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10年という歳月

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何もしなければ、何も無い 10 年になってしまう ある“和”の習い事をしている知人が、「ある程度、自分にもできるようになった、少しは分かってきた…と思えるまで 10 年かかった。」とおっしゃっていた。 10 年という年月は、何かを身に付ける為には決して長くはなく、必要な期間だと私も思う。 昔、子供の頃ピアノを 10 年間習った経験がある。子供時代に懸命に弾いた曲は、ブランクがあっても、中年になった今でも、下手なりに未だに弾ける。継続は力なり。何年もかけて体に馴染ませたものは、そう簡単には消えない。 私は不器用で飽きっぽい人間だけど、なんとか辞めずに太極拳の動きを 20 年やってきて、近頃やっと軽さ、柔らかさ、体勢によって出現する独特の体の張りを感じる日が増えてきた。振り返ると、稽古を始めて 10 年目あたりで、何か自分の動きが変わったような気がした。 20 年という経験は、決して長くはない。私はいつまでも未熟で、半世紀ほども頑張ってこられた遥か上のレベルの大先輩方に追いつくことは今後も絶対に無い。なぜなら何十年も頑張ってきた大先輩方も、更に上達を目指して日々努力を重ねていらっしゃるからである。 だから私はいつまで経ってもヒヨッコの域を出ることなく、おそらく一生到達することの無い満足な状態に少しでも近づけるよう、遠い目になりながら練習をする。だからこそ、この道を進むのは面白い。 中国武術というのは専門性に奥行きがあり、太極拳1つをとっても、学んでも学んでも決して知識が満ちることがない世界だ。 私の場合、太極拳を始めた理由は怪我のリハビリの為だったので、理論を追求したいなんて最初は微塵も考えてなかった。継続していく中でだんだん好奇心が湧き、単純に「太極拳のことをもっと知りたい」と思うようになり、そんなこんなでボチボチやってきて、ようやく 20 年経ったところだ。 簡単にできそう!…は幻想 私は道具(武器)を持たない太極拳の動きを健康法として長く続けてきたが、それとは別に、棒術(棍)も日々稽古している。 棒術の方は、真剣に稽古を始めてから数年しか経っておらず経験が浅い。おまけに恥ずかしながら稽古量が十分ではなく、苦手な型は当然のようにスムーズに行かない。棒術で新しい套路や型を学ぶときなんか、自分でも飽きれ笑ってしまうほど四苦八苦している。 実は以前、上手な先輩の棒捌きをみ

引き算の美学

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不要なモノと雑念にサヨナラする 無駄を無くすことについて、今回もまた書こうと思う。 太極拳から全く話がそれるけど、私は子供の頃から安全地帯の曲をよく聴いていた。大人になった今でも、ごくたまに玉置さんがテレビ出演される時には観るようにしている。 以前、玉置さんが出演番組で語っていらっしゃったのを聞いた。→ 若い頃は、ビブラートを思いっきりかけて高らかに歌い、「どうだ!俺って上手いだろう!」と思いながら歌った事もあった。でも年齢を重ねていろんな事を乗り越えてきてからは、過剰にビブラートをかけずシンプルな歌い方を意識し、今の自分が思う、自然で詞に合う歌い方で良いと思えるようになった、ということだった。 それから、これは別の人のエピソードで、かなり昔、ある女優さんの発言で印象に残ったものがある。 その女優さんはひと昔前、写真集を出版したり、ファッション雑誌によく出ていた。当時、いかにも高級志向で、身に付けているモノすべてが高価格帯のブランド品、愛用の化粧品も一流ブランドの高額なものを雑誌等で紹介していた記憶がある。 ところがその女優さん、派手で奇抜なファッションやメイクを一通り経験した結果、「行きついた先はナチュラルメイクだった」と語っていた。 最近はテレビ等での露出が減っているので、今どんな趣向なのか知らないけれど、とにかく派手に自分を演出し、ふんだんにお金もかけるような経験を一通りしたあと、結果的にシンプルなものの良さを痛感するというのは、誰にとっても良くある事だと思う。 たくさんのモノに囲まれて生きてきた人々が断捨離を積極的に行う様子なども、どこか似たようなものだと思う。 勿論、ファッションや音楽、インテリア等には好みがあるし、年齢層によっても楽しみ方は違うと思うので、どんなものが良いと一概には言えない。 ただ、特定の分野で一流と言われる人達をみると、玉置浩二さんのビブラートのエピソードもそうだし、それから隈研吾さんの木のぬくもりのある建築物なんかも、結局そういう事なのかな…と勝手に思っている。 鉄筋コンクリート中心の前衛的な建築物から、木材を中心としたものに回帰するというのは、スタイリッシュで目を引くカッコ良さの近代建築よりも、むしろ環境に配慮できる自然素材、シンプルさが良いと思える、人間にとっての原点回帰の思考かもしれない。 ネットサイトで隈さんのインタビュー記事

必要なものを取捨選択する

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無駄を捨てるまでの道筋 前回記事で、“軽さ”について考えた。では習練を積むと、なぜ軽くなるのか。それは「本当に必要なモノが何なのか」が分かり、無駄を削ぎ落とす事ができるから。無駄を削ぎ落とすことについては、再三このブログで書いてきた。 猫のごとく自分の気配を消すように、軸を定め、地面に足裏を付けて立ち、大袈裟な動きや馬鹿力を捨てる。無駄が無くなると、動きが軽くなり洗練される。動きの軽さを実現するには、自分が長い期間をかけて身に付けてきた過剰なもの、頑固なこだわり、無駄な力を捨てる。こういったことは何も太極拳の世界に限ったことではなく、いろんな分野で言えることだと思う。( 過去記事参照;書道のケースなど ) どんな分野でも、学びの初期~途中段階では、勉強して、練習して、たくさんのモノを吸収し、まるごと自分のものにできるよう、努力しながら多くの知識や技術を叩き込んでいく。 最初はとにかく地道な積み重ねが大切で、それには自主練など自分自身の努力が必要なのは勿論のこと、知識が豊富な先輩や専門書からも貪欲に学んでみる。いろんな事を吸収し、取り入れ、考えながら実際に動いてみる。そうやって何年もかけて学ぶ。 そして、かなりの年数が経ち「たくさんの事を得た」と思えたとき、やっと初めて、「では、本当に必要なものは何なのか?」の判断が付くようになる。 「自分にとって本当に必要なもの」の判断がつけば、「何が無駄なのか」もおのずと明確になる。 何年もかけて学び、たくさんの事を習得しなければ、「無駄を捨てる準備段階」に入ることはない。 その道で学んだ経験がない人、稽古や訓練が継続できなかった人には、「どれが無駄なのか」の細かい判断はできないということ。結果として取捨選択できず、余計なモノや、要らない考え、不要な動きが凝り固まって捨てられなくなり、センスが磨かれないまま過ごすという非常に勿体ない時間の使い方をしてしまう。 個性と癖は違う 学びの最中には、師や先輩方の言葉を素直に聞く思考の柔軟性も必要で、経験が浅く必要なものをまだ取捨選択できない人が、もし自分の知識をひけらかそうとするなら、プライドが邪魔をして伸び悩むことになる。 間違いなく言えることは、「何も学ばない先に、熟達はあり得ない」ということ。もともと持っている器用さは、最初の短期間だけしか通用しない。 どんな分野でも、柔軟な態度で学

すべての音は雑念に繋がるのか

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太極拳と音楽に関して思うこと ネットのショッピングサイトをみれば、太極拳用のゆったりした曲が販売されている。本来、太極拳の稽古で曲を流す必要はない。 そうはいっても曲の有無はケースバイケースで良い。表演競技として演武する人は、音楽ありきで動くことが多いと思う。 太極拳を稽古する目的は人それぞれで、稽古場の雰囲気、指導者の方針も様々だ。グループや団体によっては、服装や音楽に関するルールを設けているところもあるかもしれない。それぞれが所属している団体のルールに従えばいいと思う。 ところで、中国で 1956 年に制定された簡化 24 式太極拳には、動画サイト等でも見かける定番曲がある(私はこの曲を利用した事はない)。参考に、李天驥先生の著書『 太極拳の真髄 』をみると、 簡化 24 式太極拳の解説部分において、曲の拍子のどのタイミングでどう脚を動かすか、 などの説明が型ごとに書かれている。また同書 160 ページには、楽譜も載っている。 私は普段、健康法として太極拳の動きを利用しており競技者ではない。私自身は、型稽古のときは音楽を流さない。套路を行うときに曲を流すことはある。 套路の際、無音の静けさの中で、相手を想定して動くのは良い鍛錬になる。一方で、敢えて曲を流し、旋律の中で動くときは、音のある空間でみんなでシンクロして動くという、無音とはまた違った良さがある。 推手を学ぶときは、当然ながら音楽は必要ない。やはりケースバイケースという事になる。 初心者の方の多くは、ついガチガチに力んでしまう傾向があるため、緊張を解きほぐすようなリラックスする曲を流してもいいだろう。套路の際は、音楽に合わせ一定のリズムで動くことで、動作が急に早くなるのを防げるかもしれない。 ただ、曲を流す行為には著作権問題が付きまとう。団体やグループ、個別の教室で曲を流す場合、著作権フリーの曲をネットサイトで探しておいて、サイトのルールに従って利用すれば良い。 どんなやり方を重視するのかは人それぞれ 以前、「太極拳は武術なんだから音楽を流すのはけしからん!」とか、「女性は稽古のとき、口紅をぬったり、爪を赤くしたら駄目だ。」等のご意見を持つ人がいらっしゃった。こういう考えを持つことは自由だし、その人のこだわりだと思うので否定するつもりはない。 音楽に限らず、服装や練習方法など様々な面において、「こっちの人

人生の選択と、手繰り寄せる素晴らしい人々との出会い

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今年に入り、私が最初に太極拳を習った先生(R先生・ 90 代)が亡くなられた。今はまだ実感がわかない。今もお元気で、お孫さんや曾孫さんに囲まれて暮らしていらっしゃるような気がする。 R先生は、数年前に遠方へ越して行かれたので、そのあとは電話や葉書のやり取りで交流してきた。以前、電話で話したとき、「 90 年も生きてきて、こんな事(=コロナ禍)は初めて!」と、ハリのある元気な声でおっしゃっていた。そのときの会話が、R先生と私がお話した最後になってしまった。 太極拳の楽しさを最初に教えてくれた人 約 20 年前、私が稽古を開始した当時、R先生は 70 代に入られていた。その頃のR先生の太極拳歴が、ちょうど現在の私の太極拳歴くらいだった。 私はR先生の指導を 10 年間しっかり受け、そのあとは気功、推手、棒術などの稽古を通して、何人かの指導的立場にある素晴らしい方々の教えを受けてきた。ただ、やはり最初に御指導いただいたR先生への想いは、自分にとって特別なものであり、R先生との日々が私の太極拳の原点である。 そもそも私は、太極拳にさほど興味があって始めたわけではない。足の怪我のリハビリのつもりで始めたので、最初は長く続けるつもりはなく、ましてや自分が教える立場にまわるなんて考えもしなかった。 おまけに稽古を開始した頃の私は、諸事情で忙しく、精神的な余裕もなかったので、「太極拳はいつ辞めてもいいな~。」と身の入らない状態だった。 でもR先生は、そんな私の状況に配慮し、励ましの声をかけ続けて下さった。私が辞めることなく稽古を続けられたのは、R先生の存在があったからだ。 当時、R先生が私におっしゃった事で、印象に残っている言葉がある。R先生は、稽古に対する私の気持ちがフラついている事をご存じだったので、「もうねぇ、コレをやっていく!…と自分の中で決めてしまえばいいよ。そうしたらスッキリするよ。」とおっしゃった。 そして、こんなふうにもおっしゃった。「貴方は私よりずっと若いんだから、この先何十年も太極拳できるよ。奥が深いから飽きることもない。稽古を続けて良かったと思える日が絶対に来るよ。将来指導者になり教室を開いて、太極拳の良さを伝えていけば良い。」 決断するのは自分自身 「自分の中で決めてしまえばいい」、この言葉はどっちつかずだった自分に響いて、すごく印象に残った。 私は幼少の頃

特定のグループ内で複数の人達と過ごす時間(part.2) ~教室を立ち上げて以降、考えてきた事~

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~ 前回記事<1><2> の続き ~ <3> 異なる立場の人の集まりでは、             全体の調整にも気をつける 習い事の教室には、老若男女がいらっしゃる。私が携わっている太極拳教室でも、年齢、性別、趣向、体力面などにおいて様々な立場の方がいらっしゃる。活動していくなかでは、当然すべての方の個人的な要望が 100 %通るとは限らない。 私が運営している教室内で、数年前に、ある 60 代の参加者の方が、「“自分の好きな動作だけ”を稽古でやって欲しい。」とおっしゃった。つまり、「自分好みに稽古内容をカスタマイズして欲しい。」という要望だった。 マンツーマンレッスンであれば、このような要望に対して多少融通をきかせる事ができる。しかし複数のメンバーが集う教室では、講師側は、全員の皆様のことを考えなければならない。 太極拳の動きは習得に時間と技術を要するものなので、指導する際に、全員の稽古の進捗状況、理論の深め具合などを見極めつつ、「この型、この用語を説明するとき、どんな表現を使い、どこまで深く説明するか」等を常に考えている。 お一人お一人の動作が良い状態に向かうよう微調整していくので、誰か1人だけの好みに稽古内容をカスタマイズするというのは無理があるし、皆様の上達に必要な過程を省いて稽古を進めることはできない。 高齢の方や持病がある方は、日々の稽古で無理して欲しくない。だけど長期的には、稽古事として全員の方に成長していただく前提で練習しているので、全体の流れを調整する部分に妥協してはいけないし、妥協すれば皆様の上達を妨げることになる。 こういうとき大切なのは、やはり“対話”である。個人の要望を叶えることが困難な場合、その方に対し、「全体の流れや皆さんの進捗状況をみて稽古を進めていますので、御要望には全て添えないと思います。どうぞ御理解ください。」、…こういった内容を相手にしっかり伝えるべき。それをせず曖昧に言葉を濁したら、ご本人の為にも、みんなの為にも良くない。 指導させていただく立場として、稽古に必要な段取りを見極めながら、「今、皆様には〇〇が必要なので、まずは〇〇をしっかりやりましょう。」と、指導者としてしっかりとした方向性を打ち出さなければならない。 個人仕様にカスタマイズする事を強く要望する人に対しては、個人レッスンに移行していただくなど、可能な対応を

特定のグループ内で複数の人達と過ごす時間(part.1)~教室を立ち上げて以降、考えてきた事~

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私が太極拳の講師として初めて自分で教室を立ち上げてから、もう何年も経った。そうは言っても、たくさんの熟練の先輩方と比べたら、太極拳を学ぶ者としても、指導する立場としても、私は学ぶべきことが山積みの未熟者で、試行錯誤の日々である。 太極拳の教室では、これまで沢山の出会いがあった。 教室の参加メンバーになって下さった方々、それから出入りさせていただいているカルチャーセンターの職員さん達…。個性ある楽しい皆様方とご一緒するうち、「習い事の教室を運営していく為に大切なことは何か」、これまで様々なことを考えてきた。 「みんなで楽しみながらレベルアップしていく事について」、「人間関係を円滑に保ちつつ、全員が朗らかでいる為には何が必要か」…等々。 仲間と一緒に有意義に過ごす時間について、いま思うところを書いてみたい。 <1> 技術の向上目的オンリーでは上手くいかない 習い事というのは、人生において必須ではない。はっきり言って、習い事が無くても生活は成立する。だけど人は、精神面や体力面を補完したり、特定の分野で良い資質を得て自己を高める為に習い事に通う。 生活の中に習い事があることで、人生の豊かさは変わってくる。この2年間のコロナ禍で、私はそれを痛感している。 コロナ禍以前のように、当たり前にみんなと過ごす日々は、感染拡大によって度々休止となった。コロナ禍では、普通のことが普通にできないもどかしさがある。 たくさんの人々にとって、習い事は生き甲斐に繋がる。仕事面で隠居された御高齢の方、子供が実家を出て巣立った後の中高年の御夫婦、気晴らししたい若い世代の人、何かを学んで自分を向上させたい人、体力をつけたい人、そんな人達の単調な日々の中に習い事が1つ加わるだけで、生活に潤いや刺激が加わる。 今は、オンライン動画、リモートレッスンでも習い事が完結する時代である。しかし人は、コロナ禍で外出を控えたり、他者との会話も十分楽しめない状況が続くと、無性に人恋しくなる。生身の人間同士で交流したくなる。単独行動を好む私でさえ、さすがに3年目に突入したコロナ禍には辟易している。 どんな人でも、誰かと「共感し合いたい」と思うもの。何でもいいから「ああ、そうだね。」、「うん、うん!わかるよ~。」と、楽しく誰かと会話したい。 習い事の教室というのは、共通の趣味や目的を持つ人々が集い、共感し合える「場」を提

大切なのは、心の余裕

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気持ちがたかぶると、本来の稽古に集中できない これまで私は、たくさんの仲間や先輩方、そして私のところへ習いに来てくださる皆様と一緒に太極拳の稽古をしてきた。人がたくさん集まれば、当然いろんなタイプの方がいらっしゃる。 ほんの軽い気持ちで「運動不足だし太極拳でもやろうかな」と思って教室へ通い始めた人は、「太極拳をモノにしてみせるぞ!」と身構えたり、気が張ってないのでリラックスしていて、無駄な力みが少ない。かえってその脱力感が良い方に作用するようだ。最初の段階で猛烈な意気込みが無くても、続けていけば必ず上達される。 それとは逆に、最初からもの凄く意気込んで、ヤル気満々の状態で稽古に参加する人が稀にいらっしゃる。極度に真面目、熱心で、探求心が強く、「頑張りたい! 一刻も早く上達したい!」と強く願う人。一見、その方が良いように感じられるし、勿論、真面目で探求心が強いことは、長所にもなり得る。 しかし過剰に張り切り過ぎたり、気分が高揚するのは、太極拳の稽古に向かう心身の状態としては適さない。 気持ちが先走り過ぎて、稽古中に交感神経優位の興奮状態に陥いると、妙に汗だくになったり、体中に無駄な力が入る。気がたかぶったら、血圧も上がるので良くない。 「熱心に取り組むこと」と「興奮すること」は違う。熱心に稽古しながらも、精神面は落ち着きをキープしたい。 稽古を始めて日が浅い人が、焦って自分の実力以上のことを求めると、動作は酷くぎこちなくなり、頭の整理もできなくなる。 太 極拳に取り組むときは、体を緩め、沈め、心を静め、精神を平静に保つ。だから気持ちが高揚し過ぎて、頭にカッと血がのぼるような感覚は良くない。 “ヤル気があふれ過ぎている人”に私が指導させていただく場合、まずは稽古する上での心構えやポイント、太極拳はなぜ力を緩めるのか、そんなことを何度も、根気よく、時間をかけて説明していく。 頑なになりがちな心と体は解くのに時間がかかるので、言葉でもってそれを緩められるよう努める。 急いては事を仕損じる ある日、私が指導させていただいている1 人のご高齢の女性が、「なかなか一連の動き(套路)の順番を覚えられなくてすみません。いつも先生が熱心に教えて下さっているのに。」とおっしゃった。 私はその時、「套路の順番は急いで覚える必要ないですよ。それよりも姿勢を整えることの方が大事です。焦らなく

継続は力なり。繰り返すことの大切さ

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地道な努力が、数年経ってやっと実を結び始める 太極拳は、いわゆる馬鹿ヂカラを出さず、筋力に頼らずに動くので、マッチョな人が上手いわけではなく、いかに力を抜いてバランスよく動き続けるかが重要である。元から運動神経が抜群に良く、自信満々な人が上手くなるとは限らない。 たとえ不器用でも、ただひたすら地道に稽古を続けていく人だけが上達する。この上達の道筋は、書道なんかに似ている。稽古を開始して、すぐ上手くなるわけではない。目に見えて自分の上達がハッキリ分かることもない。 稽古を続けるなかで、あまりにも歩みが遅いように感じるので、途中で「向いてないのかな」とやりきれない気持ちになる日だってある。 そんな日々が続くのだけれど、数年経つと、自分でも不思議なくらい、いつのまにか最初の自分とは全く違うレベルに成長している。地道な努力が、数年経ってやっと実を結び始める。 もちろん、当然それで終わりではなく、そこから修行がまだまだ延々と続く。先は長い。 太極拳の動きの様々な要領を常に意識しながら、何年もかけて動作を何十回も、何百回も、何千回もやっていく。 同じ動作を繰り返していくと、最初はぎこちなかったのに楽に脱力して動ける瞬間が訪れたり、1年前には困難だったことが悠々と心地よくできるようになるなど、同じことを繰り返すからこそ、気づく瞬間が出てくる。 毎回の稽古で、動きを繊細に微調整していく ここで重要なのは、指導者が手直しをあまりしない人だと、指導される側の人は、自分勝手な思い込みで覚えてしまったり、妙な姿勢のまま動いてしまい、悪い癖がついてしまう事がある。 基礎的なものが身に付くまで、しっかりと細かい動きを修正していかなければならない。 とにかく嫌になるくらい何度も何度も動きを微調整しながら、ひたすら稽古を繰り返す。 おそらく、すぐに結果を出したい人や、地道で地味な努力ができない人は、途中で投げ出してしまうだろう。 陸上のようにタイムが出たり、バスケットボールのように何点という得点が出ないので、太極拳動作の上達の度合いは、感覚として分かりづらい。自分の成長が実感しづらいため、投げ出したくなる人が出てくるのも無理はない。 それくらい正しい姿勢や動作を体に沁み込ませるのには時間がかかるし、成長の道のりは長く、遠い。 気をつけなければならないポイントも多く、はっきりいって面倒臭いほど学ぶべ

太極拳仲間の80代の方々をみて思うこと

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いつまでも!生涯続けられる太極拳 私の周りには、 70 代~ 80 代から、健康法として太極拳の稽古をスタートした稽古仲間が沢山いらっしゃる。そのくらいの年齢から太極拳を始めた人でも、 20 年くらい太極拳を健康法として楽むことが可能である。あくまでも健康法として、高齢者が無理なくできる稽古内容であればという前提ではあるが・・。 太極拳は、年を取ったからといって途中で辞めなくてもいいので、いつまでも生涯続けることができる。実際に 90 代の愛好者もいらっしゃる。指導する側にも、 80 代の方々は多くいらっしゃる。激しく動きまわったり飛び上がったりしないから、 80 代、 90 代のベテランの先生方が円熟味を増した状態で指導できるのである。 本場中国にも、そういった高年齢の熟練指導者は多くいらっしゃるようだ。私は、ある中国の太極拳大家の方の本を愛読しているが、その方は最近 90 代後半で亡くなられている。亡くなる直前まで、現役の指導者として活動されていたそうだ。生涯現役で太極拳。素晴らしいと思う。 つい最近、ちょうど80歳の方が、私が出入りしている教室に新しく入会された。太極拳が体に良いと聞いて「やってみたいと思った」とのこと。本当に素晴らしいと思う。 もし何かを実行する時に、足踏みばかりしてしまったり、深く考え込み悩んでばかりのタイプの方は、習い事を始める時も身構えてしまって悩み、結局、二の足を踏んで入会をためらうケースだってあるかもしれない。 でもこの 80 歳の方は、テレビの健康番組をみて太極拳が体に良いと知り、即、行動開始! テレビで知ってから1週間以内に教室を探し、体験に来られた。いくつになってもこのように行動力があり、積極性をお持ちの高齢者の方は素晴らしいし、見習いたいと思う。 「いい年して恥ずかしい」なんて事はない! そういえば過去に、(こういう事は、稀なケースとは思うけれど)残念に思ったことがある。 ある太極拳未経験の 70 歳くらいの方が、私が出入りしている教室へ一度体験にいらした。その方は始終、何となく恐縮した様子だった。なぜ恐縮しながら太極拳を体験されたのか。稽古終わりにその理由が分かった。 体験に参加する前に、自宅で「健康の為に太極拳をやってみたい」と家族の前で切り出したときに、ご家族から「いい年して恥ずかしい」、「今更なぜ太極拳なん

初心者の方が教室を選ぶポイントは・・

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生涯の健康法として続けられる場所を探す 初めての方が「太極拳を習ってみたい」と思う理由、きっかけは、人によって様々だと思う。映画などを観て中国武術に憧れて「太極拳でもやってみよう!」と思う人もいらっしゃるでしょう。あるいは、ご友人が太極拳をされていて、「何だか楽しそうだし、健康にもいいらしいから自分もやってみたい!」と思う方もいらっしゃるでしょう。 習い事の教室を選ぶ時、やっぱり色んな条件を考慮して選びますよね。家の周囲に教室が少ないならば選択肢はあまり無いでしょうが、いずれにせよ、あんまり遠方では通うのが大変で困るでしょう。やはり通いやすい距離の教室を選ぶという人が多いでしょう。 でも、「(健康目的か武術的に強くなりたいのか等の)ハッキリした目的意識をもって意欲的に稽古を開始したい!」とか「あの先生に習いたい!」という明確な意思が、教室探しの段階で固まっている人ならば、多少距離が遠い教室でも頑張って通うことでしょう。 私がとにかく思うことは、「太極拳は長く続けることに意義がある」、「長く続けてこそ動作を行う際の醍醐味が解る」ということ。太極拳の動作のコツは、一気に短期間では身に付きません。 軽く動作をなぞる程度ならば、ほんの1~2ヵ月でもできるでしょうが、太極拳本来の無駄な力が抜けた柔軟でバランス感覚の良い動作は、数年~十 数年単位の練習を積まないと、どんなに器用な人でもすぐにできるものではありません。 何年やれば完璧な動作ができるという事は言えない、未知の終わりのない修行みたいなものです。だから、習いに行くという事を長期的に捉え、通いやすい教室を探す。そこの先生が勉強熱心で素敵な雰囲気をお持ちならば、なおのこと良い。 自分の師匠を選ぶときは、直感も必要です。一度、教室を見学したり、体験に参加させてもらい、先生と少し会話してみて、「なんかシックリ来るな~」とか、「自分と合うかも」と少しでも感じられればベターです。 それから教室には他の皆さんもいらっしゃると思うので、その人達と先生の会話のやり取りを聞いてみて、全体的に教室の雰囲気がよく、誰もが萎縮せず、稽古に熱心に取り組めているようなら通ってみる価値があると思います。  あとは自分の感覚です。太極拳を行う際に、無駄に力んだ状態で筋肉を 固くしてしまっては良い稽古ができません。だから適度にリラックスできる教室の雰囲気

時間はかかれど成長する自分を感じる

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太極拳の初心者の場合、套路を習うタイミングで、先生の動作を見よう見まねで行いながら、大いに戸惑ってしまう。 短い套路であっても、途中、あちこち方向が変わっていくことに戸惑ったり、両手足の動きが左右対称ではなくバラバラで動いていくことにも最初は馴染めず、初心者の場合、変な踊りみたいになってしまいがち。そして、「簡単そうにみえて、やってみたら以外と難しいな~」と実感する。 今の世の中は、ファストフード、簡単レトルト食品、便利グッズに代表されるような、「 手短で便利なモノ」、「じっと待たなくてもすぐ利用できるモノ」があふれ、人々は(もちろん私も含め!)それらを上手く、便利に利用してきた。だから少しの時間なのに待つのが辛かったり、成果がすぐに見えないものに取り組めば焦ってしまう。 太極拳は長く続けてこそ意味がある。すぐに上手くならなくても、長く続けてこそ上達し、運動内容の良さも分かってくる。長く続けなければ、太極拳とは別物の踊りみたいな感じの動きに終始してしまう。 稽古を地道に継続していくと、必ず少しずつ前進していくし、普段の生活での姿勢の保ち方まで意識が変わってくる。時間はかかるけれど、成長していく自分を、何歳になっても実感できる。 人間というものは、(人によっては)高齢になればなるほど過去に拘り、若い頃の ” 全盛期 ” で時間が止まってしまう様な人もいる。そういう人は、現状への小言が多くなりがちである。 高齢からのスタートでもいいから太極拳を熱心に稽古して、ゆっくりで良いからいつも前進して、成長して、最初は難しくても素直にその教室の指導方法を受け入れながらトライしてみる。 試行錯誤しながら、身体に動きが染みわたっていくのを実感できるところまで体験することで、謙虚な自分を感じ、新たな目標もできて、高齢の方であっても、いつまでも ” 現役感 ” はなくならない。

意味が分からなくてもとにかく続ける

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太極拳の稽古を始めたきっかけが何であれ、どこの流派に所属したのであれ、太極拳の良さ、太極拳の稽古の本当の醍醐味を感じるまでには数年かかる。だから、初めは分からない事だらけでも、とにかく続けてみる。早く型を覚えるとか、そんなことは二の次。とにかく、ゆっくり動いて心地いいと感じたなら、初めはそれだけで良いのである。 初心者の人が、ほんのちょっとでも太極拳を経験してみて、「なんか心地いいな」、「細かいことはサッパリ分からないけど、なんか良さそうだな」と思えば、稽古を継続してみることをお勧めしたい。心地よさは年々増していきます。最初は頭で覚えるのではなく、先生や先輩方の動きを真似ながら徐々に身体に動作を馴染ませる、それで良いんです。ゆっくりペースでも良いんです。 稽古を重ねてきて思うのですが、急いで早く型を覚えることに意味があるとは思えないのです。焦って覚えても、おそらく「太極拳もどき」になってしまいます。太極拳本来の独特の体の動かし方や、ちゃんとした姿勢の維持の仕方は、1ヵ月や2ヵ月の短期間ではシッカリとは身につかないものです。もともと器用であるとか、運動神経が良いとか、そんなことはハッキリいってあまり関係ないです。 運動神経に自信がない人や、身体が弱い人であっても、地道に長く稽古を続けていけば上手くなるし、いつか究極のリラックスした心地よさや、絶妙なバランス感覚が身についていくのです。長い時間をかけて、自分の太極拳を醸成していく。これは凄くやりがいがあるし、太極拳の世界はチャレンジ精神をくすぐる存在です。 この太極拳というジャンルの運動、中高年や老年から始める人達もかなり多い。だから「若くないから無理、年だからできない」なんて諦める必要なし。その人が「やってみよう」と思い立った時が、その人の稽古開始の日なんです! 私の周囲にも、70歳から稽古スタート、あるいは80歳くらいからスタート、という人達は沢山いらっしゃいます。そのような方々にとって、太極拳は生涯の楽しみ&健康法になります。

太極拳に出会ったきっかけ

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私が太極拳に出会ったきっかけ。それはですね。なんのことはない、そう、「リハビリ」だったのです。当時、足を怪我してしまった私は、軽い気持ちで「太極拳ってゆっくり動くみたいだからリハビリにいいかも~」と思いつき、近くの教室に入門。 この時は、「太極拳を長く頑張ろう」とか、「長く続けて上手くなろう」とか、そんなことは一切考えていなかった。むしろ足の調子が戻ればすぐ辞めようかなという程度だったのです。ホントに、単なる短期間の怪我のリハビリ程度に・・という意識で当初は教室に通いはじめたのです。 ところがやってみると、はじめのうちは何が何だか訳が分からないながらも、嫌な感じはしないし何だか落ち着く。大声で笑うような楽しさは全然ないけれど、静けさの中で、ただゆったり動く事は、ド素人で内容がよく分からないながらも、なんとなく心地良さが感じられた。 教室を見渡すと、周囲は親くらいの世代、いや、親以上の高齢者層の方々が多く、当時まだ中高年の一歩手前だった私は、自分の親世代以上の皆様に囲まれ、同世代はほぼいない空間で、少々居心地の悪さを最初は感じたものだった。 しかし、そんな事にはすぐに慣れた・・というか、かえって走り回るような子供など元気いっぱいのエネルギーが有り余った人達といるよりも、大人の落ち着きがある空間に身を置き、何となく精神がゆとりを持てるような感覚が生まれてきた。 太極拳の稽古を始める前の数年間は、ただひたすらに、がむしゃらに、残業しながら仕事を頑張っていた私にとって、敢えて!、ゆーっくりと、静か~に動く太極拳の稽古の時間は、心が落ち着く贅沢な時間に思えたのだった。
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