方が実際に稽古を参加して、動きに心地良さを感じたり、教室の雰囲気が好ましいと思えば、そのまま通い続け、みんなの仲間になってくださる。それから、他の趣味、例えばコーラスなど発声を重視する趣味がある方が「姿勢を良くし、良い声が出せるように」と、太極拳教室に参加されたケースもあった。 そのほかでは、これは稀なケースではあるけど、こんな方もいらっしゃった。あるとき、崇高な理念を持った人が体験にいらした。太極拳の動きを体験する事で、「自分を高める確かなものを得る」という目的を持っていた人だった。 その人は、自分探しの旅の途中…といった感じで、「太極拳を体験すれば、自分の何かが変わる。確かな何かが得られるはず。人生訓を得たい。」という大きな期待をもって体験にいらした。なぜ、その人の中で、太極拳が「自分探し」「自分磨き」に直結したのか、細かい事情までは知らない。とにかく太極拳の動きを1~2度体験すれば、「新たな自分の発見に繋がる。」、「違う自分を見つけられ...

餅は餅屋

イメージ
私は、健康法として運動を指導する事を、約10年ほど続けてきた。高齢者の方と接する機会も多い。この活動をしながら気掛けている事がある。それは決して、西洋医学の専門家である医師のような、医療面でのアドバイスはしないという、至極当たり前の事だ。 私が健康法を指導させていただく中で、特にご高齢の参加者、受講者の方から健康相談を受ける事もある。「この辺が調子悪いのよね~、最近…」、「腰が痛いんだよね~、運動はしない方がいいかな」等々。 そんなとき私がアドバイスできるのは、自分自身の過去の経験でハッキリ分かっている事と、一般に周知されている健康情報、それから、これまで学んできた養生法や中医学の知識の範囲内で言える程度の事まで。 医師や理学療法士、 作業療法士 などの専門家だけが口にできるような内容については、当然、私には断言できない。私は、医学やリハビリの資格を持つ専門家ではないから、医療面での的確なアドバイスはできないし、やってはいけない。勿論、体の事は、少しは学んできた。でも医師では無いのだから、医師の真似事など決してできない。 教室などで、高齢者の方と一緒に「健康状態について語らう」機会は多い。でもアドバイスを求められても、一般常識の範囲の健康情報に、ほんの少し自分の知識を足して話す程度にとどめる。 筋肉や骨、内臓の機能で、自分が分かっている事から、そして、少しばかり学んだ中医学の分野から、自分が言える範囲の事をお伝えする。ほんの参考程度になれば…と、有効な養生法についてお伝えする。 だけど、これを絶対やるべき!とか、これを実行すればココが良くなるよ、なんて事は絶対に言わない。 「餅は餅屋」という言葉がある。いろんな分野に専門家と呼べる人がいる。専門家は、しっかり学んで習得した領域について、専門的な発言をし、人にアドバイスする事ができる。 もし誰かが、自分の専門外の事について語る場合は、気をつけた方が良い。専門外の話であれば、自己の勝手な判断ではなく、過去に専門家である他者から聞いた話…、などという前提で、決して断言せず、参考程度に話すしかない。 「専門の人から聞いた話では、〇〇という事でしたよ」とか、「〇〇という医療専門誌から得た情報で、こういうことが書いてあったんですよ」などと、あくまでも自分は専門家では無いけど、何かの媒体から得られた情報なんだ…と正直に前置きして話...
随筆太極拳 - にほんブログ村

↓ Amazonサイト《太極拳》関連商品